8時、起床。
トースト、ハッシュドビーフ(連日)、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
昨日の『おかえりモネ』。昨日はコロナワクチンの接種予約申し込みの作業があって落ち着いて見られなかったので、NHKオンデマンドで改めて見る。それから今日の『おかえりモネ』(今週の振り返り)。サンドウィッチマンが振り返り役をするのか。
10時から早稲田社会学会の理事会(オンライン)。
会議は2時間ほどで終了。昨日のブログを書いてアップしてから、昼食をとりがてら散歩に出る。
スープカレーの店『ムラカリータ』を先週に続いて再訪。オーナシェフは村田さんという。村田さんのカレーだから「ムラカリータ」というのが店名の由来だ。
先週は平日の午後の遅い時間に来て客は私だけだったが、今日は先客が何人かいた。
前回は一番ベイシックな950円のスープカレー(野菜は6品)を食べたが、今日はワンランク上げて1200円のスープカレー(野菜10品)かつ海老の出汁スープ(+150円)で注文した。
野菜6品と10品では運ばれてきたときの賑やかさが違う(レンコン、ズッキーニ、パプリカ、ヤングコーンが追加の4品)
参考(前回):野菜は茄子、カボチャ、ブロッコリー、じゃがいも、トマト、人参の6品(スープの中に沈んでいるものある)。
カレーの辛さは「3」(中程度)と前回と同じ。やはり最初の数口は辛く感じ、しだいに慣れてくる。スープだけをひたすら飲むわけではなくて、野菜を食べたり、鶏肉や卵を食べたり、ライスを食べてりするわけなので。海老出汁のスープは旨味があるが、前回のあっさりしたスープもそれはそれで美味しいと思う。鶏肉はナイフとフォークで骨からこそぎ落としながら食べたが、最後はやっぱり手に持って食べた。この方が美味しく感じられる。
後から店員さんに確認したが、増やす野菜はリクエストもできるそうで、同じものが二つあってもかまわないとのこと。今日は茄子とカボチャがとくに美味しかった。
スタッフは店長さん、店長さんのお母様、そして店員さん(フロアー担当)の3人である。ごちそうさまでした。
食後のコーヒーは『テラスドルチェ』で。
コーヒーを飲みながら、澤田瞳子『星落ちて、なお』第三章「老龍 明治三十九年 初夏」を読む。前章から10年が経過している。主人公とよ(河鍋暁翠)は結婚し、身重になっている。
竹橋にある東京近代美術館は明治40年に開催された第一回文部省美術展覧会(帝展)の作品から展示を始めている。それが「日本近代美術」の立ち上げイベントであるという認識があるわけである。小説では、その前年、日本画と洋画という新旧の構図を背景に、伝統的な日本画に留まる(堅持しようとする)一派と積極的に洋画の技法を取り入れようとする一派の確執が描かれている。とよは前者であるが、同じく(というよりも彼女以上に父暁斎の画風に固執する)兄との確執(一種の近親憎悪)も描かれている。しかしその兄は病で余命いくばくもない。消える蝋燭の炎の最後の輝きのように画業に打ち込みながら、妹に父の画風の継承を託す。二人の間で取り交わされる会話(地の文は割愛)。
「俺がくたばった後も、おめえはあんな雑種絵を描くんじゃねえぞ。いくら世間の奴らが褒めそやそうとも、あんな絵は所詮、欧米の真似事に過ぎねえ。おめえは親父から叩き込まれた自分の絵だけを信じろ」
「自分の絵ねえ、あたしに描けるだろうか」
「描けるに決まってら。おめえは俺の妹だぞ。誰よりも親父の傍にいたおめえが描けずして、誰が河鍋の姓を継ぐってんだ」
「どうしたってんだい、兄さん。明日は雪が降るんじゃないだろうね」
「ああ、そうだな。雪になるかもしれねえ。だから、よく聞いておけ。おめえの仕事はおめえ一人だけのものじゃねえ。親父や俺が生きた証でもあるんだよ」
「まだ5月なのに梅雨のよう」ーみんなそう思っている。残念な今年の5月。
でも、明日は久しぶりの晴れ間が広がるようである。
帰宅して、nappeの朗読劇「コンタクトレス・シーケンス」を視聴する。5月15日に江古田の「兎亭」でリアル公演されたが、その録画の配信である。
出演は小林カナと小林龍二(神野剛志とのWキャスト)。脚本は立夏。
あらすじ(主催者による)
