Sightsong

自縄自縛日記

2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町

2012-08-31 23:42:17 | 東南アジア

ハノイから自動車で7時間くらい北上したところにある、イェンバイ省のとある町。

市場の女性が笑いながら声をかけてきた。あれは何と言っていたのか、と、同行のベトナム人に訊いたところ、「どこの民族?」


ガソリン給油器


店先のドライアニマル


赤ん坊


迫力の腸詰


少数民族の女性


子ども


床屋


金物屋


ベッド運搬


保護色の水牛


おじさんは俺を撮れと叫んで腹を出した


山と霧


棚田


東屋


モン族のふたり


子ども


コーンの色は鮮やか


ライスペーパー乾燥中

※写真はすべてPentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400にて撮影

●参照 ベトナム北部
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
デイヴィッド・マーティンという写真家
ベトナムのヤギ三昧
ベトナムで蜂食い


2012年8月、ハノイの湖畔

2012-08-31 07:35:29 | 東南アジア

ハノイはホン川下流のデルタ地帯にあり、大小の湖がある。低湿地だからではあるが、中には、かつて蛇行した川の一部分が切り離されたものもある。

湖畔は解放感があって、歩いたり休んだりする人たちの表情も違うように見える。もちろん、夜はカップルが増える。

散歩していてフィルムが無くなったので、ホアンキエム湖の横にあるカメラ店に入った。ほとんどデジタル製品のなかに、フィルムもひっそりと置いてあった。感度400はない、100と200だけだという。富士フイルムの海外仕様製品である200のネガカラーを買った。


ふたりの女の子


静かに座る人


すかさずVサイン


楽しそうだな

※写真はすべてPentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 200にて撮影

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、ハノイ
ハノイのMaiギャラリー
2012年8月、ハノイ


2012年8月、ハノイ

2012-08-30 23:33:20 | 東南アジア

ハノイにはとにかくバイクが多い。これが北京なら自転車、ジャカルタなら自動車だ。警官の目が届かない夜間や郊外ではそうでもないが、昼間の市内のヘルメット率は100%に近い。

そして、暑いけれども、歩きながら上を見ても下を見ても楽しい。上を見ると、洒落た窓や増築を繰り返した生活空間、猫、無数の電線が否応なく目に飛び込んでくる。下を見ると、しゃがんで麺をすすったり四方山話をしている人、工作している人、あの世で使うための紙幣・・・。


肉が焼ける匂い


RADIO


道を尋ねたら完全に無視された


線路脇も生活


バイク


Ba Haoって何だ


商店街の子ども


二次元と三次元のバイク


もの売り

※写真はすべてPentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400にて撮影

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、ハノイ
ハノイのMaiギャラリー


ベトナムで蜂食い

2012-08-29 23:47:55 | 東南アジア

ハノイから自動車で5時間くらいの町。昼食を取った食堂の店頭には、蛙やら小さな貝やら沢蟹やら、なかなかの顔ぶれ。その中には蜂もあった。

巣から取り出した蜂の子だろうか、日本でも食べている地域があり、昔一度だけ食べたことがある。

仕事仲間が囲んだテーブルには家庭料理が並んだが、肝心の蜂の炒め物は、隣りのベトナム人グループだけが食べている。折角なので一口もらった。塩味が効いていて、外側がカリッとして、中は小海老のようだ。結構旨かった。

しかし、自分は食べ物には保守的なので、それだけにとどめて、ハノイ・ウォッカで味を忘れることにした。

●参照
ベトナムのヤギ三昧


ベトナムのヤギ三昧

2012-08-29 07:30:49 | 東南アジア

ハノイから北部に5時間程度の町で、ヤギ料理を食べた。


「De Nui」とはヤギの意味らしい

日本には沖縄を除いてヤギ食文化がないが、平川宗隆『沖縄でなぜヤギが愛されるのか』(>> リンク)によれば、東アジア(韓国、台湾)、東南アジア(フィリピン、ベトナム、インドネシア)、南アジア(インド)にもヤギ食文化はあり、むしろヤマトゥが例外的だということになる。わたしにとっても、沖縄でヤギの刺身とヤギ汁を1回ずつ食べて以来のヤギ食だ。

とは言っても、ハノイで頻繁にヤギが食べられているわけではなく、むしろ良いヤギ肉を使う店を見つけるのは難しいという。そんなわけで、郊外で、つぶしたばかりの新鮮なヤギ肉を食べる機会に恵まれるとは、実に幸運なことだった。

最初はホルモン。スターフルーツ、葱、そして臭み取りのためか大量のスパイスとともに炒められており、肉はコリコリしている。汁気が多い。

次は脂身の多い部位で、やはりスターフルーツ、葱とともに炒めてある。ライスペーパーに包んで食べる。爽やかな酸味はレモングラスか?

