鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.11   4章 新大陸での近代バプテスト

2016年09月18日 | バプテスト自由吟味者の道





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(訳者解説)

 ミードは次に、信教自由、思想の自由をアメリカ植民地に建設するに巨大な貢献をした二人の人物について書きます。

 その一人、ロジャー・ウイリアムズは敢然と理想を追い求める気迫に、天与の知性と体力が付加された人物です。

 彼は神学者にして牧師、そして雄弁な説教師でもありました。

 ロジャーは今のロードアイランド州の一部の地域に、信仰自由社会を創設します。

インディアンと仲良くなり、彼らから土地を購入しての設立でした。

 その信教自由社会に逃げ込んできた一人にジョン・クラークというバプテスト牧師がいました。

 本書には詳しく記されておりませんが、ロジャーとジョンは今のロードアイランド州の地をバプテスト派の植民地とすべく、英本国にわたります。

国王から法的な植民団設立勅許上を得ようしての1651年の渡英でした。

  勅許は容易には出ず、ロジャーは米植民地に帰りますが、ジョンは残ってなんと12年間申請をし続けました。

そして1663年に勅許状を得ます。

彼はロジャーが開始した仕事を完成したのでした。

では本文に入ります。

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【 ロジャー・ウィリアムズ新大陸で嵐を起こす】


  さて前章にその名を紹介したウィリアムズ、彼はまさに”嵐を呼ぶ男”でした。

 幼い頃から彼の心身は環境に溶け込めませんでした。

 そして彼は溶け込もうともしなかった。

 
  ケンブリッジ大学をめざましい成績で卒業しました。

 その彼に、複数の上質な英国国教会教区から聖職への就任依頼がきた。

 彼はその一つに就職しました。


  ロジャーはリベラルな教会人で分離主義者でした。

彼はそれを自慢にしていました。

 それが彼の苦労のもとになるのですが、ものごとを自分の心に秘めておくことが出来ない人間だったのです。


+++

  その彼がアメリカ大陸に移住しました。

 1631年2月の寒々とした日にボストンに上陸した。

 大嵐が吹き荒れる航海を経ての到着でした。

彼はその航海が気に入っていました。

 強風のデッキを歩くと雨は顔を打ち、風は彼の髪を巻き上げました。

彼はボストン方向を凝視し、そこでなすべきことに思いをめぐらしていました。

ボストンは諸手を挙げて彼を歓迎しました。

 「ロジャー・ウィリアムズは若き教職者で、霊感が豊かで、情熱があって、素晴らしき才能の持ち主」という名声が伝わっていたからです。

+++

 だが同時に彼は独自の意志をもつタイプで、自らの考えを口に出す性格でもありました。

上陸するとすぐにボストンの僧職者と衝突しました。

 彼は教会の現状に関する私説を披露しました。

同情心抜きの言説でした。

 彼はボストンの教会に加わるのを拒否しました。

 ボストンの教会は母国の英国国教会に近いレベルで腐敗している、と彼は見ていたからです。

+++

後にセイラムの教会が彼を招聘しました。
 
彼はそれは受諾しました。

  だが彼が出勤しようとしたその日に、ボストンの州議会が妨害しました。

それをする権限がないにも拘わらず、妨害に出た。

 「この青二才反逆者のセイラム滞在は許可されない」というのです。

+++

  そこで彼はプリモスにいって二年間説教者をしました。

そしてその地で彼は、ナラガンセット族インディアンの酋長たちと親しくなりました。

  1634年になると、セイラムの教会が再び彼を招聘しました。

今度は妨害は出ませんでした。

  セイラムの人々は穏やかな心持ちで彼を待っていました。

ところが彼の説教が始まるとセイラムの人々は立ち上がり、彼に向かって目をむきました。

  それは爆発的な説教でした。

ダイナマイトを込めた神学理論でした。

  彼は教会と国家の問題について論じました。

なんとも無謀なことです。

+++

  さらに「マサチューセッツ警察裁判所の権力が宗教的な問題を扱うこと」への疑問を披露しました。

ボストン議会は忙しく動き、ジョン・コットンが告発書を提出しました。

  これに対してロジャーは「その通りだ、告発書に書いてあることは正しい」といいました。

だが同時に「ピューリタン(清教徒)たちは自分たちが生活している土地の使用特許状を国王でなく、インディアンたちからもらうべきだったのだ」と述べました。

+++

  ロジャーは又、邪悪な人間が宣誓したり祈ったりすることに反対の意を表明しました。

それは創造神を拝して行う行為だからだ、というのでした。


  さらに「旧き英国の教区議会から派遣された聖職者の説教を、人々が聞くのは違法だ」と主張しました。

  「市の行政官の権力は、身体、財産、人の外面的な諸事に対してのみ及ぶべき」とも言いました。

ああ! 他に考えること、言うことはなかったのか! 
  
