鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

17.<階層管理方式の教会の出現と中世暗黒時代>

2013年10月25日 | 聖書と政治経済学




しばらく海外に出ていたため、更新が遅くなった。再開する。




<教会参加者の質が変わる>


 初代教会の成長は爆発的で、信徒は開始後30年でローマ帝国全土に広がった。
そうしたなかで紀元後2世紀に入ると、管理階層システムをとる教会組織がキリスト教団内に出現した。

新らしい宗教運動が急成長をみせると近隣者は当初気味悪く感じ、恐怖と怒りを抱いて集会を襲撃したりする。
だがある程度普及して、思ったほど有害でなくかつ社会貢献もするとわかると迫害は和らいでいく。

他方、教会では初代教会以来、参加者は依然として生活面でも助けあっていた。
「信徒はもてるものを使徒たちのところに提供し、使徒たちはそれを信徒の必要に応じて分け与えていた」
~と『使徒行伝』という書物は記しているが(2章44~45節)、その方式で、教会は運営されていた。

マルクス、エンゲルスの言葉に「能力に応じて働き、必要に応じてとる」というフレーズがある。
共産主義社会になったらそういう理想の世の中になるよ、と訴求した名文句だが、
この思想はもとは聖書のものなのである。

参加者の生活の世話をしてくれて、病の癒しも相変わらず現れているのなれば、
迫害が少なくなるにつれて、参加を望む者は加速度的に増える。
するとそういう社会経済的恩恵をうることを主動機として教会に参加してくる人が多くなるのは自然の理である。
こうして信徒の質が変化する。




<指導者が聖書の要約をつくる>

教会はこうした人も拒まず受け入れるのだが、運営上の問題が起きた。
こういう参加者の聖句への好奇心はあまり強くない。文字を読めない人もいただろうし、
裕福で教会活動に聖句主義者のように多くの時間を割くことが出来ない人もいただろう。

こういう人々の間では、スモールグループでの聖句自由吟味方式は機能しない。
指導者たちは結局聖書の簡素な要約を一つ作って、これがキリスト教の教えだとして与えるしかなくなった。
それは最初はやむなくとった手段であったが、慣習化して一つの制度になっていく。
すると教会員の思考方式に劇的な転換が起きることになる。




<教理主義>

新方式を取る教会組織は後に大発展してカトリック教会と呼ばれるようになる。
そこで今からその名を用いて言うと、カトリック教会の経典に対する姿勢は初代教会のそれと対照的になった。

この教団は聖句の代わりに、教会としての「聖書の簡素な要約」を作って、これが「キリスト教の正統な教え」だとして与える。
それは信徒に聖句の吟味をさせないことに直結する。

「聖書の簡素な要約」を教理という。教理は文字通り「教」えの筋道だった「理」屈である。
そういう筋道は、聖書を読む時には誰でもある程度頭の中で造っていくものだ。
だが、これが「正統な教理」として教団から統一されて下されると、信徒にはは聖書を読もうという意欲が生じなくなる。
「正統な」解釈(教理)がわかっているのなら、わざわざ聖句を読む必要がないからである。

指導者もまた、それと異なる解読は公言しがたい。
そこで教会では時と共に聖句よりも教理が実質的に上位にたっていくようになる。
こういう行き方を教理主義という。
「主義」というのは、「こちらの方がベターである、上位である」という意味を持っている。
英語ではCreedalismないしはDoctrinismという。現在米国では北部の方で この方式が優勢になっている。




<聖句主義>

対して初代教会以来行われてきたのは聖句そのものを最終判断基準とし、聖句に究極の権威を認めてする方式である。
これを聖句主義というのである。英語では前記したBiblicismがそれに当たる。
そこではいかなる教理(解釈)も聖句より上位の権威をもつことはない。米国では南部地方でこの方式が優勢である。




<教理主義と聖句主義は水と油>
 
この二つの活動方式は、基底的なところで対立している。

学問知識とは科学による知識のことであるが、この習得方式に照らしてみると、
教理主義方式は義務教育での授業による習得方式のようなものである。
そこでは生徒に教科書に書かれているのは正しい知識だとして受け入れ習わせる。

