鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

18. <ルターの宗教改革が英国国教会を誕生させ、聖句主義者が英国を変革する>

2013年10月31日 | 聖書と政治経済学




だがこの世の権力が永久に続くことはない。16世紀に入ると、1200年に及んだカトリックの欧州一円支配体制は崩れた。
風穴を開けたのはルターの宗教改革であった。

ここで読者は留意しておくべきことがある。我々が教科書で学んできた宗教改革には聖句主義者が視野に入っていない。
まずカトリック教会があって、そこに宗教改革が起きて、全く対極のプロテスタント教会が誕生するというストーリ-になっている。

だがそれは片目だけで見たキリスト教史観である。正しくはルターやカルバンの起こした宗教改革の実態は「教理主義教会内でおきた改革運動」にすぎない。
実はこの教理主義勢力の対極に、膨大な数の聖句主義教会が存在する状態で、キリスト教史は動いている。

その全体的流れの中にプロテスタント教会が出現した。
ルターが誕生させたのは、カトリック教会と同じく、教理を聖句よりも上位において教会運営する教理主義教会の一グループなのである。




< ルター、宗教改革の実態と成果>

ルター宗教改革の主眼は、教皇という存在を無くすことに置かれていた。
彼はカトリック教会が奉じる教皇の権威は、聖書に根ざしていないと主張し、一大運動を起こして、この職位を教会から取り除こうとしたのである。

ちなみにカルバンはルターが撒いた冊子にフランスで影響を受けて、後に宗教改革運動を進展させるもう一人のスターである。

当時ドイツはまだ統一国民国家になっていなかった。各地域の所領を諸侯たちが独立して統治していて、日本の戦国時代のような状況だった。
ルターは、神学者であると同時に卓越した戦略家でもあって、これら諸侯たちの支持を、あらかじめとりつけておいて改革運動を開始した。
大名諸侯たちは、ルターの主張する方式の教会を自国の領内に作っていった。




< 欧州初の宗教戦争が始まる>
 
 カトリック教団はカトリック宗主国の二大国家フランス、スペインの軍隊をドイツに出動させた。
ドイツ諸侯はこれを迎え撃って、欧州初の宗教戦争がドイツの地で開始された。戦は1517年に火ぶたを切り、実に40年も続いた。

1555年に両者は妥協し、アウクスブルクで「宗教和議」を開催した。終戦時のドイツ国内は四〇年間にわたる戦火に荒れ果て、人口は3分の2に減少していたという。
カトリックは、ドイツ連邦国内でルター派がカトリックと同等に教会を開く権利を認めた。
どちらの教会を選ぶかは領主が決定し、人民は領主が選択した方の教派に従う、という方式だった。




<イギリスに国教会が噴火>

ルター派教会も教理主義である。宗教和議後も、カトリック教会とともに聖句主義者を迫害した。
ところがこの戦争中に、海を隔てた英国の宗教界に激変が起きた。
1535年、時のイギリス国王、ヘンリー8世が突如英国国教会を設立し、国教をカトリックからこれに変更したのである。
これを押さえるべく出動させる軍隊余力は、スペインにもフランスにもなかった。

豪腕ヘンリー8世は、カンタベリー大司教に国教会の諸事項の最終決定権能を持たせた。
こうして彼にカトリックの教皇的な職能を持たせながら、その任免権は王自らの手に保持した。
国王は政治から宗教に至るまで、国王主導で統治できる体制を確立したわけである。



<宗教に急速な規制緩和>


聖句主義活動に自由をもたらす効果では、この英国での宗教改革の方が百倍強烈だった。ヘンリー8世は、カトリック修道院の土地建物を没収し、カトリック僧侶も追放した。
そして新たに任命された英国教会の新僧侶には、カトリック僧侶のような厳密かつ執拗な宗教統制の技量はなかった。統制のプロをなくした英国では宗教統制が急緩和した。

聖句主義者はいつでもどこでも国家をばらばらにする無政府主義者と誤解されるので、英国でも火刑は相変わらず行われた。
だが、その頻度は極端に少なくなっていった。こうして大幅に自由化された宗教世界が、ルター戦争が決着する20年も前に英国にできあがった。