3皿目はカレー煮のようなもの。揚げパンのような一風変わったフランスパンに窪みを作り、中に入れて食べる。パンもヤギも果てしなく旨い。


カレー煮を撮り忘れた

4、5皿目は正肉(のどこか)。胡麻とスパイスの風味が効いている。旨いのだが、もう満腹で食べられない。はじめに5皿あると通知されていればペース配分ができたのに。

『沖縄で・・・』には、「ヤギ鍋」、「雌ヤギの乳房のスライス焼」、「生血と生肉のプディン」(動脈血を塩で固め、それに生肉を入れただけ!)も紹介されている。これらはもっと凝った料理なのかもしれない。

これで、沖縄のヤギ汁にヨモギを入れ過ぎて目を白黒させたトラウマは解消できた。もうどんどんいらっしゃい。


フランス軍に対抗した大砲か?

●参照
平川宗隆『沖縄でなぜヤギが愛されるのか』
恩納村のヤギ汁


ハノイのMaiギャラリー

2012-08-28 19:06:16 | 東南アジア

今年二度目のハノイ。ちょっと空いた時間に、『Lonely Planet』に紹介されている「Maiギャラリー」に足を運んだ。

意外に立派な建物で、4階までさまざまなアーティストの絵が展示されている。自分の他に観客はおらず、ずっとギャラリーの女性が監視するように歩いて付いてきた。

なかでもふたりのアーティストによる作品が気になった。

ファム・ゴック・ミン(Pham Ngoc Minh)は、絵具をぼってりと盛り上がらせて、湖やカリカチュア化した女性を描いている。

グエン・バオ・ハー(Nguen Bao Ha)は、赤や青の鮮やかな単色をバックに、ハノイの家々をコラージュ風に配している。上海で観た、孫驥(スン・ジ)の「Memory City」と題された作品群(>> リンク)を思い出した。

参照
バンコクのThavibuギャラリー


中野聡『東南アジア占領と日本人』

2012-08-18 00:25:15 | 東南アジア

中野聡『東南アジア占領と日本人 帝国・日本の解体』(岩波書店、2012年)を読む。

本書は、軍人や、宣伝のために駆り出された作家たちの「語り」を通じて、日本の「南進論」の根本的な矛盾や実相を浮き彫りにしている。なかには、検閲を意識してか実状を避ける者もある。回想において偏った記憶のみを綴る者もある。それらを含め、ひとつの歴史が形作られている。

後藤乾一『近代日本と東南アジア 南進の「衝撃」と「遺産」』(>> リンク)が説いているように、「南方占領」は、第一義には資源の獲得(石油、鉄、稀少資源、ゴム、米など)が目的であり、「大東亜共栄圏」構想など欺瞞にほかならなかった。しかし、本書によれば、それは中長期的な戦略を練った上での方針ではなく、日本の対外政策に対する米国の予想を超える反発や、ヨーロッパにおけるドイツ軍の優勢という好機を受けての結果に過ぎなかった。政府や日本軍のなかに批判的な意見も多くあったが、その声は押しつぶされていく。

欺瞞とは、国家自存のため資源獲得に動くのであり覇権のためではないとアピールすること、それは秩序安定のためでもあると言うこと、やがて、資源獲得のためであるにも関わらず「聖戦」「大東亜共栄圏」を謳うこと、すなわち本質を大義で糊塗すること。しかしその大義とは、他者、すなわち占領される者との相互理解や共感を前提としない、独りよがりなものであった。

他者と解り合おうとしないばかりでなく、日本の東南アジア支配は、在来農業を歪め、物流を機能不全に陥らせ、当然、日常生活を破壊した。いまだ神話のように残る、日本は結果的に東南アジアの独立に手を貸し、経済発展にも貢献したのだというクリシェは、実態に基づかないものであることがわかる。

「宿主と中長期的に共生できる見通しがなく、宿主を死に至らしめる寄生者は宿主から見れば排除すべき病原体でしかない。そのような意味において、日本の軍事支配は、東南アジアを数年で飢餓と死に至らしめる存在でしかなかった。そして日本帝国にできたことは、占領地の経営ではなく、暴力と武威による、帝国の最も古代的な形態としての戦利品の略奪に過ぎなかったのである。」

日本政府は、「独立」という言葉を出し入れした。すなわち、西欧支配からの解放など方便であった。ビルマやフィリピンには傀儡政権を、仏印のベトナム・カンボジア・ラオスにも敗戦直前に傀儡政権を打ち立て、インドネシアには最後まで形だけでも独立を与えなかった。東條英機は、傀儡政権を日本の「弟」であるかのように見なす「満州国モデル」を信奉していたという。しかし、当の東南アジアの側は、決して日本の言うがままに従っていたわけではなかった。 

