~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~
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=聖句=
「弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った『どうしてこの香油を300デナリで売って、貧しい人たちに施さなかったのですか』」(12章4~5節)
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前回に続きユダ解読を続けましょう。聖句も同じですよ。
ユダに関する情報は少ないです。詰まるところの正確な結論はわかりません。
けれども、それだけに色々想像を巡らすことが容易になるのですね。制約条件が少ないですから。
その一つを書いてみましょう。
<出世志向の苦労人は事務局長になりやすい>
実のところは世的な出世の夢を胸に秘めて入団を希望してくる人物に対して、ボスたる教祖はどうするでしょうか。教祖といってもこの場合は新しい教えをする開祖です。
彼はそのあたりは通常、鷹揚に認め、容認するのではないでしょうか。自然なことです。新しい教えは広めねばなりません。そのためには「来る者拒まず」で少なくとも当初はやっていく方が効率的なのです。
こういう信徒は、世的なセンスに長けていることが多いです。事務的な仕事が他のメンバーよりもよくできる。事務仕事というのは、この世での集団を現実的に管理運営する仕事ですからね。彼はその執行役に回ることが多いです。
もちろん、全般的決定はボスが行うでしょう。けれども、その下で、日々の雑事を処理していくのは、事務局です。世的意識の強い信徒は、そのヘッドに位置する事務局長に回ることが多いです。公益法人などではその仕事をする人は専務理事とも言います。
<教団が動機にかなわなくなったら別の道を進む>
世的意識の強い事務局長は、実によく働くんですね。身を粉にして働く。見ていると、ついつい可愛くなる程です。そして、世的センスがありますから、やることにソツがなく、実に役立ちます。
しかし、それは自分の出世のためでもあるわけです。だから、教団がその動機にかなっている間は、従順に働きますが、そうでなくなったら態度は変わります。彼は、教団の進む道とは違った道を進むようになります。
それは、彼にとっては自然なことです。彼は、依然として自分の出世のためにがんばっているのであって、根底動機には何の変化も起きていないのです。だが、教団から見たら話は別です。彼は、教団を裏切りはじめた、ということになるのです。
このように、概して事務局長的仕事をする人が、一番裏切りやすいのが人間組織です。裏切りの被害を避けるには、よく観察し、「おかしい」と思うことが一つでも見られたら、面倒くさがらず、同情心も捨てて、事務局長は早めにとり代えることですね。
<中川一郎の秘書>
タイミングよくそれをしないと、ボスはある時裏切られます。ひととき鈴木宗男という人がマスコミの話題にのぼりましたね。彼は少年時代から、国会議員になるという夢を抱いていたそうです。そのため北海道の大物代議士、中川一郎の秘書を志望しました。
希望してきた彼に会った中川一郎の奥さんは、直感的に問題に思ったそうであります。彼は、終始相手(奥さん)の目を見なかったそうです。それを危険と感じたというのです。
もっとも、これは、奥さんが後に述懐した言葉です。彼は、文字通り身を粉にして働きます。中川事務所の秘書の中でも、抜群の働き手となる。無くてならない存在になります。
彼は、地元の人々の世話を、一手に引き受けて働きます。その結果、彼自身が多くの有力者に顔やつながりが出来ていきます。そして、時が充ちると、それを利して自分も国会議員選挙に打って出たいと申し出ました。
中川は、それでは困ります。彼らはもともと、自分の支援者であったのです。ところが鈴木は自己目的を押し通す行動を、さらにあちこちでとるようになります。「一生忠実に働く」といってたのに・・・。
<親分は裏切られると神経を破壊される>
中川は精神的被害を受けます。「北海のヒグマ」と呼ばれた中川は神経をやられていきます。可愛がり信頼しきっていた働き手に裏切られると、ボスというのは神経を深く傷つけられるようですね。
自己派閥の中で、ひそかに経世会を作って独立した竹下登の出現で、田中角栄さんも深く傷つき朝から酒浸り。オールドパーを一本二本とあける日々だったといいます。
中川一郎代議士はあるとき、ホテルで首をつって死にました。直接的な原因は不明なままです。鈴木は、国会議員選挙に出て当選します。そうして今もマスコミで話題になっています。
ユダの裏切りは、そういう、この世の法則のようなものから、理解することが出来るのではないでしょうか。春平太も還暦を過ぎるまで生きながらえ、色んな人間を見、かつ体験してきました。
<先生、何を言い出すのですか!>
ユダヤ教高僧の会議は、イエスを殺すという公的決定をいたしました。それを知ったイエスは、危険を避けるために荒野に近い町に退きます。そこまではいいでしょう、ユダにとっても。
ところが、過ぎ越の祭りが近づいたら、イエスは危険なベタニアの地に行くと言い始めたのです。なぜかというと、死ぬためだという。それによって、人類を救うのだと。
ユダは仰天したのではないでしょうか。「先生、何を言い出すんですか! 教団を成長させるのではないのですか。それでは、私たちはどうなるのですか!」