King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

桜近づく

2019年03月28日 10時46分05秒 | 珈琲

私のランニングコースには看板もないホルモン焼きの店があり、不思議な存在といつも

気になっていました。

出来た当時、真っ暗な金仙寺原にポツンと明かりが灯り、寒さに落ちた気分を明かり一つ分

の温もりで少し気分を上げてくれる存在でした。その後、辺りに住宅が相次いで出来てそんな

の中の一軒家という感じから中間地点的な目印に変わりましたが、相変わらず人の温もりが

感じられる明かりは夜の寒さに一筋刺した光明の様に暖かい目印に変わりありません。

 

ひざの痛みが恒常化しているこの頃、全く同じようにバスケットの接触から膝に痛みがあり

スキーにも影響を与えたという記述が7年前にも書いてあり、昨年の夏のバスケットの練習と

試合での接触とこの一年膝痛が続いているのも前にもあった事かと何も深刻に考えることも

年齢的なこととすることもないような気になりました。

 

走っていると痛い時もあるものの走り続ければ痛みは消えるので、やめてはいけないように

思えるのです。今では難しいコース全てを通してK5分ペースで走ることもできないとあきらめると

年寄りの散歩と変わりありませんが、今でも痛みや苦しさの中、K5分のペースに上げられる時間帯が

訪れるのでこれをなくしてはならないとあきらめないことと続けることにこだわっています。

 

季節を肌で感じその変化を一番感じるのもこの走っている最中に起きる出来事からです。

 

それは疲れて気持ち的に落ちた時に嗅ぐ街の匂いとか花の香と時には新芽の出てくる香りもあり、

真っ暗の中でもいつもは聞かない鳥の声とか寒さや温かさといった肌に感じるもの以外のものにも

敏感に影響を受けるのがこの走りの最中なのです。

 

風の音の変化も直に空気の塊にぶち当たるからこそ解ることで、車移動や自転車やバイクとも違う

肌で感じる空気感というのがまるで違うのです。

 

それはゆっくりと散歩するのとでも違い、走りその空気にぶち当たる感覚と暑い時にはその暑い空気の中を

もがいて泳いでいるときのように喘ぐのもそんな時にふと感じる草の香とか花の香りの鮮烈な匂いに如何に

救われるかやってみた人でないとなかなか理解されないことです。

 

これなどは禅宗の公案と似ていて実際の禅問答や座禅体験と同じでやってみてわかる感覚という

ものです。

 

禅宗でもただ考案の問答集と答えが重要なのでなくあくまで自身がどれだけ今まで自分の中の

仏性やら悟りに至るイメージを突き詰めたかが重要で仏教の理解と自身の深まりと対峙できたか

を問われただけに過ぎないのに世の中では案外もっと安易に答えを求めるのです。

 

そんな精神世界の話でなくてもトラックドライバーでもあるときいつも同じ道を走り、

夕陽を見て突如何かを悟ったような思いに駆られそれからもうその時の思いを思い出すと

同じ道を同じ気持ちで今までのように走れなくなったという体験を聞いたことがあります。

 

世間ではあと数日で新元号が発表になると新時代の到来と盛んに言っていますが、

さすがにもう早春賦の感じとは違い、この空気と桜の花とまた次のブレンドのイメージが

固まりました。

 

やはり春の到来の中飲みたい味と桜咲く春と新時代とはどんなものか。

皆さんはどんな春の中にいるのでしょうか。

コメント
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