きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

ご報告

2014-08-07 | 父の記録と母の思い出
父が亡くなりました。

と言われても困ってしまうと思うのですが、ここまで父の様子を綴りながら、それを書かないのもどうかと思い、報告する次第です。
親の事なので会社にも休みをもらい、これからのこともだいたい決まりました。
何より妹がしっかりしているので、自分は背後霊のようになっています。

こういう気の利かない頭の使えない自分の性格がキライでたまらなかったのですが、これはこれで「割れ蓋にとじ蓋」なのかもしれません。私のようなのが二人でも困りますが、妹のようにしっかりした人材が二人いることもないでしょう。そんな風に考えて、これからはこんな自分も「よいではないか」と思うことにしようと思います。

会社とG子に連絡しましたが、OMさんはどうしようか。
OMさんのお父様の時は田舎で、後から聞いたので何もしておらず、しかしこんな近所にいながら何も言わないのもどうかと思い妹に相談すると、「お盆のこんな慌しい時期だったから」とでも後で会った時にでもさりげなく話せばいいのでは?と言うので、「なるほど」とそうすることにしました。

こうして考えると、日頃のちょっとしたお付き合いというのも大切なのかもしれません。
逆の立場で「その時は駆けつけたい」と思っても、日頃のちょいちょいした付き合いがないと、何となくよそよそしくなったり。「持ちつ持たれつ助け合う」という精神を今まであまりにないがしろにしてしまったたゆえです。(それも最近「家族葬」が増える理由なのかもしれません。考え方もいろいろで、今はそういう難しい時期にあるようにも思います。)

しかし、ささやかでもよいお式?になれば良いと思います。
そして、これからはこのような時には人様の役に立てる自分でいられるよう、これからは考えを改めたいと思う次第です。

日々、感謝。

2014-07-29 | 父の記録と母の思い出
ほぼ1日中、考えるのは父の事ばかりである。

今日は帰りに弁当も買って帰った。家に帰って作る気力もなかったのだ。
それでも家に帰ると鶏肉があるので、悪くならないうちにチキンライスを作った。kekeが夜中に食べてもいいし、私の明日の弁当にしてもいい。

nanuさんが「またひざが痛い」と言って足をひきずっていて、今回注射でよくならなければ精密検査をして、場合によっては手術になると言う。ZENさんは「まだ足が腫れているのよ」と言って見せてくれた。こちらは通風。「足をかばって椅子で移動したらひっくり返って手も腫れたのよ」と言う。

会社で言ってもしょうがないやと思って黙っていたけど、父の事ばかり考えてしまうならそれとなく言ってみよう。親の死を前に誰も傷つけるような事も言うまい。それによって気持が楽になることもあるかもしれない。

それでもうれしいのは、父は最後まで私の事を気に掛けてくれたこと。
最後が裏切りや憎しみで終わる別れは写真も処分しなければならないし、後になって思い出すことも無い。父とはそうではないから、いつでも思い出の引き出しをあけて、過去に戻る事ができる。それだけでもうれしい。

買って来た弁当をkekeと食べた。

今は一緒に食べてくれる家族がいる。
食べ物を選ぶ自由もある。
食べたい物を買うだけの金もある。

これだけでも充分幸せだ。
今はそう思う。

昨日から風もあって、朝晩過しやすかった。
真夏でもこんな時間があるんだな、それにも感謝感謝。(^o^)

過去写真

2014-07-27 | 父の記録と母の思い出
父の写真があるネガを写真屋に持っていった。

CDにするのにどのぐらい料金が掛かるかと思ったら、フィルム2本分+CD代(約300円)で1,800円ぐらい。安かったらあれもこれもCDデータにしておこうかと思ったが、それなりにお金が掛かるものだ。しかも半分以上元夫が映ってて見たくない。気が向いたらまた考えよう。

しかし子供の写真ばかりで、親の写真のないこと。子供にばかり執着して周りに目が行ってなかったのだろう。これでは元夫に愛想もつかされても仕方ないと素直に反省する。(でももう20年近く過去の事さ。)
若い娘さんに言いたいのは、子供の写真も大切だけど、親の写真、旦那の写真もちゃんと撮っておこう。周囲分けへだてなく愛情を注げているか、子供だけに執着しているかは昔の写真を見ると一目瞭然である。
そして、今になると子供の写真より親の写真の方が大切になったりする。

プロに任せればちょちょっとやってくれるのかと思ったら、3時間掛かるという。家に帰っても暑いだけだし、時間をつぶすのに苦労した。たまたま入った店が、節約モードで冷房が高めだったので、ノドが乾く。しかしまたどこかに行って車から降りて駐車場を出て・・・って言うのを繰り返せば体がおかしくなりそうなほど、暑すぎる!!!