  彼は外面的にはピューリタン(清教徒)の衣服をまとっていましたが、内面は自由吟味者でした。




 【ウィリアムズ、信仰自由村を創設】


   セイラムの教会は彼を支持しましたが、州議会はロジャーを植民地から追放すべきと決議しました。

  決議に従って行政官は、彼を船で英国に送り返す計画を立てました。

  船は彼を運ぶべく、ボストン湾に停泊していました。

  だが報告書にはこう記されています~。

「当局者が彼を連行しに邸宅につく三日前に彼はそこを出ていた。そしてロジャー・ウィリアムズが何処に行ったかを彼らは知り得なかった」~と。

+++

  その三日の間、ロジャーは森林深くわけ入っていました。

そして旧友のナラガンセット族の酋長たちに会って土地を売ってもらいました。



  それはモハサック川の河口の細長い土地でした。

ロードアイランド州の一部に当たります。

+++

 彼はそこに町を設計し、プロビデンス(「神意」という意味)という名を付けました。

それは 森で何ヶ月か過ごした後に考え出したよき名でした。


  まもなく彼の町は完成しました。

そこはピューリタンの町々から逃げ出してきた同志で充ち満ちました。

清教徒地域への反逆者、不平分子、そこから追放された者も数多くいました。


+++

  彼らはウィリアムズと一緒になって「植民地誓約」を書き上げました。

それには「住人は過半数の意志に従うべし」とありましたが、それは「市民生活上の事柄」についてのみでした。


 この街を建設した目的を彼はこう述べています~。

  「この町が良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。水面下で苦しむ同胞をみて、私はこの町ををわが愛する友に贈ったのである・・・」~と。

