King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ファイナル G6 ヒート対スパーズ

2013年06月20日 21時59分03秒 | バスケ
秩父で最近できたお茶処とイタリアンレストランそれに秩父の
行ったことのない温泉といずれも行ったことのないそれらの店を
ざっと梯子してきました。

秩父の場合下手をすると一年もたたずそれら新しい店は跡形も
ないなんてことがあるから新店舗は早めのチェックが欠かせません。

さて、スパーズ王手で迎えたヒートのホームでのゲームでした。

先発は前と同じで、スピードと高さと優位に立てるところを前面に
出してきたスパーズにリードされて始まりますが、ヒートも高さの
ないゴール下でダンカンに連続得点されるものの前回まで許して
いたグリーンやニールなどのスリーはケアしているようでした。

そして、なぜかアンダーセンを今回使いハスレムを使わないという
その使い分けは意味が解りません。

インサイドでのファウルが心配なのでハスレムとアンダーセンと
積極的に投入して守るべきなのではないでしょうか。

前半ダンカンに多くを決められてしまうのはある程度織り込み
済で、あえて速攻も積極採用せず、レブロンも突出しないよう
セーブしつつ、相手が一番やりたい形でヒートが勝って見せたように
も見えました。

とにかくベテランやけが人が多いスパーズにはスピードをある程度
保って長く戦うのは不利であり、このようなタフな試合は本来は
やりたくないはずです。

そしてヘッドコーチの性格からこのように選手に無理を強いるような
形でも勝ちを取りに来ることも十分予想してのこのオーバータイム
までもつれ込む形を望み実現してきたものと思います。

土壇場に目立ったレイアレンの勝負強さと、残り5秒を残しても最後
決めきれなかったスパーズは、これでシリーズでの勝負の分かれ目で
不利なカードを選んでしまったのではないかと気がかりです。

確かに、レブロンのワンノンワンが実はハーフからでは大した脅威とも
ならず、インサイドに飛び込んできても一人ならつぶせるというシーンが
今回目立ちましたが、これも明日はまた都合よくそのままのヘタレの
ままでいないような気もします。

ヒートは明日はそれこそ全てのリミッターを外してオフェンスを
短期集中型で守りからフルスピードで攻めるかさにかかった姿で来るでしょう。

それを早目にファウルなどで止めてがっぷりと四つに組んで戦えるか
それとももはやベテランでがたの目立つ選手たちにまだ今回のような
力が残っているのかという感じです。

最後までどちらに転ぶのか解らないような今回の二転三転する主導権
争いの中で冷静なコート上でのスーパープレーの数々がまた最後の試合で
どれだけみられるか楽しみです。

私の予想は、この試合がオーバータイムにもつれ込んだことと、最後の
5秒というNBAでは十分な時間がありながら再逆転できなかったスパーズに
もはや残されたものはそんなに多くないのではないかと思います。

いずれにしても最後の試合で秋までまたしばらくお預けなので、十分
楽しみたいと思います。
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『色彩を持たない田崎…』を読んでみた

2013年06月20日 13時40分07秒 | 読書


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 』を読了。

ゴールデンウィーク中の日経の文化欄でこの小説が取り上げられていてそれが
とてもよく内容的にできていたのでとても興味を持ってみました。
それと、テレビのワイドショーでカフェでこの本を読む人が取り上げられていたり、
この本を読んだとバイト先で話題に出しただけで扱いが変わったとか世間の関心の
高さをうかがい知ることができ、小説と世間というのはこんなに隔絶した社会構造なのかと
思ったものでした。

さて、これの本は例によって積んであった本の中から無造作にすぐ読めそうだから
選ばれたものですが、いつものブックカバーとは違い、珍しい名前のカバーがかかって
います。

私の記憶によれば、秩父の本屋さんでは一時平積みになって特設コーナーができ
それがすぐ売り切れになり、直ぐは入ってこなくてネットでも予約状況になっていた
のです。

それが、旅先で見かけたから買っておいたというものです。

ことさら売れた本ということや世間の反響のせいで期待も高まるのですが、結果から
いうと何とも落胆が強く、これはこんなので小説としては合格点なのかと疑問が
湧くのです。

というのも、前半の山場である、死のトークンの話は実に興味深く深遠なところに
話が向かうのかという期待と私の実体験も重なる部分があり、作家の力量と才能の
動くさまが実感できたのですが、それもそのままで結局、その話をした年下の友人も
行方不明でジャズピアニストもいたのかどうかというあやふやな回収されず物語は
配置はしたけど回収せずの結末で、これでどうしろというのかという気持ちの悪い状況で
終わってしまいます。

今朝思ったのは、私の良く見る夢の方がはるかにリアルで怖くてもう一度寝るのが
いやになるくらいで、実に複雑でいてそれが実は人生とか世の中の仕組みそのもので
それを語ってはいけないようなばらしたそばからそこにとらわれてしまうような奥まで
知ったがためにもうそこから抜け出せない世界があるというばらしたら終わりの物語を
結局自分は語る資格も能力もまだ十分でないと感じつつ、でも他の作家に世間が
認めているような人気につながるほどの実力があるのかとまったく疑問に思い、
その筆頭であり、張本人がこの村上春樹なのだと思います。

確かに、語られるのは巡礼の旅であり、本人が書きたかったというのは共同体を
追い出される物語であり、なぜとか巡礼そのものやその構造は全然バックにすら
ならないのです。