そんなこんなで用意できた写真も10枚程度。
施設に持っていくと、看護婦さんたちがキャーと喜んで、「担当のHさんにぜひ持って行ってください」「後で拝見していいですか?」「私もいいですか?」と口々に言われ、ビックリしてしまった。
皆さん、そんなに父の事を愛してくださっているのかと。

親子でもなければ、ここに来た時は既にボケ老人である。その父の昔の写真をそこまで楽しみに見てくださるとは、なんてここのスタッフさん達は優しいのか。

「お父様のお若い頃の写真もありますか」と言われてしまったが、残念ながら無い。
それどころかkekeが生まれる前の自分の写真すらない。「度重なる引越しで・・」と言ってしまったが、親から渡された自分の昔の写真は、最初の離婚で着の身着のまま家を出た時に置いてきてしまったのだ。その時も父が「必要なものもあるだろう、一緒に取りに行こう」と言ってくれて、とりあえず必要な服などは1度引き上げてきたが、写真も卒業証書も置いてきてしまった。まったく情けないことだった。

だから、元夫が家を出る時は、自分の写真をそんな風に亡くしてしまったから、彼のアルバムはわざわざ出して荷物に一緒にしておいた。本当は腹が立って燃えないゴミで捨ててやろうかと思ったけど、自分がそれでとても残念な思いをしたものだから、彼親が大切に作ったアルバムだけは武士の情けで、他の荷物と一緒に持っていけるようにした。もちろん出て行く方は過去を捨てたいと思っているから、そういうものの存在はその時は忘れている。そういうものなのだ。
あれだけはそれで良かった。もう赤の他人となった人間の昔のアルバムを持ってても意味が無いし、復讐で(?)捨てる事も今となれば意味が無い。あるべき所に持って行ってもらって本当に良かったと思う。


「今日写真を持って行ったよ」と夜、妹に電話しようとしたが、居ない。留守のようだ。
ブログを書いたらメールでも打とうと思ったら、先ほど妹からメールが来た。

「写真をありがとう!さっそく看護師さんが貼ってくれてたよ。」どれもいい写真ばかりだね、ありがとう、と書いてあった。
昼間時間が取れなくて、こんな夜に父に会いに行っていったのか。。。。スタッフも優しい人ばかりだけど、やはり妹は父思いである。

父の歌声の入ったテープを持って行き、看護師さんと一緒に聴いたと言う。
今度行った時は父の歌声を久しぶりに聴けると思うと楽しみだ。

病室で

2014-07-27 | 父の記録と母の思い出
父の所に行くと、CDに合わせてお父さんと歌っていましたよと看護婦さんが言う。

先生の話では小水の量が少ないと言うことだった。
わざわざ言いに来るぐらいだから良いことではないのだろうと、あとで若い看護士さんに尋ねてみると「それも1つの目安になります」と言う。父の足をさすって「だいぶ冷たいですね」等と言う。「でもまだ話しかけるとうなづく様子もあるので大丈夫」みたいなことも言う。

息遣いはいつも同じではないけれど、長距離を走っているみたいだ。苦しいのだろうと思う。

「夜顔」が流れている時、看護婦さんがたまたま見えて「この歌の歌詞すごいですよね」と笑顔で話すので、「そうなんです、これは家で(歌ってるのを)聴いたことがなかったのに、だいぶ後になっても外で歌ってて【これはイイ歌だよ】とまで言っていたことがあるんです。だから最後に入れてみたんですよ。」と、私は小学生のように喜んで、父の自慢話をした。

「妹さんから聴きましたが、お父さんは歌を録音してたそうですね。」と看護婦さんは言い、ぜひ聴いてみたいと言うので、妹に伝えてもたせますと答えると、「写真も何かありませんか、小さい頃とかご家族でうつっているとか」と言うので、それも家で探すことにした。

今日は帰るのがしのびなかった。


後で妹に電話すると、「お姉ちゃん午前中に行ったんでしょ。私午後から行ったの。」と言う話で、もうその事も聞いていたようである。ここ最近、こうして妹と同じ日に面会に行く事が多いのだが、お互い連絡を取ってないのでいつも時間がすれ違う。
でも、かえってそれでいい。父も淋しくないから。

