ここで慣習的統治だけでなく、ウェーバーが提示する三つの統治の形態すべてを眺めなおしてみましょう。
彼はこの三つを「慣習的統治 → カリスマ的統治 → 合法的統治」として
歴史的に推移するものとみました。
そして彼はここに、人類の意識が合理化されていく歴史をも見ています。
1.慣習的統治
~これを正当と容認する人民には、統治者に対する客観的観察の姿勢はありません。
ただその血統・家系を漠然と慣習的に正当だと意識しているだけです。
そしてウェーバーは、このとき人民は現実にはその血統に何か「神がかった力」をも感じている
とも見ています。
彼はそれを、人民が「魔術にかかっているような状態」とみます。
では~
2.カリスマ的統治
~は、その面から見たらどうでしょうか?
この統治を正当とする人民は、やはり統治者に「神がかった力」を認識しています。
その点、慣習的統治の時代と同じですが、違うところもあります。
その神がかった力を容認するのは、「当人に対してだけ」というのがそれです。
この統治を容認する人民は、その統治者の息子や孫には、もはや神がかった力は予想しないのです。
ナポレオンに対しても、毛沢東に対してもそうです。
それをウェーバーは、人類が、その分「醒めてきている」とみます。
これをまた、人類の意識がそれだけ「合理化してきている」とも捕らえます。
そして~
3.合法的統治
~になると、もはや人民の意識に、統治者の神がかった力への期待はありません。
彼らはただ、その法がよく現実に照応し、
それを担当するものがその法をよく活かして統治活動をしてくれることを期待します。
そこには統治担当者に神がかった力があることを、人民はもはや期待しない。
そういう意識が人民にないのです。
ウェーバーはこれに着目します。彼はこれを人類の意識の合理化が進んだ到達点とみるのです。
<魔術からの解放>
人の意識の「合理化が進む」というのは、裏側から見れば
「魔術からの解放が進む」ということにウェーバーにおいてはなります。
そしてそれは彼の歴史観にもなりました。
「人類の歴史は魔術からの解放のプロセス」~彼の歴史観です。
こういうパースペクティブ(大局観、全体的透視図)の中に、
彼は、三つの統治類型を納めているのです。
この大局観と三つの統治類型の「どちらが先」に彼の心に生成したかをいうことは
出来ないのではないでしょうか。
両者は彼の心の中で対(つい)をなしているのです。
様々な政治の歴史事実を認識しているうちに、
両者は対になって彼の心に生成したと鹿嶋は見ています。
人間の「直感」という認識能力は、そういうわざをすることが出来ると鹿嶋は思っています。
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それにしても、格好いいなぁ~。
「人類の歴史は魔術からの解放の歴史である」
「それが時代時代の主たる統治類型にも現れる・・・・」
あるいは~
「主要統治形態の変遷は、人類意識の合理化の過程を反映している」
かっこいいなぁ・・・・。
若き日の鹿嶋は、こうしたウェーバーに魅了されたものでした。
まあそんなことはどうでもいいです。
このメガネをつけたら、日本の政治、世界の政治の新しい側面が見えてこないか?
目から鱗が落ちないか?
~それがここでは大切なことであります。