King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

セントオブウーマン的週末の出来事

2019年03月18日 12時20分36秒 | 珈琲

ローカル路線バスの旅Zは二回連続失敗しているので、今回失敗すると

番組降番をかけて挑む野島崎灯台から大内宿ということで、私が今年見のがした

あの大内宿に行くのかとこともあり、興味深く見ました。

 

印象としては肝心のドラマ性とか人々との出会いやふれあいという番組が本来

持ち味としていたものがこのコンビになりやはり失われているなあという

残念なものです。食事したり一日が終わり最後の食事の際にはその日の進んだ距離を

地図で見せて乾杯するお決まりのシーンなど太川や蛭子のキャラが光るところですが

今の田中、羽田にはそれをほうふつとさせる名シーンという再現ができておらず、

番組ファンとしては矢鱈と失望の念が浮びネットでの評も芳しくないのです。

 

しかし、これを放置して続けている意味としてはこのテレビ局は様々な旅番組をやって

おり、ない物ねだりでみてしまうという効果を狙っているのかとかんぐってしまいます。

さて、問題はこの旅番組ではなく、BSでやった古い映画『セントオブウーマン』です。

これは何度か見ていて、偏屈な盲目の退役軍人とアルバイトでその面倒を見る名門校に入った

公費支給の苦学生という到底面白い展開など望めない設定から最後は名場面として残る演説で

苦境を脱するという見終わってほんわりした気分になれる映画なのです。

 

アクションもハイテクもビジュアルエフェクトもないという俳優の演技力が問われる設定で

そのセリフ回しや独特の台詞でその場を仕切り自分のペースにしてしまう圧巻の演技には

現代の映画では見られないものがあり、なんでこんなに心に残るのかと見終わってからも

ずっと考えてしまいました。

 

who areという掛け声のような一言で人々の注目と関心を集め、挙動や言動には横柄で

いてそれでも憎めない人を取り込む魅力と迫力があり、何でも自分のペースに持って行くと

いうこういう人物は私の周りにもいたのです。

 

そういう人を見てきていたから余計自分も含めて憧れと人と人の交流とかふれあいの根源的な

ものを考えさせられてしまうのです。

こういう純な映画というのは齢をとり酸いも甘いも色々と世の中を見てきてしまうと簡単に

受け入れて楽しめないという経験はあり、今回も20年を経て見返してがっかりして色褪せてみえたら

いやだなあという危惧はあったのですが、それがまるで外れて逆に鮮烈に以前より深く見れた

感じがしたのです。それはセントオブウーマンという題になったものが表すようにアルパチーノの

退役軍人が付けている香水の匂いからその人の人となりから容姿や雰囲気までを言い当てるという

特技のような設定に共感覚のようなイメージも重なり、あの魔界のヴァイオリンの時のような

感じで見られたので余計深く見られたのかもしれません。

 

そもそものテーマは全てに絶望しまっくらだという深い絶望と盲目の闇に対して、学生とのふれあいから

生きてみようと思ったそのお返しに彼の審判の席で演説で窮地を救うという行為は一見学生と元軍人の

友情の様にとらえられテーマとしてその感情の交流と感動のスピーチがその成功とともに見る人をほんわりと

させるのかという解ったようでなんとなく納得しないところに二人を呼び止めた教師の香からフランスの香水と

その名前を言い当てその人となりを言い表して見せるシーンでそういう事かというこの物語の主題のセントオブウーマンと

いう題が付いてるわけも納得がいくという構造になっていてやられたという感じにされるのです。

 

この映画の構造は本当に一杯の珈琲の物語に酷似しており、香りから想像される物語と実際に

一口含んだ時の印象から、一口一口また深まる味とその展開と飲み終わり、上ってくる残り香と

後味に今まで感じていた幸せの感じと最初の印象が蘇る香りの印象と全てが一つで珈琲の物語と

なっていることとこの映画の構造が同じであることに思い至るのです。

 

そして今ならこの味と季節によりその物語を合わせてみるとよりその構造を知るものでなければ

成し得ないものを感じるのでした。

 

コメント
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