きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

頑張れ教

2024-05-09 | 女だから思ったこと


ハンバーグ弁当。
コロッケの中身までは作りましたが、衣を着けて揚げる所までは行き着きませんでした。自分は残ったカレーのお弁当です。

さて、またマドモアゼル・愛さんが数日前に興味深い話をされていました。

人は誰でも幸せを願い、今が変わらないことを望むけれど、「変化」するのは当たり前。
執着を捨てて、変化を受け入れるようになれた時に本当の喜びが見出せるのだとか。

なるほど~~~~^^

というのも、今までの私は執着のカタマリで(古くからお越しの方はご存知でしょう)、「これだけは叶ってほしい願い」とか、「息子にはこうなってほしいという欲望」やらが渦巻いていたのです。(-_-;)そうか・・・(息子によかれ)と思って念じていた思いも、その他数限りない欲望も、執着であり、それにはまればはまるほど、幸せから遠のくというのは、本当にその通りですね。

今、最高に幸せな人も、とてももがき悩んでいる人も、必ず「変化」は訪れる。・・・そう思うと、誰を羨ましいと思うのでしょう。誰を妬みたくなるのでしょう。
そこに現れる大きな塊が「努力」という言葉。
「私はこんなに努力しているのに幸せになれない」とか、「あいつは怠けているから」と見下げる物の見方。
こんなに頑張っているということは、相対的に他人をどうしてもバカにしている傾向があるんですよね。
周りに感謝するとか、神様に感謝するという優しい気持ちと違う雰囲気を感じるのです。

私がこうしてペラペラ書くことも、次元が低いというか、わざわざ人に言うことかい?とツッコんでいる自分もいるのですが・・・今、また私はひざが痛くなってきて、日常生活には支障はないのですが、年をとって体のコントロールがきかなくなると、考えますよね。
どんなに気をつけていてもダメなことはあるし、特に肉体は年齢と共に衰えていくのを認めざるを得ません。

今まで「もっと頑張らなければ!」と自分にも人にも厳しかった気持ちも、「頑張ってもダメなことがある」と思うようになり、そうすると少し優しい目で周りを見るようになりますね。気がつけば私の周りにいる人も、年と共にだんだんそうなってきているのかもしれません。

このブログで過去にさんざボヤいてきた「今日はこんなことを言われて悔しい」とか、そんなことも今にして思えば「なぁんだ、言ってる方がアホなだけ」だったのです。再婚しないのかとか、息子はまだ働かないのかとか、凝り固まった価値観で人の人生に勝手に踏み込んで平気で文句を言うだけの人たち。悪意はないのですが、浅はかだったのです。

私は私で、もしも離婚することもなく、お金にも苦労せず、子供もすくすく優等生で育ったら、すごく天狗になってて今の境地には到底いたらなかったと思うのです。私の身近でもお子さんのことで苦労している方もいますが、(自分と一緒にしては本当は申し訳ないけれど)それがなかったら、間違いなくその彼は天狗になっていたと思うのです。なぜならそれまでの言動がそうだったから。。。
それが原因かどうかわかりませんが、その方はだんだん周りの人にも優しくなって、私のこともあまり言わなくなりました。人生のつまづきの全てがその人に原因がある訳ではない、どうにもならないことがやっぱりあると悟ったからだと思うのです。

もちろん人生に何もつまづきもなく、それでも優越感を持たずに謙虚な友人も何人もいます。
結局、子供の頃から「競争」させられ、頑張ることを求められ、それに素直にしたがって自分を消耗してきた人ほど、優劣で人を見るようになり、頑張ることだけで自分をすり減らせて生きているように思います。それは良く回る時は良いですが、必ずどこかでブーメランで自分に返って来てしまうようにも思うのです。

それに気がついた時、他人を見る目が変わりました。
頑張るという価値観で人を優劣で考えている人は(自分も完全にそれから離れている訳ではありませんが)、話しているとすぐに分かるのです。自分が同じものを持っているから。

そういう価値観から、幸せみたいなものは生まれにくい。。。。頑張って何かを得なければと言うのを今の世界は賞賛するけれど、本当の安寧の地?みたいなものは、常に何かを求めることではなく、今あるものを受け入れることなのではなかろうか。。。。

お金がいっぱいある人が常に常に物を買いたがる人も「頑張れ教」だと思うのです。常に常に今の自分に満足できない・・・必ずしもそれを「悪」とは言いませんが、それで買い満たされた満足感はちょっとするとまた消えてなくなってしまう。(本人がそれでいいならいいですが)

私が今毎週、観光地に足を運んでいるのも「頑張れ教」じゃないのかなと思うことがあります。楽しいならいいけれど、求め続けることから安寧の地?にはつかないだろうとも。これらはただの承認欲求にすぎないことも薄々気がついています。
(それを言っちゃ何もできなくなりますが)

そして頑張るという気持ちはどうしても執着につながるんだよね。


「頑張れ教」を否定する訳ではないけれど、優劣感は控えめにしたい、気持ちだけは周りに優しくいたいと思うのでした。

昨晩はシュウマイを作りました。この冷凍があるとお弁当も楽になります。煮物はお弁当に入れるときは緑を入れようと思います。
(いつも忘れますが)



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