  それが彼の意図でした。


  彼は、住民がプロビデンスの周囲で働くのを原則としました。

そうやって~
「このような生活は実現可能なだけでなく、最も実用的である」ことを、初めて世に実証したのです。

+++
 
   同時にロジャーは、人民の権利と意志のみをベースにして運営される自由政府を創設しました。

  それは王権神授説に打ちんだ初のボディーブローでした。

  彼は、政府と教会を完全に分離させ、政治的宗教的自由の諸理念を実施に移しました。

それは、欧州の子供たちがこの理念を学校で教わる、はるか以前のことです。


   この男は英国の政治激変によって米大陸マサチューセッツの岸に打ち上げられた、最も挑発的分子といっていいでしょう。

  またこの人物は、プロビデンスとロードアイランドの創設者であるだけでなく、あまたいる社会建築家のなかで最大の独創思想家でした。


+++

  彼が創始した運動は、初期の植民地時代を通して、雪だるまが転がるようにしてその重量と力を増していきました。

雪だるまは、合衆国憲法の最初の修正(信仰自由の原則を憲法に追加した修正・・・訳者注)でもって最終的に休息したのでした。


+++

  ロジャー・ウィリアムズは、プロビデンスに来た時点では公式のバプテスト自由吟味者ではありませんでした。

だが、まもなくこの問題を処理しました。

  彼はホフマン氏によって浸礼(全身を水に沈めて行う洗礼)を受けました。

ホフマンは彼を招聘したセイラムの教会員でした。

  次いでウィリアムズはホフマン氏に浸礼をさずけました。

他にも10人以上の人を浸礼しました。


+++

  彼らの群れは米大陸での初のバプテスト教会となりました。

というとそれが以後の米国バプティスト教会の母体になったと想像したくなりますが、実際にはそうまではなりませんでした。

  プロビデンスのこの集会から新しい教会が枝分かれすることはなく、ウィリアムズ自身、生前にそこを去っています。

+++

  だが、そのことが彼の栄誉を曇らすものではいささかもありません。

その栄誉とは、合衆国における信仰自由のための戦いのパイオニアとしての栄誉です。

  彼が一貫して主張した信仰自由原理は、後の米国バプティスト五大原則を産んだからです。

そしてそれは最終的には、合衆国憲法における国家原理として実を結んだからです。




 【 クラーク、ウィリアムの偉業を完全化】


  ロードアイランドには貴重なバプテスト自由吟味者がもう一人います。

ロジャー・ウイリアムズの人物像があまりにドラマチックなので見逃しがちになりますが、ジョン・クラーク博士がその人です。

  博士はロンドンの開業医でしだが、アン女王が争いを引きおこした時に、ボストンにやってきました。

  アン女王は激情の疫病神とでもいうべき人で、ピューリタン説教者の説教を公に批判するという大胆なこともやってのけていました。

  彼女はまた、自分の鋭い批判は、神からの直接の啓示を受けてのものだと、告白したりしていました。

  こういう公言は、ロジャー・ウィリアムズがかつてやった旧教会への批判と同程度に、やっかいなものでした。

+++

  王女は英国を出て米大陸ロードアイランドにやってきました。

  クラーク博士はアクイドネック・アイランドにある住居を彼女に提供しました。

そこはかつてウィリアムズがインディアンから購入した土地の中にありました。

  クラークはまた、礼拝を捧げる教会をお望みならばニューポートにある教会を世話しましょう、~とも申し出ました。

  この教会が最初からバプテスト教会だったかどうかは、わかりません。

だが、1648年までには間違いなくそうなっていました。

  当時メンバーは15人で、クラーク博士はそこの「聖書朗読長老」でした。

彼の朗読は素晴らしいと評判でした。

+++

    その彼が大仕事をしました。

  1651年、ロードアイランドは彼を英国に派遣しました。

この地への植民地設立認可状を、国王から得るためでした。

  クラークは12年間独りで奮闘し続け、ついに1663年、チャールズ2世が国王になった時に勅許状を取得するに至りました。

 そこには~

  「如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」

       ~という宣言が記されていました。

  それは「当人が市民社会の平安を乱さない限り」という条件付きではあったのですが。

+++

  クラークはアメリカ植民地にもどり、友人たちの喝采に腰をかがめて応えました。

  帰郷後、ロードアイランド州の代理知事を2年間勤めました。

  その後引退してプライベートな生活を送りはじめましたが、1676年突然逝去しました。

旧友ロジャー・ウィリアムズがこの世を去る15年も前のことでした。


  ジョン・クラークはウィリアムズが開始した偉業を完成させた人でありました。



(Vol.11   4章 新大陸での近代バプテスト   完)








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Vol.10   3章 近代バプテストの誕生

2016年09月18日 | バプテスト自由吟味者の道






【ジョン・スミス、自由吟味者に】


  オランダのメノナイトは、この三人の分離主義者を大歓待し、自分たちの信仰を入念に説教しました。

 その説き方たるや、あたかも鉄をメノナイト刃物に鋳造するかのようでした。


+++

   スミスは英国ではゲインズボロー地区の英国国教会司祭でした。

  ちなみにその地からさほど離れてないところがスクルービーですが、そこはブラッドフォードとブリュウスターの居住地だったところです。

  二人はともに1620年にアメリカ大陸に移住したピルグリム・ファーザーズの指導者です(訳者注)。


  スミスはその活動の仕方がよくないと、1606年に英国王ジェームズ一世に国を追われ、オランダに亡命して来ていたのでした。

  1609年、彼はメノナイト思想に完全に感化されるに至り、完璧な自由吟味主義者になりました。

  彼は自ら再洗礼し、ヘルウィもモートンもそれに続きました。

 そしてその地に彼らは、初の「英国全救済派バプティスト教会」を組織しました。*1





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*1 (訳注)全救済派とは、イエスを信頼することによって救われる(死後最後の審判で天国入りを許される)機会が全人類に与えられているとの聖句解釈をする人々を言う。

これに対して、予定救済派とでもいうべき人々もいる。

こちらは宗教解釈者カルヴァンの「信じて救われるものは、生前に予め創造主に定められている」という聖句解釈に同調する人々である。

カルバンのこの説は、予定説という名で有名である。

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   このように三人は歩みをともにしてきたのですが、スミスがみんなでメノナイト派に入ろうと言い出した時に、歩調は崩れました。

