熊本城下の「古地図」を取り出して眺めていたら、「57・京町之絵図」の左上部分に「稲葉内記」という書き込みを見つけた。
今迄何遍となく眺めてきた「古地図」だが、見落としていた。
これは、春日局の息・稲葉内記正利が徳川忠長の素行による改易に連座して配流の罪を得、特に春日局が既知の間柄である細川忠利を頼み、肥後の
地となったものだと伝えられる。
当初は菊地の地に拘留(寛永11年)されていたが、のち熊本城下に出ることを望み、度々無断でお城下に出るなど忠利を困らせたが、ついにはこの
地(寛永13年)に至ったものであろう。
今迄特にその場所を特定できるような資料に出くわさないでいたが、今般の「地図散歩」でその「配流屋敷」が特定できた。
この場所は、現在の熊本市西区京町本丁4-2 あたりの場所であろう。
今でこそJR上熊本駅前から京町台へ上る幹線道路沿いであるが、当時は京町台崖上の最西北部であり、拘束の地としては格好の場所であったのかも
しれない。しかし熊本城や本妙寺を望む、景色の良い場所であったろう。
配流の罪人とは言え、母は春日局であり、兄は老中・稲葉正勝という人物であるところから、このような屋敷があてがわれていたものと思われる。
その配流生活は寛永11年(1634)から、延宝4年(1676)に死去する迄、40年以上許されることはなかった。