King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

季節と珈琲と連休後に思うこと

2021年05月06日 16時07分16秒 | 珈琲

昨年の連休はコロナ禍で道の駅も閉鎖となり、ロックダウンさながらの警戒をして迎えたのです。

ところが、三度目の緊急事態宣言を発令する事態になった今連休は人々はこの

緊急事態になれてしまい、マスクしてればいいだろうとか

息抜きにどこか行くくらいいいだろうと自分のリフレッシュを優先

させる人が増加してどこの観光地も人であふれ、都内では酒の提供が

できないので神奈川や千葉、埼玉といった地に連休を過ごしに来る人が

増えたようです。

 

秩父でも昨年はオープンできなかった芝桜の丘も道の駅もオープンして

普通のスーパーでさえ人でごった返していたのです。

当店にも普段見えない方の来店が相次ぎ連休だなあという感じでした。

 

外には出ないでいると丁度良い気温で過ごせますが、外では暑いくらいで

珈琲豆を求めてくる気温ではありません。

それでも途切れなく来店者があり、車は他県ナンバーのものが多く大阪やら

東北やらということもあります。

連休の初めはいつもの常連さんが混まないうちにという方が多く来店

されていましたが、どなたもいろいろ話したいけど忙しいという様子で

これからの連休予定が皆さん色々あったようです。

 

そんな中、私は全く変わりなく同じことを繰り返し夜は相変わらず

10Kのランニングをするだけです。

 

ただ、どうしても言いたいというか伝えたいのはこの前も書いた

花の香りです。

 

躑躅という花に思い出が特に強いわけでもなく、好きなにおいとか

好きな花というわけではないのですが、一番の思い出というと

ワープロが出始めの頃ある方の書いた本の原稿をリライトと活字に

するという仕事を頼まれたときにその方の原稿が幼い時の思い出

のことを書かれていたのですが、躑躅の花がモチーフになっていた

こととそれが唐突な終わり方でこんなので本にできるのかと不思議に

思ったのであわせて記憶に強く残っているのかもという経験があります。

 

私の心配をよそにその唐突な終わり方のその方の幼少期の記憶は

実際本になり書店で手に取りそのままの終わり方だったのを確認した

記憶があります。

 

幼少期の記憶とは戦時中の体験でその手の話は実際に私の父や母など

から聞いていたし、学校などでも授業で戦争体験を聞くとか年寄から

昔の話を聞くものはありました。つまりは大概の情報は既出でどれも

変わったことはありません。その方の話も群馬の方に疎開して航空燃料に

するのに松の根を掘らされたり食糧難で躑躅の花を食べるというものです。

 

現代でも花は食料になるというのは普通の話で、なにも珍しくもなく、

藤の花など私が鉄道時代に支配人をした食事処でも出しました。

躑躅の有名な群馬の公園なども何度も行っています。そんな毎年咲く

珍しくもない花ですが、昨日の夜はまたその横を通るとはっとさせられる

鮮烈な刺激を受けたのです。これは仏教でいう大悟小梧と同じなのです。

 

ただ毎日同じことをしているようですが、花の香りにはっとした悟りのような

境地にさせられるそんな体験があるのでまさにこのランニングこそが毎日焼く

珈琲の源泉であり、季節のブレンドのもとでもあるし、私が焼く珈琲の味の

源泉だと思っています。

 

季節を感じと簡単に言いますが、このような一瞬のためといっていいという

説明を度々していますが、忙しい現代人に季節を感じるとはスーパーの店先の

果物や野菜の入れ替わりだったり朝のワイドショーの挨拶の変化くらいで

現実に肌でその変化とか身に感じて生きている方はお百姓さんや漁師さんや

お天気キャスターでもそう肌感覚で感じている人は少ないのです。

 

しかし、化学物質で660もの種類が検出されている珈琲はその複雑な魅力は

香りでも実に豊かな物語を含んでおり、さわやかな香りや南国で受けていた

風を感じたり、フルーツや花の香りといったスペシャルティの特徴とされる

香りも皆ジャングルの周りの花や植物や動物の息づきを伝えるかのようであり、

豊かな恵みの中で育ったものであることを想像させるのです。

 

昨日の夜の押堀川からキヤノンへ至るところで感じたことは既にこの界隈で

アカシアが咲き、躑躅が薫ることは知っていてのことであり、それでも躑躅の

横を通ったらああ躑躅の香りだと思うのではなく、一瞬に大悟と小悟を得たような

恋の誘いとその醍醐味とを一瞬に味わったような人がなぜ恋に落ち、人とのかかわりを

築いていくのかということを一瞬ですべて見せられたような感覚に陥ったのです。

 

だからと言ってこの花に強い思い入れとか香りに強い思い入れが生まれている

ということではないです。

昼間の公園で嗅げばああ躑躅が咲いているなの意識しか浮かばないのです。

この毎日のランニングと珈琲と季節は阿闍梨が千日行を行うのと同じです。

躑躅の花の香りだけでなく、飲み屋の電飾看板や切れた街灯にすらときには

そんな瞬間を感じさせられます。まさに仏教僧の大悟小悟の世界です。

 

チェーン店のマニュアルにはないもの。それでは再現できないものも

あるのです。

 

そんな話を聞きたくて来店された方々に今年も試飲は自粛中で予約のみと

なり遠くからお越しの方もお断りしており早く元に戻ってという思いは

募るのでした。


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