珍しく妹が電話を切らず何が言いたげだったけど、それに気がついたのは今になってからで、うっかりいつものように切ってしまった。

スーパーでOMさんに会った。OMさんは数年前にお父様を亡くしていたので、今父の状態があまり良くないことを言ったけど、割りと淡々としてて間も無く別の話題になってしまう。過ぎてしまうとそんなものなのだろうなと私も安心する。

正直に自分の気持を書いてみると、離婚や倒産の時は「これからどうなるのだろう」と本当に不安で、子供の事はいま現在もどうなるか分からん。いずれ別れるしかないつきあいとか意識してみると結構しんどい荷物が多い中で、親の問題は、それに比べるとそうなっても今の生活が根底からひっくり返ることではないので、淋しくはあるが辛くは無い。
だからと言って親に冷たいわけではないと思ってる。

写真と言われたので、さっそく父の写真を探した。
そのまま戻ってこないのもイヤなので、焼き直しできるものを焼くことにした。
子供の写真は山ほどあるのに、親の写真が意外にないものだ。それでもCDからみんなで撮れているような写真を選ぶ。
ネガ時代のはいろんなものとダンボールに詰めて上の押入れにいれてしまったので、今の私の肩ではおろせないなぁと思いながらもダンボールの蓋を開け、上の方をあさってみると、たまたまネガブックが一番上に乗っていたので、中を見ることができた。専業主婦の頃はちゃんと写真もネガも整理してたのだ。
あまりの量で(当時はデジカメでなかったから要らない写真も消せなかったのだ。)全部をCDデータにするのは無理だが、両親が映ってる近辺のネガだけ2ページ分、明日写真屋さんでCDにしてもらえないかと思う。

写真を見ていて、母が亡くなる前より父の笑顔が淋しそうになっている気がした。
当時は気がつかなかったけど。

父の好きな曲

2014-07-20 | 父の記録と母の思い出
父の病室に行くと枕元のCDデッキから音楽が。。。。

聴いてみると長淵剛のようである。看護師さんが掛けてくれているのか・・・と壁と見ると、『RUN』の歌詞のコピーが貼ってあり、「このCDの1曲目がsake(父)さんが口ずさんでいる歌です」と書いてある。

これを見て私はギョッとした。
この曲は(このブログを検索すると)2年前ぐらいによくここの広間で父と二人で「賽銭箱の歌」としてよく歌っていた曲だったのだ。

いったいいつ口ずさんでいたのだろう。。。?

いつもは目を閉じてほとんど寝ている父なのに今は珍しく目をあけて聴いているようにも見える。
先生が来たので「聴こえて分かっているのでしょうか?」と尋ねると、正確にはわかりませんが、聴覚は本能に近い所にあるので一番残る感覚かもしれませんね、と言う。

この長淵のCDは妹が作ったのだろうか。
でも父はそんなに長淵の歌を歌っていなかった。もしも聴こえているのなら、よく歌ってた歌も聴かせたい、と思って、帰ってから妹に電話すると、「そのCDは看護師のHさんが作ってくれたの。」と言う。

「他によく歌ってた歌のCD、私も作りたいけど差し出がましいかしら?」と言うと、「おじいちゃんもきっと喜ぶと思うよ」と言うので、レンタル屋や図書館をあちこち探して、ジャジャジャジャン!と作り上げた。

とは言っても、ぜひ入れたいと思いながらも、見つからなかった曲もある。
三好鉄生「涙をふいて」とか森進一の「冬のリビエラ」「襟裳岬」、上田正樹の「悲しい色やね」もアレンジがあのベタなヤツじゃなかったのでやめた。梅沢富男の「夢芝居」「キャラバン」まで思いつかなかった。(・・・・って、ただ私が懐かしくて聴きたいだけなのかもしれない。)

そしてCDを作っているとG子から電話があった。
M君と二人で今日イオンに行こうと言う話になったそうである。
最初は近くのイオンだったが、だんだん遠くのもっとでかいイオンに行く事になり、「行ってもいいのか、M君の奥さんに悪いかな」と言う相談である。

「よいか悪いかで言えば悪いかもしれないけど、行きたければ行ってもいいんじゃないの?行きたくなければ止めればいいし、後で自分が後悔しなさそうな方を考えればいいんじゃないの?」と言うと、「さすが理論家だ」と言って電話は切れた。

そしてのんびり昼を食べたりしてから父の所に行っていっしょにCDを聴いた。

うーん、聴こえているのかどうか分からない。
一見目を開けて聴こえているように見えるが、よく見ているとまったく瞬きをしていない。
もしかしたら目をつぶることが既にできなくて、目が開いているだけなのだろうか。
耳元でうるさい音楽が鳴っているだけかもしれない。