  ヘルウィとモートンはそこまではついて行けませんでした。

  彼らは依然として”英国人”だったのです。

  二人はスミスを”破門”しました。

  一人ぼっちになったスミスは、1612年に世を去りましたが、その年、後進者のために、信仰宣言書を書き遺しました。

  そこには彼の確信が次のように記されています。




******************

~行政者は職務上の理由で宗教ないしは精神的な事柄に干渉してはならない。

また、人に特定の形態の宗教や教義を強制してはならない。

キリスト教信仰は各人の自由精神にゆだねるべきであり、行政は政治的事項だけに関与すべきである。・・・・

******************




  かくのごとくに、スミスは自由吟味主義の軍旗を掲げたままで死の門までいきました、

 彼は最後まで節操の堅い自由吟味者であり続けたのです。


+++

    へルウィとモートンは英国に帰りました。

  彼らは、必要とあらば自らの信仰の故に被る迫害は潔く受け止める~という覚悟をしていました。

  また、創造神の御旨にかなうのであれば、死ぬまでに幾人かの同調者を作ろう、と思っていました。

  だが、彼らが迫害を受けることは、ほとんどありませんでした。


   母国の状況は変わっていたのです。


+++

   ジェームズ国王の宗教政策は、路線としては従来のままでしたが、迫害行為は和らいでいました。

  1612年以降に激烈な罰を受けたものはほんの少数しかいませんでした。

  それまでをみると、1550年にジョアン・バウチャーが異端のかどで火刑に処せられています。

  1611年にはエドワード・ライトマンが鉄棒に後ろ手に縛られて火刑に処されています。

  そして彼は英国では最後の火刑死者でした。


  この二つの年度(1550年と1611年)の間には、他の火刑は実施されていません。


  その間にも、命をかけて自らの信仰の証を立たことによって、罰金を支払わされたり、国外追放されたり、むち打ちの刑にあったりした人は多数いました。

  だが自由吟味者に対して火刑を命ずるような烈火の怒りが、国王の心にわき上がることは、1612年以降にはなくなっていました。


+++

   それ故、英国人がメノナイト自由吟味派に転向するのは容易になっていました。

  おそらくヘルウィとモートンが帰国する以前にすでに、メノナイトの人々が英国中を伝道して回っていたのではないでしょうか。

  彼らの伝道の成果は派手に表立つことはありませんが、彼らが自由吟味活動のタネを蒔いたのは間違いないでしょう。

 そしてそれがその後のアナバプテスト自由吟味主義の成長のための土壌になった・・・このことには疑いがありません。





【近代バプテスト、英国に生成】


 1638年にいたるまでに、「第一予定救済バプテスト教会」が英国の地に設立されていました。

 (予定救済説とは、生前に予定されていた者だけに信じて救われる機会が与えられている、という説。 この教会はそういう聖句解読に立っていた。 「第一」は最初の、という意味・・・訳者註)

 1641年には、全救済バプテスト教会から枝分かれした人たちが、「正しい洗礼は浸礼のみ」という宣言をだしました。*2




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*2 (訳注)洗礼の方法には大きく分けて二種類ある。
一つは全身を水に沈める洗礼でありこれが浸礼である。
今ひとつは額に水滴を垂らす方式で、これは滴礼と呼ばれている。

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  1644年に、バプテストたちは自らの信仰宣言書を発表しました。