やがて、この独りよがりで暴力的な国家経営は破綻する。著者は、このときはじめて日本人が他者としての東南アジアと接したのだとする。中には、インドネシア・ナショナリズムという「他者の正義」に魅了され、独立運動に自らを同一化させた日本人も現れたのだという。勿論、それは日本の支配という歴史とはまったく別のものとして見るべきである。

それが現在の日本において実をならし続けているのか。わたしには、国境問題を巡り、他者には国境問題など存在しないとして議論を拒否し、その逆の行動に遭うや極めてヒステリックな反応を示す日本が、他者との相互の応答を身に付けているとは思えない。

●参照
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『戦後責任論』 


パン兄弟『バンコック・デンジャラス』

2012-08-04 17:15:47 | 東南アジア

パン兄弟『バンコック・デンジャラス』(2008年)を観る。

殺し屋ニコラス・ケージが、足を洗う最後の仕事を行うため、バンコクを訪れる。あとは山あり谷あり、友情あり恋あり。ニコラス・ケージは多くの映画で「アブない世界に身を置く実力者かつ善人」だが、ここでも、そのキャラクターに依存した映画作り。別に傑作でも駄作でもない。

それはいいとして、彼が使っていた時計に目を奪われた(殺し屋は時間に正確でなければならない)。調べてみると、スイスのVenturaというメーカーの「V-TEC SIGMA」という製品(>> リンク)。17万円くらいして、たぶん今後も使うことはない。バンコクで雇う運び屋が、もともとパッポン通りなどで外国人に偽物のロレックスを売りつけたりしている奴で、そのコントラストが楽しかった。まあ、偽ロレックスも使うことはないだろうが。

面白いデジタル時計を使うなら、米国TIMEXのWS4なんかちょっと欲しい(>> リンク)。しかし、別に山登りもしないので、これも買うことはない。


後藤乾一『近代日本と東南アジア』

2012-07-28 22:37:36 | 東南アジア

後藤乾一『近代日本と東南アジア 南進の「衝撃」と「遺産」』(岩波書店、原著1994年)を読む。

日本には、占領地アジアの発展は日本のおかげだとする根強い神話がある。また、戦後についてみても、謝罪や賠償の代わりに、アジア諸国の経済開発への貢献により<贖罪>するのだ、という意識が、政府にも民間にも脈々と広く共有されている(波多野澄雄『国家と歴史』 >> リンク)。

東南アジアについて、欧米列強からの解放は日本が行ったのだ、そしてそれを感謝さえされているのだ、とする神話も、上と同じ病だと言ってもよいのではないか。そしてそれは、あまりにも一面的かつ身贔屓な歴史修正主義につながっている。

本書は、歴史的な検証により、そういった幻想が幻想に過ぎないことを示すものだ。もちろん、関係とは相互のベクトルとその受容であり、たとえばインドネシアでは、援助問題と戦争責任問題(従軍慰安婦問題を含む)がバーター取引されたのだという。そうだとしても、日本側の神話とは大きく異なっている。

もとより、人類館事件(1903年)において露わになったように、近代日本は東南アジアを含めた近隣アジア諸民族を、一段も二段も下の存在とみなしていた。そこでは、日本の「内地人」を頂点とし、沖縄県出身者、朝鮮人、中国人、そしてその他アジア人などといったヒエラルキーが形成されていた。これは目の届かない「外地」においてだけではなく、例えば、九州の炭鉱でも、与論島出身者、朝鮮・中国からの強制連行者が同様の搾取構造のなかに取り込まれていた(熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』 >> リンク)。

南進にあたっては、沖縄県人とくに糸満漁民を中心とする漁業者のインドネシア(蘭印)への進出も大きな役割を果たそうとしていた。これが「大東亜共栄圏」構想と結びついてゆくことは、引用されている東恩納寛惇の言葉からもよくわかる。彼は、共栄圏構想を沖縄県が「孤島の宿命」を打ち破り「新沖縄が生きる道」として歓迎したのだった。既にあった差別的構造のなかで、自らの位置を見出さんとする意思である。

次第に日本がインドネシアへの進出を強め、ポルトガル領ティモールまで狙うに至って、オーストラリアは日本への警戒を明らかなものとする。インドネシアとオーストラリアとは驚くほど近い。東南アジアからオーストラリアへの動きへの視線は興味深い。そう言えば、バズ・ラーマン『オーストラリア』(>> リンク)に、日本軍によるダーウィン空爆だけでなく、事実とは反する上陸までも描かれていた。その程度の認識だということだろう。

東南アジア占領は、つまるところ、石油、錫、ゴムなどの資源の獲得であったが、日本は建前としては、植民地体制の打破とアジア解放とを掲げた。それは、「大義」が、占領に際して東南アジアの民族主義者たちの支持を得、また日本国民の戦争動員に必要だったからでもあった。この欺瞞に対し、民族主義者たちが唯唯諾諾と従うばかりではなかったことが、具体的に示されている。それは東南アジア側にとって、生きるか死ぬかの狭間にあってぎりぎりの選択であったのだろう。