これで良いのだろうか?良いのだろうか?と悩みつつ、でもあんなに好きだった歌の数々、聴こえていたらきっと懐かしいし元気も出るにちがいない・・・などと、こちらサイドで満足するしかないような気もする。

でもあまりずっと掛けてても疲れるだろうな。・・・と思い、一通り聴き終えると帰ることにした。

大家さんの話

2014-07-16 | 父の記録と母の思い出
車から降りると駐車場の大家さん(おばあさん)が家に入るところだったので、声を掛けた。

と言うのも、また今月も家賃を振り込むのを忘れて遅くなってしまったのだ。その度に反省して次は必ずと振り込むのだけど、またしばらくするとうっかりしてしまう。だけど自動振込みにするとお金がかかるので、まだしていない。

「駐車場また忘れてしまって先週振り込んだばかりでした、すみません」と言うと「あらそうだったの?まだ通帳みてなかったよ」と言う。
「そう言えば振込先の口座変わりましたね、ご主人亡くなられたのですか?」と尋ねると、「そうよぉ」と言う。

最後は酸素マスクをしてね、何にも食べさせられなかった、可愛そうだったの、と言う話をするので、自分の父親が今そんな感じで病院の先生からもそれとなく言われてるんですよ、という話をした。「おやまぁアナタも?!」みたいな話になり、そうなるともう行っても何もしてあげられないんだよね、分かる分かる、とおばあさんは言う。

「行っても5分ぐらいしかいられないの、それで今日は天気がいいねとかひとり言のように話して帰ってくるのよ。」と言うので、「ほんとにそうなんです。」と言う。
「私もそうだった、それで充分なのよ。どうしようもないもの。」とおばあさんは何度も言う。

おばあさん曰く、ご主人の入った病院では胃ろうの人が多かったそうである。ご主人の4人部屋ではあとの3人の人がみんな胃ろうだったと聞いて私は驚いた。

「私は病院にお願いして胃ろうは止めてもらったんだよ」とおばあさんは言い、「生き物は口から食べることで生きるんだって思うからね。」と言う。息子は胃ろうを希望したけど反対したんだ、と言う。
「私もそう思います。会える喜びがあるとか、おいしいとか楽しいとか、そういうものが分からなくなってしまって、痛いとか苦しい様子を見ると・・・ねぇ」

おばあさんは、そうそうアナタも同じね、私もそうだった、と言う。

「こんなこと言うと何だけどね、でもね今はもう通わなくていいんだって、肩の荷がおりたと言うか、それまで頭のどこかにいつもあったからね、アナタもそうでしょ?それから解放されたって言うのか、そんな風よ今は。人間って図々しいものよ。」
「そうなんですか。」
「2~3日前になると病院の方から会いに来てくださいって電話がきたよ。最後の日は帰ろうとしたら病院の先生が、もう少しいてあげて下さいって引き止められて、そしたら本当に亡くなったの。病院は分かるんだね。あ、でも命だから分からないよ、1ヶ月って言っても、3ヶ月になるか半年になるか分からないよ。」

とおばあさんは言う。
そして、何度も「行ってあげるだけでいいんだよ」と言う。


そんなことを考えると、やはり切なくて涙が出る。

それでも今まで離婚や倒産、子供の事、いったいどうすればいいんだろうと途方に暮れて一人困ったことがいっぱいあって、でも父のことはあの手の困りようとはどこか違う。誰が悪いわけでもないし、いずれは誰もがそうなるものだし、父は精一杯楽しく生きていた。
そう思うと、辛いことではないし、自分の中で穏やかに受け入れられること。
いずれはお別れすることになっても、楽しく過ごせた時間がいっぱいあること、その一つ一つを誇りに思うだろう。


五木さんの本ではないが、人間最後死ぬ時は一人。
人生後半になれば、これからどんどん別れを経験することになるだろう。
中にはうんと大切な人もいるし、離れたくない人もいるだろう。