< 聖句主義者英国に流入>

聖句主義者は、信仰活動の自由を求めて住み慣れた地を簡単に後にする「イミグレ」であり、かつスモールグループが連携して、驚くべき迅速な情報ネットワークを保持する人々である。
彼らは、水が低きに流れるがごとくに英国に移住した。



< 聖句主義活動、英国人精神に影響与える>

自由度の高い英国では、聖句主義者は社会の表面に出て活動できた。そしてその姿が一般英国民に影響を与えた。
元英国女性首相サッチャーの回顧録にも、雑貨店を営んでいた両親が影のようにやってきた幾人かの大人とともに、聖書を開いてなにやらひそひそ話し合うことが周期的にあったと記している。(日本経済新聞「私の履歴書」)。
これはスモールグループでの聖句吟味活動以外のなにものでもない。

国教会の司教や司祭ら社会的地位の高い人々も、聖句主義者の活動を目にし、その真摯で活性に満ちた姿に、知的にも霊的にも強烈に覚醒された。
彼らのうちから、自分たちの国教会の運営方法に対する批判意識を抱く者が出て、ついに一部が国教会の内部改革運動を展開するに至った。
これがいわゆる英国ピューリタン(清教徒)運動である。

現代、公式の歴史教科書には英国清教徒運動の発生理由が記されていいないが、実状はそういうことである。



< 英国ピューリタンの実態>

ピューリタンという呼び名は元来は欧州大陸にいたバイブリシストに対する旧くからあるニックネームだった。
聖句主義者たちのひたむきな姿は一般人の目には「純粋な奴ら」という風に映るので、
英語のピュア(純粋な)という語の意味を含んだピューリタンというあだ名は、自然発生しやすいのである。

英国教会の改革運動に身を投げかけた司教・司祭など教職者も、一般人に「純粋なやつ」との印象を与えたのだろう。
誰が呼び始めたのか、彼らもまたピューリタン(清教徒)となった。だが、これは英国ピューリタンないしは近代ピューリタンと呼んで区別した方がいい。
 
彼らからは、命知らずの内部闘争を激烈に行うものも出た。これは内部改革ピューリタンと呼ぶべき人々である。
体制側はこの内部改革者を激しく弾圧した。その結果、内部改革を断念して国教会から分離独立して信仰活動をするという教職者も出たし、それに従う一般信徒も増大した。
国教会に所属せねば職業など様々な面で不利益を被るにもかかわらず、彼らは分離した。

彼らはセパラティスト(separatist)とかセパレーショニスト(separationist)とかいったニックネームで呼ばれた。
日本で分離派清教徒、分離派ピューリタン、あるいは分離主義者といった名で呼ばれているのはこの人々である。

ここで留意すべきは、どちらの英国ピューリタンも教理主義者だったことである。
聖句主義者に覚醒されながらも、彼らは教理主義を脱するところまでは行かなかったのである。

余談だが後にアメリカ大陸に植民の道が開けると、分離派ピューリタンは、大挙してボストン地域に移住する。
ボストンは分離派清教徒の街になり、彼らはこの街に来た聖句主義者を捕らえ投獄、鞭打ちなどの罰を与えることになる。ここに教理主義者の性格が表れているわけだ。

にもかかわらず公式の歴史書物はみな、アメリカに渡ったピューリタンを自由の申し子のように書いている。バイブリシズムへの無知が産み出す噴飯ものの盲目知識の一つがここにある。
いうまでもないが、自由の申し子がいたとすればそれは聖句主義者たちに他ならなかった。



< 国教会の宗教統制力、形骸化する>

英国国教会(the Angican Church)もまた唯一国教制の教会であって、他の教派を造ったり信じたりする活動を規制すべき存在だった。
だが内部改革派や分離派のピューリタンが出ると、その宗教統制力は急速に減退し、 それにつれて新教会が続々と出現して成長するようになった。
日本で青山学院や関西学院を創設している「メソディスト教会」、同志社大学をつくった「組合派(会衆派)教会」、明治学院を造った「長老派教会」などはこの頃の英国に生まれている。

これらの教会を異端としてつぶしてしまう力は、もう英国教会にはなかった。さすれば、もうこれにはアングリカン・チャーチと言う名は妥当でなくなる。
それに併行してこの教会には別の呼称も現れた。エピスコパル教会(Episcopal Church)」がそれである。日本語では、監督派教会、とか聖公会とかに訳されている。
これもまた維新後の日本で立教大学を創設している。が、ともかくこの時点では英国教会はもはやプロテスタント教会の一つという風情である。



