
=兵馬俑、西安市郊外=

中国には紀元前の古代から独特の存在論が出現しています。
陰陽(いんよう)思想がそれです。
陰陽説は中国最古の王といわれている伝説上の帝王・伏羲(ふくぎ:BC3350-3040)がつくったとされています。
そんな昔に王がいたかどうかはともかくとして、陰陽説は大変古くからの思想であることにはまちがいありません。
ちなみに、この思想は日本に輸入され、加工されています。
そしてそれは陰陽(おんみょう)道と呼ばれています。

<陰陽思想の骨子>
陰陽思想の骨子はこうです~
「天地万物は陰と陽から成っている。両者は互いに消長を繰り返す。
陰がきわまれば陽が萌し、陽が極まれば陰を萌す。こうして世界は発展していく」~という。
陰陽とは具体的には、男・女、天・地、火・水、表・裏、善・悪などなどの対(つい)です。
これらによって世界は構成されているというのです。
もう一段ベーシックなところまでもどっていいますと「すべての根源は太極(たいきょく)である」とする。
そして「そこから陰と陽という両儀(りょうぎ)がうまれる」と言う思想です。
太極は混沌としたどろどろにの状況という想像もありますが、わかりません。
まあ、要するに「根源」です。源です。
韓国の国旗には、相組み合わわった二つの巴が描かれています。これは陰陽の両儀を示しています。
彼らはそれを太極旗という。二つの巴(陰陽)の源が太極である、という思想があるからです。
(韓国がどうしてこの中国の存在論思想を国旗にしたためたかについては、
機会が得られたら別記します。一部は前回の<臨時版>も示唆していますが)

<人の造った理論はどんどん展開する>
人間が作った存在論は、展開します。
すべての存在の源は太極(たいきょく)でしたね。
そこから陰と陽が派生している、という思想でしたね。
次にその各々からまた陰と陽が生まれる、とされていきます。
陰からは「老陰」「少陽」です。陽からは「少陰」「老陽」です。
これをまとめて「四象(ししょう)」といいます。
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理論はどんどん積み上げられていきます。
この四象がまた各々陰と陽を生むという。4X2=8ですから、合計八つになります。
これらのおのおのが「卦(け)」です。八つだから八卦(はっけ)です。
日本でいわゆる「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の「八卦(はっけ)」はここからきています。
どうして「当たる、当たらぬ」が出てくるか。
陰陽説は最初は哲学の存在論です。
だがそれは事象の動きも説明する動態論にも展開させられます。
そこでこれをもちいて将来を占う理論、すなわち「易学」にもつながるのですね。
日本では特にその面を多く使用します。だから主として「占い」の用具になるわけです。
その結果、「当たるも八卦、当たらぬも・・・」と言う格言のようなものが出ることになりました。
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八卦にもまたおのおの陰陽が案出されて、さらに理論、理屈は積み上げられていきます。
前述のように、人間の作る理論はそうなっていくものです。
特に中国人はそういう積み上げを驚異的に行っていくんですね。
なにせ麻雀を造った民族ですからね。
でも、それは追いません。
我々が見ておきたいのは、この陰陽思想が中国人の現実の行動に影響している状況です。


<陰宅と陽宅は対応して動いている>
万物が陰と陽との一対で出来ているとう思想は、中国人の現実生活、人生観、家族・親族觀に濃厚に影響していきます。
彼らは、今生きているこの世界を陽宅(ようたく)と考える傾向が大きいです。
そしてこれに死後の世界である陰宅(いんたく)が一対になって対応している、と考えます。
言い換えれば、「陰宅と陽宅とは常時組み合わさって働いている」ことになります。
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話は始皇帝(BC259-210)から2000年近く後の、明代に飛びます。
陰陽の世界観は、始皇帝時代はもちろんのこと、この明朝時代にも
中国世界観の根底にあって働きました。
北方に北京という大都市があります。明朝時代、永楽帝以後ここが中国の首都でした。
この街の郊外には、明朝の皇帝の巨大な墓地がいくつも(12稜)あります。
墓は掘り下げられた地下にあります。そこに皇帝の死体が収納されています。
地下にあるのは「陰宅の世界」だからです。
これが皇帝一族の「生者の陽宅」と対になって存在していると考えるのです。
両者は常時相互に影響し合っているという思想です。
死体置き場の前には、いま現在使用可能な中国政府発行の紙幣や硬貨が沢山投げられています。
陰宅の世界でも陽宅と同じようにおカネが要る。陰宅の皇帝にそれを与える、という思想からなされていることです。
そして陰陽の世界観は、今日でも人民意識の根底に横たわっている。
今では、一般人は通常、陰宅向けの紙幣を作って燃やすようです。
それによって陰宅で使うお金を提供した、と考えるわけです。
馬の形の模型を作って燃やしたり、自動車の模型を燃やしたりもします。
これが陰宅で馬になったり自動車になったりすると考えてそうするわけです。