でも会うのがもう別れの始まりだから。
せめて今を大切に過ごすしかないだろうな。あとで悔いが残らないように。
最近、そういう風に考えることにしてる。

おばあさんとは40分以上も立ち話をして、別れた。

kekeと病院へ

2014-07-13 | 父の記録と母の思い出
妹から父の様子を子供達に言ってる?と訊かれたことがあって、「そろそろ話そうかなと思ってるけど・・」と答えた。

kekeに1度会いに行くかい?と言うと、行くような返事だったので、いつがいいかと言うと、「できれば明日にしてほしい」と言う。
出かける様子でもないので、「どうせ家にいるなら今日でもいいじゃないか」と言う所だったけれど、kekeにもkekeの事情があるのだろうと考えて、美容院に電話して自分の白髪染めの予定を変えてもらって出かけた。

熱は平熱だが、酸素の濃度が低いそうで、マスクをしていた。
「kekeもきたよ」と言ってみると少し起きたようだけど、あまり分かっていないのではないかと思う。
しばらく顔を見たり、座ってkekeと少し話したりしたけれど、やがて帰ることにした。

今日は割りと風が涼しいので、窓を開けて車を走らせた。
だから音楽はやめた。kekeは窓を開けながら音楽をかけるのを嫌がるのだ。

無理に誘ったわけでもないのに、始終不機嫌そうにほとんど何も話もしないkeke。

「お前はほんとに話さないねぇ」と私は言い、「でも自分もそうだった。おじいちゃんもよく話しかけてきたけれど、いつもブスっとしてたよ。だからお前の気持も分からないではない。」

「おじいちゃんともっとニコニコ話をすればよかったと思うよ。」と言うと「自業自得だね」とkekeは言う。

本を返すのに図書館に寄ってもらったが、kekeは車から降りようともせず、シャツでもみるかい?と言っても要らないと言う。お昼を一緒に食べようかと誘ったが、kekeは弁当を買って家で食べると言うので、ショッピングモールの惣菜コーナーに行き、「いつも食べられないものがいろいろあって楽しいよ」「せっかくだから値引きしてないものを買おう」と言った。kekeは「家にご飯あったっけ?」と言うので、「もうないよ」と言うと、半額になったご飯パックを指差して「これと酢豚でいい」と言う。

じゃそうしよう、と私も言い、二人で半額のご飯パックを選んで、酢豚とメンチを買って帰った。
でもよく考えたら、自分も父と買い物に行った時、いつもこういう態度だったことを思い出した。
どこか的外れな親孝行だった。

でも、父はいつもニコニコしていた。

G子から電話がきた。
面接までは通るけど、そこから採用にならない。前は面接まで行けば通ったのに、それから最近太って20年お願いしてる美容師の人に「食べるな」と言われたから炭水化物は抜いている、と言う。最近1日1食だよ、5日続けたらさすがに痩せてきたなんて言っている。

たしかに・・・・これ以上は太れない、私もご飯は抜いてと。。。


kekeにマーボー豆腐を作って、「おなかすいた?」と訊くと「まだすいてない」と言う。
そうだよね、お昼結構食べたからね、私もまだすいてないから食べたくなったら食べればいいよと言い、枝豆、レタス、チーズ辺りを並べて、「自分はこれとビールでいいや」と言うと、「動物のエサみたいだね」とkekeに言われる。

帰り道

2014-07-05 | 父の記録と母の思い出
今日も父の所に行って来る。

今日は痰がそれほどからんでいないのかまだ楽そうではあったが、息をするのも苦しいのかもしれない。
その後妹とも電話で話したが、妹は週に2回ぐらいなるべく今は行くようにしていると言う。

看護師さんが娘さんが来ましたと声を掛けてくれるのはうれしいけれど、寝てる時はそのままゆっくり寝かしておいてあげてもいいかもって気持になるんだよね、と言ったら、妹も分かる分かると言っていたので自分だけではないんだなと思う。

もちろん、会えるのは今だから今を大切にしていくのだけど、思い出すのは元気だった頃のこと。
一緒に歌を歌ったり、kekeをかわいがってもらったり、買い物に行ったり、あぁあの頃は楽しかったんだなと思い出す。そしてそれがあることをうれしく思う。

今年の夏休みはあまり多くなく5日間で、nanuさんも秀クンも奥さんの両親に会ったり一緒に旅行をしたりするみたいだ。
そんな話を聞くと、あぁあの頃、と思う。
私にもあったなって思うんだ。

親ってたぶん、そういうすれ違い方をする存在なんだろうと思う。


次に必ず思うのは、kekeのこと。
私もいつか弱ってしまう日がくるのだろう。
その時、友達でも家族でも誰かkekeのそばにいてくれるといいけれど。

父がうれしかったのは、元気な時にいつも笑っていたこと。
本当にいつも楽しかったのだろう。
幸せだったのだろう。
それが自分の何よりも励みになるから、私もそう生きていこう。