  これは今日まで、何百万におよぶ自由吟味者の行動指針になっています。

  ここで彼らは自らを「アナバプテスト」と呼んでいますが、まもなく彼らはバプテストと略称されることになります。 

  以後、世界に広く普及していくバプテストという名称は、史上初めてここに出現したのです。


+++

    英国史には、嵐の時代も静寂の時代もありました。

  その間バプテストの二つの分派(全救済派と予定救済派)は、各々独自な道を進みました。

  各々が英国人の生活と人格形成に役立ちました。

その貢献は華麗にして豪華でした。


+++

   二つのバプテスト派は、各々一貫して独自の自由思想を維持しました。

  そして英国人に、自由を愛する精神を、あらゆる局面でしっかりたたき込みました。

  自由を愛する精神については、英国人はバプテスト自由吟味者に負うところ多大なのです。

  彼らはその恩のすべてを返しきることは決して出来ないでしょう。


  バプテスト自由吟味者が英国にもたらした自由の大きさは~、

アルフレッド(アルフレッド大王、849-899.:デーン人の侵略から国土を救った国王)や

ヘンリー(ヘンリー4世、1367-1463:英国ランカスター王朝の初代の王)や

アイアン・デューク(鉄の公爵:the first Duke of Wellingtonの異名)らのもたらした自由を

    ~遙か超えています。


  それはクロムウェル についても言えます。





【クロムウェルを指南する】


 バプテストは、実はクロムウェルをコーチングしているのです。
 
 1644年のバプテスト信仰宣言はクロムウェル革命の序曲でした。

それはこう述べています~。






*******************

 ・・・創造神を礼拝する方法の制定者はイエスキリストただお一人である・・・・ 
 
  ・・・だから、行政者の義務は人間に精神の自由を与えることであり、(それが良心的な人間に対しては最も親切なことだ・・・)・・・

  ・・・そして良心を持った全ての人々を、あらゆる悪、中傷、抑圧、いじめから守ることだ。・・・

********************






   聖句自由吟味者は、自由を尊び、自由のためにいのちを捧げる精神を、先祖から受け継いできています。

 その彼らが、クロムウェルの軍隊に、群れをなして加わったのは自然な成り行きです。

これはドイツでアナバプテストが農民戦争に加勢したのと同じなのです。


+++

  1775年当時クロムウェル軍のアイルランド要塞には、次のようなバプテスト自由吟味者たちがいました。

すなわち~、

  都市の知事が12人、軍の大佐が10人、大佐代理が3人、少佐が10人、中隊付将校が43人いました。

  またクロムウェルの娘はフリートウッド大佐と結婚していましたが、かれもバプテスト自由吟味者でした。


+++

   クロムウェルとともに国王に対して戦ったバプティストは千人単位でいました。

 彼らは議会派清教徒として、チャールズ一世を断頭台に送るということまでしました。

これには、欧州大陸の国王たちは震え上がりましたが・・・。


  かと思うと、クロムウェルが勝利を収め権力者の座についた時には、彼自身と長老派の人々の不寛容に対して反対に回りました。

  バプテストだった詩人ミルトンは、勝者たちの不寛容に対し、次のようにして正義の怒りを爆発させています~。




******************

  ・・・長老という新しい名は、かつての僧侶という名を大げさに書き替えたものにすぎないではないか。

  諸君は、異議を申し立てるとその人を非難する。

  図々しくも国内戦争を命じる。

  そして、キリストが自由に解き放ってくれたわれわれの良心を奪い取る。

  諸君はどうして旧き階層制度でもって人を虐げようとするのか?・・・・

******************




   英国バプテストは、クロムウェルが王座に就こうとすると反対に回り、王座を拒否すると拍手喝采しました。

 彼らは人のためでなく、プリンシプル(原理)のために戦う人間だったのです。

 英国への愛国者である以上に、創造神の王国(天国)への愛国者だったのです。





【英国への膨大な影響】

 自由吟味者の思想と文化は、英国に多大な影響を与えました。

偉大なる人物、偉大なる行為が英国にシャワーの如くに振り注がれました。


  英国バプテストの予定救済派と全救済派は、1891年に一つに合流するのですが、別れたままの状態であっても、両派から恩恵が降り注がれました。


  国内で革命運動が起きると、バプテストから加勢する兵士が出ました。

この兵士は、平和のために働く戦士でした。


バプテストの中からバニヤンが出ました。

彼はブラッドフォードの牢獄のなかで『天路歴程』を書きました。


  『失楽園』の著者ミルトンが出ました。

彼は盲目でした。


  ダニエル・デュフォーが出ました。

彼は 『ロビンソン・クルーソー』 を著作しました。


  名説教者も出ました。


アレクサンダー・マクラーレン、A.J.ゴードン、ロバート.ホール、スパージョンたちです。


スパージョンは “無比の人”と呼ばれました。


  アンドリュー・フラーが出ました。

彼は1792年に故郷に英国バプテスト宣教協会を設立しました。


  ウィリアム・カレーが出ました。

彼は近代宣教活動の創始者です。


+++

    予定救済派と全救済派との各々から、貢献者を平等に出してみましょう。

 まず、前者の予定救済派から。


  その最大の功労者はカレーでしょう。

 彼がインドを今日の姿にあらしめるに貢献したところは、クリーブやハスティングスの貢献を遙か超えています。

  彼はまた、英国の今日あるにも多大に貢献しています。

 それはジョンウエスレー(メソディスト派教会の創始者として有名・・・訳注)に勝るとも劣らないでしょう。


+++ 

 全救済派からはどうか。

 最大の功労者はロジャー・ウィリアムズです。

 今日のアメリカ合衆国を作り上げるになした彼の貢献は巨大です。

 その貢献は、これまでの米国大統領を貢献度順に並べ、上位から12人がなした貢献を合計した貢献量に匹敵するでしょう。


(Vol.10   3章 近代バプテストの誕生   完)






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