対して聖句主義のそれは学界での学者の習得のようである。
学者の勉強会を学会と言うが、そこでは学者は自己の研究成果を各々述べる。
そういういろんな説を互いに討論し吟味して、各々が自分の見解を抱いて帰る。

義務教育での教科書に載る知識は、実際には学界で優勢になっている「時の定説知識」であるにすぎない。
だが義務教育では生徒は通常、これを正しい知識として学ぶ。
これが教理主義の姿であり、聖句主義教会では学会での学者の姿勢を信徒はもっている。

また、聖書に対する問題意識も異なってくる。
教理主義では信徒は教理に「そこからとるべき行動、人生姿勢を引き出そう」という意識で対するが、
聖句主義では聖句の中に存在世界全体の法則を見出そうとする。

かくして教理主義はキリスト教を「考えない宗教」にし、聖句主義は「考える宗教」にする。
この対立は基底的であり、相容れる可能性はゼロである。両者は水と油であった。




<教理主義独自の展開>

以上の説明は、教理主義は聖句主義に全面的に劣るという印象を与えがちだが、実体はそうではない。
教理主義教会にも独自な特色があるのである。

まず、教理主義教会では、信徒の献金でもって活動するプロの指導者、すなわち職業僧侶が出来やすくなる。
プロとなれば、僧侶は経済生活の事柄に煩わされること少なくして、指導活動、研究活動に専念できる。
そのなかで僧侶の活動能力は洗練され、多様化していく。
建築設計に卓越した者も出る。彼らは壮麗な礼拝堂を設計した。
また音楽編成能力に卓越したものは優美な賛美音楽をも作成した。




<霊的感銘を補填する>
 
これらは、礼拝時の感動不全を補填した。
聖書の要約を与えられてしまうと、聖句探求によって奥義を発見したときの「真理を見出した!」という霊的感動は得られない。
この補填に壮大な礼拝堂や教会音楽は役立つのである。

壮大な礼拝堂(聖堂)は荘厳な雰囲気を形成する。
音楽は霊感を開く効果を持つので、優美な賛美歌合唱もまた敬虔な気分にしてくれる。
僧侶たちは、それらを厳粛な礼拝儀式のなかで提供した。
儀式化すると、一度の礼拝に大量の信徒を出席させることが出来る。
僧侶たちはまた日曜礼拝ごとに壮麗な式服で登場した。

その他、週日にも一般信徒の日常生活の折々に適した神秘感ある儀式サービスを提供した。
近親者が死んだら葬送の儀式をし、結婚には結婚式をし、子供が生まれたら祝福の儀式をしてあげた。
信徒はその時々にあらたまった霊的な気持ちなることができた。




<階層管理組織での統率が必要になる>

教理主義教会では、大衆信徒の教会活動は楽になっていく。
儀式はみなプロがお膳立てしてくれているので、
日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくればいい。
それは大衆にとってとても参加しやすい状況なので参集者はますます増えた。
この教会運営方式は、一度に大量の信徒に対応できる利点をもっていたから、
信徒は加速度的に増大し献金総額も増大の一途をたどった。

ところがこの状況は、信徒の一体性を実現するには困難をもたらす。
大衆信徒には聖句主義者のように聖句の理念を共有しあって自発的に一体化するということはないからである。
指導者は信徒が増大するほどに、強力に統率してあげることが必要になった。

そのために僧侶自身が管理階層を形成した。
自らが命令系統の中で組織的に行動し、信徒をその管理体制の中に整然と組み込んでいった。




<司祭、司教、大司教、そして教皇>

職業僧侶の階層管理組織の 職位は、司祭、司教、大司教であった。
司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐
(イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為で、イエスはそれを命じていった)
~の儀式を執り行うこととした。この職位は会社でいえば課長、係長に相当するだろう。