<陰陽説は完全二元論>
こういうと「ああそれは聖書の思想も同じだ」と思われる日本人も多いのではないかと思います。
「キリスト教でも肉体が住む現実の物質界と、死後の霊界と二つの世界を考えているよ」と。
一見同じに見えますが、根底的なところでは違っています。
聖書では肉体と霊を人間の構成要素とみますが、霊の方を永続する基底要素であり本体であるとしています。
肉体は百年もすれば消滅するもので、生きている間も霊の影のような存在という思想です。
「物質界での肉体の生活状態は、基本的に霊の状態が反映したもの」とみる。
これはつまることろ、霊を基盤にした一元論です。
陰陽説は二元論です。そこでは、陰と陽とが対になっていて、両者は対等に影響し合っている。
「世界ではそれが交互に現れる。陽が極まれば陰が台頭し、陰がきわまれば陽が台頭する、
この運動法則で世界が展開していく」
~という。完全な二元論です。

<兵馬俑(へいばよう)は国力維持のため>
北京からまた南に下って長安(今の西安・・・シーアン)にもどりましょう。
時は再び、秦の始皇帝の時代です。
この時代においても、陰陽の世界観は人々の意識の根底にあって
色濃く働いていました。
西安の街の郊外に、兵馬俑とよばれる巨大な埴輪の墓があります。
埴輪とは「貴人の死後のお供を陰宅でする」と考えられた人形です。
兵馬俑もそうです。それらは始皇帝が陰宅に行ったらお供をすると考えられている人形です。
だがこれには通常の埴輪と異なる点があります。
兵馬俑の埴輪は人身大なのです。そして、みな武装をした武人の人形です。
もう一つ大事な違いがある。
通常の埴輪は、貴人が死んだ後に造られます。
だが兵馬俑に納められている埴輪は、始皇帝が死ぬ前に造られているのです。
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いきさつはこうです。
帝を慕う武人の数は極めて多く、彼らはみな帝が死んだら陰宅にお供する(殉死する)つもりでいました。
だが、そうなると陽宅の秦国の武力が弱体化してしまいます。
ここで帝はこれを防ぐためまたまた跳躍力あるアイデアを出しました。
武人たちが生きている間に、各々に生き写しの埴輪を造らせたのです。
馬が必要な部下には等身大の馬の埴輪も造らせた。
そして自分が死んだら、それらの埴輪を地下に埋めて、武人たちには生きて国家を守るように命じました。
その結果できたのが、兵馬俑で、現在埴輪の墓地は掘り起こされて観光資源になっています。

<始皇帝の陰宅が発掘されるのはこれから>
始皇帝は、自らの政庁や邸宅の広大な陰宅も造っています。
それを地下に造っている。驚くべきことではないでしょうか。
だがこれは、まだ、掘り出されていません。
発掘されたらこれ自体がまた凄い研究資料、観光資源になるでしょう。
世界中から研究者や観光客が大挙してやってくるようになる。
中国政府はそのタイミングを考えていると言われています。
国家財源が危機に陥ったら、観光収入のために掘り出すかも知れない、という
観測もある。
こう見る人からは「始皇帝は2000年以上たっても中国を救う資源を残している」
と称賛する見解も出ています。

<陰宅から陽宅の運気を変える!>
陰陽思想は、明の皇帝の墓にも影響しているだけでなく、
現代においても中国人の意識のなかで色濃く働いています。
こんなエピソードがあります~。
ある公的な役職の選挙戦のとき、候補者の運動員は対抗馬候補者の先祖の墓地にひそかにいきました。
そこに埋められていた死体を掘り出し、頭の向きを変えてまた埋めて帰った。
ねらいは、対抗馬の陰宅の状態を変えることによって、
それと対になっている彼の陽宅の運気を変えてしまうことにありました。
この種のことはいまも結構あるそうです。
中国人の意識の底では、陰宅と陽宅の世界観はかくもリアルに動いているのです。