ただ、そんな物語が書きたいがそもそも小説の出発点で、そして書いただけです。

意味もなく、深くもありません。

かつて、ノルウェイの森や海辺のカフカで書中の主題に絡む登場する音楽は何度も
聞きこんでその物語を音楽の側から投影してみようと聞いてみましたが、今回は
やりませんでした。

それは日経文化欄に書かれたコラムを読んで結局それは道具立てだけで、物語を
深く意味づけるほど作家が音楽に精通してストーリーに絡む意味も音楽的雰囲気も
感じて曲を登場させているのではないと解ってしまい今回のリストの巡礼の年も
買ってみませんし、改めて聞いてみることもありませんでした。

ただ、今回の場合、巡礼の年は何度か耳にしたことのある曲で、この曲に触発されて
作られた映画や映像関連の話は事欠かなくて、この曲からある映画がずっと思い
出されてくるものがありました。

それは、フランスの資産家が亡くなり、相続人が遺産を相続するにはスペインに
巡礼の旅をしなくてはならないというものでした。

日本の札所巡りのようにヨーロッパにもキリスト教の聖地を歩くコースとそれを支える
仕組みが今でもあり、それをドキュメントにしたテレビなども何度か紹介されています。

ときにクラッシックの名曲とその巡礼道が紹介されるビデオなどもよく目にすることが
あります。

それらに映画や番組でのテーマは現代社会とは違う歩いて巡るヨーロッパの古い町と
その風物だけでなく、歩くことにより発見されるさまざまな現代社会の矛盾や体験的
文化紹介です。

小説には何の昇華される体験も魂の救いも結末もありません。

このほおっておかれて投げ出された感じにに浸りたい方には打って付けですが、
世の中これだけの対価を払えばそれに見合った体験なり感動なりを受けらるのが
資本主義社会では当たり前とされているのに、世の中の人があれだけ騒いだのに
実際には何の心の糧も得られずというのは逆に珍しいのではないでしょうか。

この間『冷血』などは直後にNHKの番組に作家本人が事件の現場に取材する姿を
みて、作品にするためにこれだけの努力と行動があるのかとちょっと感心するような
合田刑事の目線と合田刑事の心の動きとはこうして作られているという作家の良心を
見るかのようなことがありましたが、一方の村上氏といえば次のノーベル賞候補と
いわれ、京都の大学で講演しただけでそれがニュースに流れ、何を語ったのかが
探られて情報番組で特集されるというちょっと動くと世間も動くような扱いに、増々
それほどのことという白けた思いが増してしまいます。

作品の中に音楽が度々使われるというのもひところ羊がよく出てきたのも、ひょっと
して漱石へのオマージュなのか、今行われている展覧会の夏目漱石の美術世界に
みるように音楽を登場させて場を盛り上げたり謎めかせたりさせているのは漱石の絵
に対して自分は音楽なのかと思ってしまいます。

人々はこれらの行動に小説の小道具として使うという見方をしますが、芸術世界として
それは一部であると作家特に漱石は感じて絵に触発されて物語を作ったような感じが
します。

しかし、村上さんの場合は、自分の今の人気からすればこんな誰も聞かないような
クラッシックの音楽も取り上げれば社会現象になるとばかりに無理無理な感じで
主人公が大昔の貴族のために書かせた曲を繰り返し聞くという芸術世界とは無縁の
沙汰を演じているように思えてなりません。

それは高村作品でも作家自身が好きでブラームスの交響曲がでてきたり、合田の趣味
がバイオンだったりそれは作家の体験であり、思考経路に沿ってでてくるものだと
思われます。

芸術を語るときに同時に織り込まれた自身の芸術感性が反応して音楽にも触れずには
いられないのです。

それに比べると村上作品の音楽の使われ方が実に軽くて芸術感性的に必要もないのに
やたらと道具立てしないと物語が成り立たないという小手先のテクニックに過ぎない
ような違和感を最近は先に感じてしまいます。

ただ、この本の死のトークンにはビックリとさせられました。

多指症については『螺旋』でも出てきましたし、歴史をよく知る人には初見でもなく
ピアニストと絡んでこれも最後回収されるネタとして配置されたのだと思ったら
使い捨てだったのです。

身近に起きたこととしては、猫とかカエルも多指症がよく話題になるのですが、
当店の看板猫は少指猫で左の前足の指が二本なく、最近は朝確認する度に
いろいろな傷が増えています。

この猫も不思議な猫で、今まではおとなしくあまり家にいない猫だったのが、
つっつくん亡き後は看板猫となり、少指猫となってからもずっと外でお客を待ち続け
呼び込みのために人を見かけると鳴きかけるという任務を忠実にこなしている
のですが、困難な猫生もあるらしく、日に日に毛の抜けるような生傷が増えています。

ほうらこう書くとなぜ看板猫に傷ができるのか知りたくなるでしょう。

なぜ看板猫の指が二本足りないのかも。

最近小説はそういう配置があっても自分だけが発見した人生の秘密や教訓を
やっぱり書くのが惜しくなって書かなかったり、書いているうちに書くほどのこともなく
放置してしまう出来の悪さが目立ちます。

やはりそれは作家の力量とか安易に放置プレーを許す読者の責任かもしれません。

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