<イギリス黄金時代の原動力を形成>

この状況はますます聖句主義者を水を得た魚にした。彼らの活き活きした姿を見、活動を模倣し英国人民の精神も急速に活性化した。
かくして18~9世紀の英国は、全土壌から聖句主義活動が醸成する自由の蒸気が沸き立ってくるような状態になった。

この精神風景を雰囲気として心に抱くことなくして、近代英国史の総合的理解は出来ない。
この国が突如七つの海を支配して黄金時代を迎ええたのも、人民のこの精神活力の上に咲いた華であり果実だったのである。

余談だが、判例ベースで構成される英米法も、この聖句主義の認識思想の上にできあがっている。
他方、欧州大陸では、法典体型主体の大陸法が大勢になっている。これもまたカトリックが維持した教理主義的気風を背景とするところが大きい。




<イギリス聖句主義者は社会改革志向をもつ>

近代英国に萌え出た新教会は、みな教理主義教会だったが、一つだけ例外があった。英国近代バプテスト聖句主義教会がそれである。
この教会は聖句主義活動史のなかでも独特の性格、社会改革気質をもっている。




<アナ・バプテスト>

バプテストという語の意味は何か。
これはそもそもは聖句主義者へのニックネームで、最初はアナ・バプテストだった。
アナは「再び」という意味の接頭語で、バプテストは「洗礼する者」という意味である。あわせて「再洗礼者」という意味になる。

アナ・バプテストなる語の由来は次のごとくだ。
欧州大陸での聖句主義者の多くは山岳地帯に逃れ住んだことは前述した。だが彼らは、迫害・統制が緩くなった時には平地に出てきて活動した。
その彼らに接触した一般人のなかから、聖句主義活動の自由と精神性の深さに感動し、その群れに加わることを切望するものが持続的にでた。
ちなみにこの種の現象は今日でも米国で周期的に起きている。

がともあれ聖句主義者は「来るもの拒まず」なのでこれを受け入れた。ただし、その際新参者に水に沈めるバプテスマ、すなわち浸礼を要求した。

中世欧州の一般人民は生まれてすぐに幼児洗礼を受けてカトリック信徒ということになっていた。
だが赤子に信仰などないと考える聖句主義者は、これをバプテスマとして認めなかったのである。
加えて新参者が受けてきた、滴礼も認めなかった。滴礼とは水を何滴か額に垂らす方式のものだが、彼らは聖書に記されている洗礼は全身を水に沈める「浸礼」のみとした。

そこで、新参者にバプテスマのやり直しを求め、川に連れて行ってザブンと沈めた。
川でやれば一般人の目に入る。人々はそれをみて「あいつらはバプテスマを二度させる再洗礼者」だといった。それをラテン語でアナ・バプテストと呼んだ。

ちなみにこれは当初は軽蔑を込めたあだ名だった。
キリスト教信仰者へのニックネームはみな当初は外部者がつけるあだ名で始まっていて、かつそこには軽蔑の気持ちが込められている。

クリスチャンという呼び名も、古代の小アジア地区で始まっていて、当初は「キリスト野郎」という意味の蔑称だった。
「なんか訳のわからんことに入れ込んでいる馬鹿な奴ら」と人々はみたのである。
ところが信徒がだんだん多数派になると大衆は見直し、軽蔑感が薄れていって、クリスチャンの名も今はいい感じで聞かれるようになっている。

アナ・バプティストの名もそうだが、これには一般化するにつれて用語の簡略化も起きた。「アナ」が省略されて、バプテストとなったのである。昨今ではモバイルゲームがモバゲーとなったがごとくだ。
ともあれこうして、欧州では昔からバプテストの名はあちこちで散在していたのである。



<英国に近代バプテスト誕生>

そのバプテストの名を、近代英国に聖句主義教会を創始した人が自称した。事情は次のごとくだ~。
英国教会の司祭にジョン・スミスなる人物がいた。
彼は大冊の著書も出している卓越した神学者でもあったが、分離派清教徒となったために1606年に国王ジェームス1世に国を追放され、仲間の二人と共にオランダに亡命した。
そしてそこで聖句主義者と交わりをもった。