いつかkekeが振り返る時、こんなに楽しかったというひとコマをこれからは刻んでいきたい。あの頃もよかったなってそういう時代を。

毎回そんなことを同じように考えながらCDを止めて、父の好きだった歌を思い出す。

父のとなりで

2014-06-29 | 父の記録と母の思い出
父の所に行った。

水分だけでも口から取れるようにしていきたいが、やはり熱が出てしまい、ずっと点滴が続いているそうである。
今日もほとんど寝ていた。
少し苦しそうに見える。

そんな中でも今日は比較的穏やかに寝ているように思う。
こうして状態と言うのは落ち着いたり悪くなったりを繰り返しながら進んでいくものなのだな、と改めて思う。

看護師さんは肩をゆすって声を掛ける。
「娘さんがいらしていますよ。」
そうすると、返事をするようである。
(声をかけるだけだから返事が出なかったのか。)

「昼にこのように眠ってしまうと夜起きてしまうことが多いので、こういう風に肩をゆすって声をかけてみてください。」と言われたが、体も弱ってやっと寝ている父の肩をゆすって起こすのが、私にはしのびなくてできなかった。

前に読んだ本で、「隣で本を読んでいるだけでもいいんですよ。一緒にいるだけで。」みたいなことが書いてあったのを思い出し、しばらく隣で本を読んでいたが、帰ることにした。


昨日は「真面目で正直」とほめられたことを思い出したよ。

これからそんな自分を誇りにして生きて行こうと思う。
父の言ったことだから間違いない、そう信じよう。

肯定メッセージ

2014-06-24 | 父の記録と母の思い出
石原加受子さんの”「どうして私ばっかり」と思ったとき読む本”を読んでいたら、次のようなことが書いてあった。

お母さんが「大丈夫、就職先は探せばきっと見つかるよ」と言う同じセリフを言った場合、「たしかに諦めるのはまだ早いな」と前向きになる子供と、何かと腹を立てる子供がいると言う。
後者の子供の場合は、それまでの親子関係に問題があると言う。

事をするたびに、親から否定的なメッセージを受け取っていた子供は、同じ言葉も全て否定的に受け止める、と言うのである。


それを読んで、私はあることを思い出した。

それは自分がまだ子供の頃である。中学生ぐらいだろうか。
当時、自分は毎晩皿洗いをしなければならない決まりがあった。
ある日父から「妹に皿洗いを教えたいから、sakeがここで洗ってみせなさい。」と言ったのである。
私は、そうかと思い、いつも通りに皿を洗ったところ、父は妹にこう言った。

「今のは悪い見本だよ、本当はこう洗うんだ。」
そして父は皿を洗ってみせたのだ。

私は心の中で強く訴えた。
「だったら、最初から父が自分で洗えばよかったじゃないか!」

でも私はそれを口に出すことはなかった。よく言えば相手を傷つけたくなかったし、悪く言えば気が弱かったのだ。本当だったら、そこで抗議することで親子関係を修復するというのが正しい方法だったのかもしれないが、頭も悪かったので思いつかなかった。

ここまで分かりやすい例もあまりないが、私の扱いは常にこんな感じで、だから親が大っキライだった。
いつかこの家を出て行ってやる、と呪文のように唱え続けていたが、魔力のように吸い寄せられ、結婚を決めるまで家が出れなかった。

そんな調子だったので、親の言う事なす事全てに腹を立てた。
この本によると、そういう風に育ってしまった大人は、自分の子供にもそういう態度を取ってしまうそうである。何故なら、自分が受けた親の態度しか知らないからだそうである。
だから私も息子に対して、肯定的なメッセージを与えることができなかったのだろう。

なるほど、そう言われてみればそうかもしれない。

今までずっと「損か得か」の世界で生きてきたのは、心から安心できる場所がなかったのだろう。
たぶん、kekeもそうに違いない。


でも私と両親の関係は、その後でだんだん変わっていった。
両親もこうして「はた」と考えたこともあったのかもしれない。

親子関係は、手遅れと言うことはないように思う。

大切なことは、自分を肯定的にとらえられようにすることらしい。
自分の感性を受け入れること。それを否定しないこと。
相手の領域に立ち入らず、自分の気持を表現すること。
だから、私はこれから好きなものは好き、不快なものは不快、と認識することにした。

kekeはまだ私よりはマトモかもしれない。
自分の思うことがちゃんと言葉に出せているからである。

それだけでも、誇りに思うことにしよう。