「ヨハネ伝」も新しく第15章に入ります。
本日の聖句はこれです。

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=聖句=
「わたしはまことのブドウの木、私の父は農夫です。
私につながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべて取り除きます。
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、余分な枝を刈り込まれます。
(15章1~2節)
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第1節の「私は葡萄の木、父は農夫」は有名ですね。
もちろん、たとえです。
まず「私(イエス)につながっている枝」から。
結論から言うと、これはイエスの周りに集まる人々を意味しています。
「実をむすぶ」とは、「福音伝道をして新たな弟子を作る」ということです。
「実を結ばないもの」とはそういう「実を結ぶような伝導をしない人」を言っています。
そしてそういう人々は、父なる創造主はイエスの周囲から取り除いていく、というのです。
それが「刈り込み」です。
弟子はびっくりしたでしょう。
自分も刈り込まれるのではないか、と。
だが、彼らは別格です。それは次の聖句が示しています。

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=聖句=
「諸君は私が語った言葉によって既にきよくされています。」(15章3節)
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ここで「きよい(clean)」とは何を意味するでしょうか。
「諸君(弟子たち)は私(イエス)が語った言葉によって」というのは、
「イエスのその言葉を意識に抱くことによって」という意味も含んでいると思われます。

イエスの言葉は父なる創造主から与えられた「天」の言葉です。
この世の言葉ではありません。
そしてこの言葉を意識に抱くと、意識が「世的」でなく「天的」になっていく、
すなわち、聖(holy)になるというのが聖書の論理です。
ですからこの「きよい」は天的、聖ということだろうと考えられます。

よけいな「世的なもの」が少ない。
そして、この最後の晩餐にともにいる弟子たちは、既に、イエスの言葉を与えられているから、
聖になっているのだ、ということだと考えられます。
1~2節は、イエスの周囲に来る人々一般に関する一般論。
3節は、いまこの最後の晩餐を共にしている弟子たちに限ってのこと、となります。