このころオランダにはメノナイトと呼ばれる聖句主義者がたくさんいた。スウェーデン、デンマークなど北欧諸国は、中世には北の辺地であってカトリックの追求が及びにくかった。
オランダでも聖句主義者は、ライプチヒの街の通りやアムステルダムの堤防の上などで聖句解読を示し、福音を説いていた。

それを聞いたスミスらの目から鱗が落ちた。
彼はこれぞ福音の神髄と確信し、1609年、自ら水に沈んで再洗礼(浸礼)をした。他の二人も続き自分たちをアナ・バプティストと称した。

スミスら三人は、名実共に聖句主義者となってこの年英国に戻った。
この頃、統制はさらに一段と緩くなっていたのだろう、彼は知人たちに呼びかけ最初の英国聖句主義教会を設立し、これをバプテスト教会と呼んだ。

英国ではその後、バプテストの名称を冠した教会が多く造られていき、バプテストの名が英国近代聖句主義者を代表する名称となっていった。
またこれによって以前に聖句主義活動をした人たちも、バプテストと呼ばれるようになった。スミスはこの教団の創始者とされている。




<メノナイト聖句主義者>

スミスらを聖句主義に導いたメノナイトという人々の名もまたニックネームとして始まっている。それは指導者メノ・シモンズ(Menno Simons)に由来している。

彼は裕福なカトリック教徒だったが、やはり聖句主義活動を目にして感動し、1536年にこの活動に身を投じた。ルター宗教戦争勃発の十年後である。
その彼に影響を受けて運動に加わった人々がメノナイトと呼ばれるようになったのである。

彼もまた「最終権威は聖句にあり」等のバイブリシズム原理を説いた。
だがそのうえで「教会での教えはこの世での個々人の職業生活、家庭生活、日常生活のすべてに厳密に適用されねばならぬ」と教えた。
これを受けた信徒は、日常生活に福音を活かそうという志向が強くなった。その結果、彼らは、温厚で、平和的で、法律遵守で、人徳があって、根気と我慢強い人々の集団になった。

彼らは移住性向が顕著に高く、自由な聖句主義生活のためにはどこにでも移住した。あるグループはロシアに移住し、雪を掘り起こし土を耕してジャガイモを育てながら暮らした。
また、ある集団はスイスの山々で暮らしながら信仰生活を守り、聖句主義活動を伝えた。

オランダには政治的に超過激な聖句主義者もたくさんいた。 だがその多くは体制側と流血の戦いをし、殺戮されていった。
そして生き残ったものがメノナイト派に合流したので、この会派は大きな聖句主義集団になった。なお、メノナイトについては、早くから英国の街々で聖句主義の方法を説いていたという見方もある。



<英国バプテストは社会有力者が主導>

英国バプテストは近代に開始されたバプテスト集団なので、近代バプテストと称して区別するのがいい。
この集団は、従来の聖句主義者と違って、強い社会改革志向を持っていた。

聖句主義活動は体制側から迫害されるので、地下におけるアンダーグラウンド的なものになる。そういう活動には現体制での社会地位を持った人は加わりにくく、活動者の多くは、通常庶民となる。
メノナイトも、個々人が聖書の教えを職業生活、家庭生活、個人生活に厳密に適用することに価値をおいて生きる庶民だった。

ところが英国近代バプテストは、社会的地位のある人や知識人が主導する集団としてスタートしている。
創始者のスミス自身が英国教会の教区司祭(vicar)だった。当時の国教会司教は地位も財産もある素封家で、地域社会の指導者にして名士だった。
特に彼は複数の書物を書いた神学者でもあり普通の司祭をはるか超えた存在だった。スミスは、死亡する1612年に後継者のために、信仰表明書も書き残している。
ちなみに、そこでは国家とクリスチャン信仰との分離独立を明白にうたっている。

その彼の呼びかけに応じる人々もまた、多くが社会的有力者や知識人となった。彼らは、早期にカンファレンス(聖句主義の神学学会)まで開いている。

こういう人々は、聖句主義活動を個人の信仰生活で実践するだけでよしとしない気質を持つものだ。彼らは聖書解読の自由が迫害されずに行える国家、社会の実現をも志した。
英国近代バプテストは自由のために社会の仕組みをどうすべきかを熱く議論する集団ともなったのだ。







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