8時、起床。
朝から雨がパラついている。梅雨の中休みは終わりけり。
ロールパン、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
本日の『らんまん』。歌留多勝負は祖母の勝ちだが、寿恵子は峰屋の嫁として合格した。そこで見せた気遣いが認められたのだ。一方、竹雄は万太郎の姉綾に自分の気持ち(好きだ)を伝える。東京には戻らず、彼女の側で彼女を支える決意の表明である。
9時半に家を出る。時差通勤をしているサラリーマンも一定数いるから、自分も通勤している感じがする。東京駅丸の内北口前で。
木曜日は2限と3限に授業(演習)がある。
2限は演習「現代人と社交」。今日は欠席者がいつもより多かった。報告は3本。
「立ち飲み居酒屋におけるサードプレイスの形成」
「野球観戦を通じた会話からみるサードプレイスの可能性」
「『れもんハウス』から考える新たなサードプレイスの可能性」
立ち飲み居酒屋、野球場、隠れ家風な居場所的施設、着目したフィールドが三者三様で面白かった。
昼食は研究室でコンビニおにぎり。昨日に続いてだ。明日はそうならないようにしよう。
3限は大学院の演習。これからの時代の「人生の物語」についてディスカッション。
授業を終えて、ミルクホールにスイーツを買いに行く。
レモンクリームのデニッシュ(200円)。コーヒーはインスタントで。
昨日のブログを書いてアップする。
雑用を片付けて4時半頃に研究室を出る。この流し台は研究室の外にある共用のもの。よく思うのだが、棚に並んだ湯呑やコップは所有者がはっきりしているのだろうか。共用ということはないと思うのだが、もし共用だとしても私は使う気にはなれない。
私は自分の所有するカップや皿は自分の部屋に置いている。
予報では傘マークだったが、傘を差すほどの雨ではない。
メタセコイアは針葉樹。
蒲田に戻って来る。まだ傘を差すほどの雨ではない。
「一二三堂」に寄って雑誌と本を買う。
帰宅して、玄関にお出迎えにのチャイを外に連れて行く。ポスト・キャット。
『NHK俳句』7月号。20日発売だが、20日は火曜日で「一二三堂」は定休日だった。昨日は教授会(オンライン)が終ったのが6時半で、7時閉店の「一二三堂」で買うことができなかった。『NHK短歌』7月号は「有隣堂」で買ったが、俳句の方は「一二三堂」で買うと決めているので、今日になったのである。
よく短歌と俳句を比べて、短歌は情緒的で俳句は写生的という言い方をする。たしかにそういうことはいえる。しかし、俳句が情緒を詠めないわけではない。講座の中で村上鞆彦が、恋愛を詠んだ句を、恋愛の始まり→高揚期→倦怠期→恋愛の終り(終わりの始まりと終わりの終り)というプロセスに対応させて紹介している。お見事です。
木犀(もくせい)や恋のはじめの丁寧語 南十二国
くちづけのあとの真っ赤なトマト切る 大高翔
春泥を来て汝(な)が部屋に倦みにけり 榮猿丸
野にて裂く封書一片曼殊沙華 鷲谷七菜子
秋風や殺すにたらぬ人ひとり 西島麦南
夕食はポークソテー、はんぺんのバター焼き、味噌汁、ごはん。
次に「喜楽亭」に行ったときはポークソテー定食を注文しようかと考えていたが、今日食べたので、やはりチキンカツ定食になるだろう。
はんぺんというもの、おでんの具としては好まないが、バター焼きならいける。
「一二三堂」では雑誌の他に本を二冊買った。
杉本昌隆『師匠はつらいよ 藤井聡太のいる日常』(文藝春秋)。『週刊文春』2021年4月8日号から2023年4月27日号までの百回分の連載を本にしたものである。当初、藤井は「二冠」であった。それが「あとがき」執筆時には「六冠」となり、「七冠」を目指して渡辺名人(当時)に挑戦中であった。なんというスピードであろう。
財津和夫『じじいは蜜の味』(中央公論新社)。財津和夫も75歳。自らを「じじぃ」と呼んで違和感のない歳になった。「老いの味わい」を語ったエッセー集。
『岡田惠和 今宵、ロックバーで~ドラマな人々の音楽談義~』をNHKの「らじる★らじる」で聴く(NHKのラジオ番組は民放のradikoでは聴けない)。ゲストは彼が脚本を書いた『日曜の夜ぐらいは』の主演、清野菜名。この番組は初めて聴いたのだが、「ドラマな人々」というのは岡田が脚本を書いたドラマの出演者ということだろうか。それとも今日はたまたまそうであっただけで、いろいろなドラマの関係者が出演するのだろうか。岡田はすでに大御所といってよい人だと思うが、若手の俳優相手に偉ぶったところがまったくなく、とても好感のもてる対談であった。次回も聞いてみよう。
風呂から出て、今日の日記を付ける。
2時、就寝。