先回、読者の『バプテスト自由吟味者』の要約について考えました。
読者の考えるそれと、訳者の考えるものとが違っている~その理由を考えました。
自然発生的にできあがっていく統治(政治)体制が、社会成員個々人の精神の自由に最大価値を置くことは起きえない。
~そのことへの知識の欠如が理由だ、と申しました。
そういう統治体制の中にいながら、個人の精神自由に最大価値を置く国家ができていったのは奇跡だとも言った。
その奇跡を成し遂げたのは、聖句自由吟味者たちだと、あらためて指摘しました。
今回は、そうした奇跡を起こす知的・精神的活力の由来を考えましょう。
聖句自由吟味活動をすると、どうしてそれが生じるか~その仕組みと構造です。
自由国家建設の奇跡のためには、信じがたいほどの知力が必要でした。
その上に、驚異的な忍耐と努力と、聖句自由吟味活動が迫害を受けずにできる社会実現という理想~このために命をかける勇気が必要でした。
実際それには、1500年以上にわたる流血の犠牲が伴いました。
そうした信じがたい精神活力を聖句自由吟味活動は、どうして育成したか。
その構造を考えるのです。
<見えない世界の事柄>
理由の第一は、聖書が広大にして深遠なイメージ世界を提供したことでした。
聖書が示す世界は、無限大の空間と時間を持った「見えない世界」です。
この世界のことがらに関する思索では、見える世界の思索に比べて、イメージ(想像)する作業が飛躍的に多くなります。
これがいかに強烈に、人間の想像力を訓練し、育成することか。
<想像と論理能力>
想像とは「見えないもの」を「見るように思う」ことです。
「見えない世界」への想像を進める際、人はその世界イメージを詳細化していきます。
そのためには人は推論をします。
これには人は、持って生まれて与えられている論理能力を用います。
そのギフト(たまもの)を無限大の世界に対して適用することが、いかに論理力を強大に鍛えることか。
やってみればわかります。
<『ダニエル書』と『黙示録』の解説書>
ニュートンは、物質の中に「万有引力」があることを発見したことで有名です。
彼は、その思索に入る前に、聖書のなかの『ダニエル書』と『黙示録』の解読書を書いたと言われています。
この二つの書物には、聖書の中でもとりわけ奇想天外というか、夢のごとき幻の世界が記録されています。
こういう幻の解読には、とりわけ大きな想像努力が必要になります。
ニュートンは、その世界への解読・思索を、物理世界を考える前に試みていました。
この作業は、彼の発見に大きく貢献したでしょう。
それ故に、すべての物質に存在する「他者を引きつける力」引力という「見えない存在」を彼は発見できたとみられるのです。
のみならず、その力の大きさは、物質自らの質量に比例し、引きつけようとする他者との距離の二乗に反比例するという量的関係すらもニュートンは発見できました。
われわれはいまでも、建築や宇宙旅行などの領域で、その恩恵を受け続けています。
<神学を「セオロジー」というのは>
ちなみに、聖句に示された事物の間に存在する論理体系を追求する作業を「神学」と言います。
この英語がtheology(その直接の意味は「理論学」)であることも意味深いです。
学問はみな理論作りをします。
だが、神学ではセオリー(理論)作りが思考の大半を占めるのです。
その特徴を捉えて~そういう精神活動が大半を占めるという~聖書の中の論理体系を探る学問に、「セオリー作りの学問」という名がつけられたのでしょう。
<推論の手がかり>
聖書が提供する認識世界の広大さについて、もう少し考えましょう。
見えない世界を推論するとき、人は論理だけでなく、様々な手がかりをも用います。
その際、人がまず用いる「手がかり」は、見える世界の経験知識でしょう。
つまり人はまず、見える世界で得た経験知識を、見えない世界に投影して考えるのです。
人間が「見える世界」でおこなう認識活動ではその範囲がしれています。
だから、この手がかりはすぐに種が尽きてしまいます。
その結果、想像作業は貧困なものに終わります。
<聖句という手がかり>
ところが、その手がかりに「聖句」を参加させると、事態は急展開します。
聖句には、超霊感者(預言者)が、万物の創造神と自称する存在によって見せられた幻の記録が多く記されています。
預言者はそれを、創造神からのメッセージと「信じて」記録しています。
それを「事実かもしれない」との期待を持って、手がかりとして用いてみる。
すると、果てしなく広大な世界が目の前に開けてきます。
創造神からのメッセージとして与えられる幻は、時間と空間が無限に広がった世界にわたるものです。
それを手がかりにして思索すると、人の「知性」は無限の世界を飛翔します。
その活動が、人の知性を強烈に活性化するのです。
(やってみればわかります)
<しるしと不思議は知的作業に「激しさ」をもたらす>
さらに、聖句という手がかりは、それを受容した人には、しるしと不思議~癒やしなどの奇跡~を出現さすこともあります。
奇跡を体験したり観察したりした場合、その人の聖句への信頼は高まります。
聖句を手がかりに考えようという意欲は強く、激しくなります。
この激しさが集中力を生みます。
すると、従来使われなかった能力、潜在していた能力が表に出て動き出します。
激しさと集中力は、人間の潜在能力を顕在化させるのです。
すると知性は突然、活性化を開始し、それがごく自然に精神の活性化にもつながっていくのです。