シロサキ譲葉は、昼も夜もなく働くひとりのシステムエンジニア。
彼は繰り返される労働の果て、バス通勤中にふと訪れた30分の空白に立ち尽くす。
「次のバスが来るまでおおよそ30分後」
その空白の時間に訪れた図書館には、
ひとりの図書館司書──アリムラ撫子が、
一冊の童話を子供たちに読み聞かせていた。
譲葉はそれから、空白の時間に図書館を訪れては、
彼女の読み聞かせに耳を傾けるようになる。
譲葉と撫子。ふたりが出会った春から季節は流れ、秋。
約束の日から突然に姿を消した譲葉を、撫子はひとり、待ち続けていた……。
ふたりの出会いと別れの物語を、
譲葉は「出会いから別れ」へと語り、
撫子は「別れから出会い」へと語る。
ふたりのシーケンスがすれ違うように交差する、ふたり朗読劇。
「コンタクトレス・シーケンス」
これは、大人のラブストーリー。
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シロサキ譲葉(ユズリハ)は40歳のシステムエンジニア、有村撫子(ナデシコ)は20代半ばの図書館司書。
普通は接点はないだろうが、接点が生まれ(シロサキがそれを求めた)物語が展開していく。デートに誘うことに成功し、夏の日の公園の池でボートに乗る。ちょっとしたイザコザが生じるが、それは二人の親密さが増すために必要なプロセスである。ある日(彼女の誕生日だったか)、デートの待ち合わせにシロサキが姿を見せなかった。前日、交通事故に遭って意識不明で入院したのだ。事情を知らないナデシコは突然自分の前から姿を消したシロサキを待ち続けるが、3カ月が過ぎ、自分は捨てられたのだと自分に言い聞かせる。でも、最後はハッピーエンド。意識を回復したシロサキが花束を持って彼女の前に姿を現す。大人のラブストーリー・・・というよりも、大人の童話である。
話の筋はこうだが、実際の朗読劇は時間軸の通りには進まずに、あれこれのエピソードが前後しながら二人の役者によって語られる。だから一度聴いただけでは、話の順序が少々わかりずらい。ジグゾーパズルの最後の一片(ラストシーン)が置かれて、それまでの断片(エピソード)が時間軸の上にあるべき配列にきれいに並んで一枚の絵になるという仕掛けだ。
視聴しながら、ときどき、目を閉じて、ラジオドラマのようにして聴いてみた。初めからそうやってもたぶん最後まで聴くことができただろうと思う。目を開けると、画面の中に役者の姿が見える。私にとって二人は初めて見る人ではないので、声のイメージと実際の容姿がズレるということはない。朗読劇は、劇場にリアルで観るにしろ、こうして配信で視聴するにしろ、役者の身体(容姿や表情や動作)についての情報がラジオドラマより豊富である。逆に言えば、視聴者の想像力は抑制される。また、劇場でリアルで観るのと、こうして配信で視聴することとの差は、配信ではカメラが3台使われているので、劇場の椅子に座って観るよりも視点が増えるということだ。ただしカメラの切り替えは私が行なうわけでないので、テレビドラマを観るときのように受動的な視聴者となる。劇場で観れば、終演後に出演者との面会という楽しみがあるが、今回はコロナ対策でそれができないので、配信で観ていても「面会できなくて残念」ということがない。
こういうことをあれこれ考えながら配信される朗読劇を聴いた背景には、いま私が対面授業とオンデマンド授業の両方でやっているということがある。前者は劇場での演劇であり、後者はラジオドラマである。経験が浅い分、後者の方がいろいろな可能性を秘めているように感じている。
夕食は冷製豚シャブ、味噌汁、ごはん。
サラダの上に茹でた豚肉を載せて、ポン酢をかけまわして食べる。
デザートは、豆乳ゼリーのようなものに小豆あんを載せて。
食事をしながら『恋はDeepに』第6話(録画)を観る。三兄弟の末っ子の野望が明らかになる。
土曜日のいつものお楽しみ、『福山雅治 福のラジオ』をタイムフリーで聴く。
同じく土曜日のお楽しみ、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(ただし先週に続いて住吉美紀が代行)をライブで聴く。
風呂を浴びてから、今日の日記とブログ。
2時、就寝。