フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月28日(金) 晴れ

2021-05-29 13:06:10 | Weblog

8時15分、起床。

トースト、サラダ(+チキン)、牛乳、紅茶の朝食。

昨日のブログを書いてアップする。

今日のゼミの発表資料(Moodleにアップされている)に目を通す。

昼過ぎに「まやんち」に取り置きをお願いしておいた品を受け取りに行く。

ひる

店主のマユミさんとお手伝いのカナさんがいらした。

テイクアウトしたもので昼食。

サーモンのキッシュ。

フォレノワール(左)とタルトシトロン。タルトシトロンにココアのチップが付いているのは運んでくる途中で揺れたからである。

2時前に家を出て、大学へ。

3時から研究室で卒研指導。

4時から留学についての相談。

ゼミが始まる前におにぎりを1つお腹に入れる(2つ食べている時間はなかった)。

今年度のゼミの教室は32号館201教室。33号館から渡り廊下を通って行く。渡り廊下は旧棟のときからあったが、新棟が立った時に新しく同じ場所に付け替えた。

5限は3年ゼミ。いま関心のあるテーマにうちて3名が報告。

6限は4年ゼミ。ゼミ論について2名が報告。

ゼミを終えて、残しておいたおにぎりを研究室で食べる。汁代わりにミニカップワンタン。

『星落ちて、なお』第5章「赤い月 大正十二年、初秋」を読む。大学に来るときの電車の中で途中まで読んでいた。「大正十二年、初秋」とくれば、当然、関東大震災のことが描かれているわけで、主人公とよは道具屋の廣田と人に会いに品川に出かけているときに地震に遭った。電車の中でこの直前まで読んで、続きは授業の後にとっておいたのだ。

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 野分を思わせるうなりが、突如、廣田の言葉を遮った。風が強くなったのかと上げた目がぐるぐると回り、海の青さが吹き散らされたように踊る。いや、違う、回っているのは、とよの視界ではない。目の前の景色がひっくり返した籠の中身の如く覆り、何が上やら下やら区別がつかない。

「う――うわあッ」

 耳をつんざく絶叫は自分のものか、はたまた廣田のものなのか。逃げようとする足がもつれて倒れ伏せば、腹ばいの下の地面は固まりかけた膠の面そっくりに波打っている。地震だ。

 小間物屋の店先に積み上げられていた笊(ざる)がざっと崩れ、一瞬遅れて、その上に屋根瓦が滝の水のように降り注ぐ。だがいまのとよにはけたたましいはずのその音すら、皆目届いていなかった。

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私の父は大正12年8月の生まれで、住んでいたのは浅草だったので、震災のときは母親に背負われて(水に濡らしたねんねこ半纏を被って)炎の中を逃げ回ったそうである(もちろん本人には当時の記憶はない)。

東京の下町に残っていた明治の面影はこの震災で消えた。中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは昭和6年のことである。

「赤い月」というタイトルは私に志賀直哉の「灰色の月」を思い起こさせた。昭和21年1月に『世界』に発表された作品で、山手線の車内で、空腹でうつらうつらしている少年工が「私」の隣に座り、「私」に寄りかかってうとうと始める。「私」は反射的に肩で押し返してしまう。少年は上野で降りるつもりであったが、乗り過ごしてしまう。乗客が注意すると「どうでもかまはねえや」と独り言を言う。「私」は暗澹たる気分で渋谷で降りる。そういう話だ。 

蒲田に着いて、「ちよだ鮨」で握りをテイクアウト。帰宅して、風呂に入ってから食べる。

『星落ちて、なお』最終章「画鬼の家 大正十三年、冬」を読む。他の章より短く、すぐに読み終わる。

最後、とよが作家村松梢風のインタビューに答えて父暁斎について語り始める場面で終わる。

「とよは己の言葉を噛み締めながら、朝にもかかわらず薄暗い画室を見回した。かすかにたゆたう膠の匂いは紛れもなく、かつてここに輝いていた星の残影であった。」

もしかしたらこの小説全体がとよの回想なのかもしれない。という気持ちで、最初の頁に戻ったりした。

裏表紙の見返しに「67歳 初夏」と記す。

ラジオを聴きながら、今日の日記とブログ。

2時、就寝。