~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~
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=聖句=
「弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った『どうしてこの香油を300デナリで売って、貧しい人たちに施さなかったのですか』」(12章4~5節)
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ユダ考察の続きです。今回も聖句はおなじです。

ユダヤ国家では、イエスを見つけたら捕らえて殺すべし、という公的決定を下しました。イエスは、一旦、荒野に逃れて危険を避けました。ところが、一転して、危険の地にいくという。それは、死ぬためだという。
~~ここまでは前述しました。

<もうやっとられない・・・>
ユダは困ります。
それでは、成長した大教団の幹部になる夢は砕け散ってしまいます。
「一体何を考えているんだ・・・」
他の弟子たちも、途方に暮れました。しかし、彼らは、イエスの言うことが理解できなくても、とにかく、それに従おうとしつづけました。彼らは依然として、精神的にイエスワールドの中に住み続けたわけです。
この点、ユダは違いました。「もう、やっとられない・・・」彼の精神はイエスワールドの外に出てしまいました。彼は、自分の世界に立って外からイエスを見るようになりました。
だから、批判が自然に出るようになったのです。
「この香料を売って、貧民に施すべきではないのか。先生だって日頃貧しいものに施せと言っておられたのではないか。自分の足に注がせているのは、自己矛盾ではないか」と。
ここは大切なポイントになっています。師匠と弟子との関係のエッセンスを教えられます。

<まだ全ては理解できないから「弟子」>
弟子というのは、師匠の言うことがまだ全ては理解できない存在なのです。にもかかわらず、言われたとおりにやる。素直に真似る。それを通してしか、わかっていくことは出来ないのです。
では、そうして理解できるようになったら、彼らはどうなるか。
弟子でなくなります。
イエスは後に、その状態を兄弟といっています。兄弟の間では、話せばわかるという姿勢でありのままに説明します。そして、実際、イエスは後にそれをやるのです。次の聖句をご覧下さい。
「そのときイエスは彼ら(弟子たち)にいわれた『恐れることはありません。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』」(マタイによる福音書、28章10節)

<ユダは「イエスワールド」の外に>
でも、ユダの心は、すでにイエスワールドから出ておりました。
彼は、自力で考え、独自な打開策を実行せずにはいられなくなっておりました。
ユダの動機に関しては、もう一つの推察をすることができそうです。が、それはもうすこし後になって、スペースがあれば書くことにしましょう。
