拙文を読んでくださっている皆様。
こんな疑問をお持ちになりませんか?
「どうして教会組織がどうこうという話をくどくどするのだ?」
「なぜ、ローマ帝国の歴史など語るのか?」
「そんなものは高校の世界史の教科書にあるではないか?」
「キリスト教の正しい学び方」 なんていいながら、まったく何やってるのか?
+++
そんな疑問に答えるべく、ここで、話の全体像を少々考えておくのがいいと思います。
<そもそも、は>
原点から始めましょう。
そもそも、何故キリスト教を考察対象にしたか、から・・・。
答えは教典にあります。
この教典「聖書」は、万物の創造神からのメッセージ受信記録と自ら宣言するという、とんでもない書物です。
もしそれが事実なら、それは世界の全存在を知る方からのメッセージとなるでしょう。
なぜなら、造った方は、被造物の全てを知っていますから。
テレビを作った人間が、テレビの全てを知っているのとおなじです。
+++
その方からのメッセージであるのが事実ならば、その受信記録(聖句)には、世界の全てを知った上での究極の知識が含まれているはずです。
そしてこんな夢を正面切って提供する書物は、この世にはこの一冊しかないのです。
その夢を筆者は確かめようとしているのです。
<幼少時の願望>
人間は、心の奥深くに世界の全てを知りたいという、願望を持っています。
幼少時には、この望みを、漠然と持っている。
それに関連して、「自分は何故存在してるんだろう?」「何のために生きてるのだろう?」と
漠然と思ったりもします。
けれども、まもなくこの思いは、潜在意識の中に納められていきます。
我々人間は肉体を持っていて、それに食べ物を与えていかねばならない。
大人になったら、その糧を自ら与えていかねばならない。
~それを知って、その準備に努めるので、幼少時の素直な好奇心は潜在していくのです。
+++
けれどもこの思いは、潜在意識の中で生き続けています。
そして、それは全ての知識欲求のベースになっています。
「知」の原動力になっているのです。
幼少期の夢に応じてくれるかもしれない書物。
正面切って応じきる可能性をもった、唯一の書物。
筆者はこの書物を探ってみようと思い立ったのです。
これを吟味・探求した人々は、既に沢山います。
彼らの活動は、歴史の中に埋め込まれています。
掘り出してそれをも手がかりにし、筆者の限られた経験知識にも照らしつつ、
この「大法螺〈ホラ〉」の現実妥当性を探究し始めました。
もう30年にもなります。
人間ですから探究にゴールはありません。
どこまで行くかわからないままに、やってきた。
当面のその知識を述べているわけです。
<キリスト教活動の原点>
キリスト教活動は、この書物に含まれているかもしれない全能者の知恵を求めて、聖句を吟味する活動としてはじまっています。
この最初の教会が初代教会だとは、これまで述べてきました。
+++
そこでは、数人の小グループでの聖句自由吟味活動がなされました。
初代教会では、独特な方法で集団組織の運営がなされたのです。
<「旧教、新教」は間違い>
この方法を継承する人々は、今日まで膨大な数で存続してきています。
だが、この方式や活動者たちの情報は、歴史の中で黙殺されてきました。
その結果、現在、人類には~
「キリスト教には、旧教と新教がある」あるいは「旧教と新教に分けられる」
~という思想が常識になってはびこっています。
この場合の旧教は「カトリック」で、新教は「プロテスタント」です。
新教は、カトリックしかなかったところに、宗教改革によって出来た新しいキリスト教派だという。
+++
だが、これから明かしていきますが、我々が現代、享受できている「精神の自由のある生活」は、
実は、初代方式の教会活動の土壌から産まれているのです。
「個人の自由を大切にする社会」という理念も、そのベースから産まれている。
その土壌をを黙殺してしまうのですから、人類は、人間が求める幸福に関する肝心なところに目を塞がれた状態でいます。
世界の指導者は、その状態で漠然と手探りしながら理想社会作りを試行錯誤しています。
<「正しい学び方」を>
詰まるところの原因は「今のキリスト教の学び方が正しくない」ところにあります。
人類の「すべての表社会」が「キリスト教の間違った学び方」の中にある。
それを「正しい学び方」に戻そうとするのがこのシリーズです。
表世界の全てが間違った常識にあるときに、発進力の小さな一人の人間がする「知らせ」など、大海への一滴です。
ではありますが、一粒の種を蒔いておこうと、筆者はこのシリーズを書いているわけです。
次回から、本論に戻ります。
(「キリスト教の正しい学び方」 第16回 完)