 司教の職務は、そうした教会や司祭を地区ごとにまとめて統率することであった。これは部長である。

 大司教のそれは、司教の管理する地区をさらに複数集めて管理統率することであった。これは重役だろう。

 教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めた。
だが後に教皇(法王ともいう)という最終決定の絶対的権限をもった社長を登場させた。
これで大司教の会議で意見が分かれて膠着状態が続くようなこともなくなった。

この方式をとる教会が、後にカトリック教会と自らを称するようになっていくのである。
教理主義教会は、聖句主義教会とは様変わりなものとなった。
そして、教会堂や僧侶の服装などその様相は外部者の目につきやすいものであった。
それもあって、人々はこの教会をキリスト教会の代表とみるようになった。
量的な大発展とも相まって、カトリック教会で行われる諸活動が
「キリスト教とはこういうもの」という印象を人々に与えていった。




<聖句主義教会への攻撃が始まる>

職業僧侶のなかには神学(聖書解釈学)能力に秀でた者もあった。
彼らは神学校設立に貢献し、後継僧侶を養成した。

カトリックの神学校に新たに入る若者は、
「キリスト教活動とはカトリック教会でなされているようなもの」との印象に疑念を持たない人々である。
彼らは教団教理を絶対の真理だと学ぶ。
そして卒業して僧侶になると、自分は絶対の真理を知っていると思い
聖句主義者を真っ向から否定するようになっていった。
「正統な解釈がわかっているのに、お前たち聖句主義者は何をいろいろ解釈してやっているのだ!」
~というわけである。彼らは聖句主義者を攻撃するようになっていく。

彼らは「異端」という言葉を用いて攻撃した。
教理主義方式方式では正統な解釈を定める。するとそれに反する解読を異端とすることになる。
他方、聖句主義では正統解釈を定めないので異端という言葉は出てこない。
彼らは自分たちにない言葉でもって攻撃されたわけである。




<カトリック教団、ローマ国教に>

ローマ帝国はキリスト教運動に大迫害を加えた後、カトリック教団を公認宗教にし、
さらに帝国の唯一国教とするに至った。

唯一国教となれば、全国民をカトリック信徒にするのが義務となる。
そういう世界では他の宗教は認められない。ここから欧州の思想統制時代が始まる。
教団は国家権力を背景に様々な手段を用いて人民をカトリック一色に染め上げようとした。

ところがこれに頑として従わないキリスト教徒がいた。聖句主義者がそれである。
だが国教となれば教会は国家の一機構でもあるから、国家の法制度や軍隊を用いることが出来る。
教会は聖句主義者を見つけ次第逮捕し、広場で火刑に処した。
こうして1200年に及ぶ聖句主義者の過酷な歴史が始まった。




<中世暗黒時代とは>

現代、世界史の教科書に中世暗黒時代という用語が出てくる。
だが、生徒にはその意味は漠然としたままである。
カトリックという宗教教団による思想統制に教科書を書く歴史家たちが無知であることによる。

この状況を理解すべく引き合いに出せる現代的事例と言えば、社会主義国家だろう。
ここでは共産党以外の政党活動を許さないし、共産主義思想以外を認めない。
だが、これは政治思想面での統制である。
キリスト教思想は世界観、歴史観から人生観、死生観にまで、人間が行う思考のありとあらゆる面に及んでいる。
思想統制はこのすべてに及ぶのである。

そして統制担当者はプロの宗教僧侶である。宗教教団の統制は微に入り細にわたりがちだが、とりわけカトリック僧侶による容疑者追求は執拗であった。
さらに国家の思想統制となれば、秘密警察も人民の間での相互密告もある。
人民の精神は恐怖で萎縮しきり、発見も発明も出なくなり、社会は停滞の極みに陥った。

欧州ではこういう文字通りの暗黒時代が実に1200年続いた。
だがそのなかで、聖句主義者はピレネーやアルプスの山岳地域、スイスの山間地帯、
極寒の北欧地域などに逃れ隠れて自由な聖句吟味活動の灯火を守り続けた。








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