英仏の力の間で独立を保ったタイの首相ピブーンは、そのような対日関係の葛藤をよく示している。「もし我々が条約に調印しないなら我々は破壊されてしまうだろう。もし我々が日本の陣営に投じ、そして日本が敗北すれば、我々もまた敗北するだろう。あるいはたとえ日本がうまくいったとしても、我々はやはり滅ぼされてしまうこともあるだろう。あるいはもし日本が首尾よくいって、また我々もうまくいくこともありうるだろう。あるいはもし日本が勝利したとしても、我々は結局は満州国のようになるだろう。それ故我々は一体どうすべきなのだろうか。」

わたしたちの歴史認識が戦前の欺瞞を引きずったままでは、いずれろくなことにならない。

「・・・日本の東南アジア占領は、「軍政三原則」が象徴するように「物的・人的資源の供給源」として即ち「南の生命線」としてこの地域を確保することが最大の眼目であったという事実である。欧米支配からの「解放」という公約、占領中のさまざまな諸政策は―たとえそれらが結果としてプラスの衝撃を与えることになったとしても―あくまでも本来の目的を達成するための手段でしかなかった。したがって、東南アジアの独立は「大東亜戦争」の理念の実現であるとか、日本の占領なしには独立は不可能であったとか、あるいは日本は「殺身成仏」という見方は、極めて単純化された形の因果混同論でしかなく、一方の当事者である東南アジア諸民族の歴史認識とは決して両立するものではないであろう。」

●参照
波多野澄雄『国家と歴史』
高橋哲哉『戦後責任論』 


2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏

2012-07-26 23:29:17 | 東南アジア

小さな市場。豚が寝そべっている。

どの店先にも干魚が置いてあるが、これは調味用だろうか。

鶏を捌くおじさんには眼を奪われた。丸鶏を大鍋で茹で、それを妙な器械に入れると、どういうわけか、羽だけがむしられて排出されてくる。そして裸になった鶏を、にこにこしながら包丁でずだんずだんと切っていく。



干魚


店番


羽むしり器


さて・・・


解体


バイク


つげ義春みたいだな

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼


2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼

2012-07-26 22:56:45 | 東南アジア

不思議といえば蟹である。汽水域の川辺には白いシオマネキがいて、沖縄と同様に、片方の鋏で潮を招いていた。

しかしそれよりも驚いたのは、砂浜の蟹だ。自分が潜る穴の周りに砂団子があるのは普通のことだ。しかしここでは、団子が同心円状に配してあり、中心部から外部へと1本の道がある。それが無数に存在する。どういうことか。


ひとつ


ふたつ


いくつ

人間も不思議である。古い村には、船のような形の家々が並んでいる。道には飛び箱のような2メートルほどの高さの石がある。何と、これを飛び越えることが、大人として認められるための通過儀礼であったのだ。

いまは島唯一の観光地になっているため、佇んでいると子どもたちが売り物を持って群がってくる。そして、それらしき衣装を着た数人の若者が、飛び箱に挑戦するパフォーマンスをはじめた。


船家


通過儀礼パフォーマンス

 ※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400 + Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺


2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺

2012-07-26 07:44:31 | 東南アジア

N島の東海岸から100キロ向こうにはスマトラ島がある。曇天ではわからないが、晴れ間に目を凝らすと、水平線に細い陸地が視える。

海辺の貌はさまざまだ。砂浜も岩礁もある。岩礁の一形態なのか、田んぼの畝のように、岩が細い線となって奇妙な形を作りあげている。その向こうには激しい波。ランドアートのようで実に不思議だ。


砂浜


朝の民家


壊れた東屋の向こうにはスマトラ島


両腕付きの舟


砂浜


小間物屋の人たち



ランドアート


市場

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400 + Super Premium 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ


2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ

2012-07-25 22:52:40 | 東南アジア

スマトラ島の隣にあるN島。ローカル線のプロペラ機に乗り、窓から見下ろすと、視えるのは熱帯雨林ばかり。北緯1度くらい、ほとんど赤道直下である。

天気が良いと、海はとても青く、サンゴ礁のリーフもよく視える。沖に漁船が浮かんでいるところがあり、そこから、獲った魚を小舟で岸にせっせと運んでいた。岸でしゃがんで待つ人たちが、氷を砕いてバケツや箱に魚と一緒に詰め、それを男たちがバイクで市場へと運んで行った。


漁船とリーフ


小舟は魚をせっせと陸に運ぶ


陽気な人


海沿いの小間物屋


バケツと魚と子ども

小さな河口の近くに入っていくと、突然、マングローブ林が現れた。汽水に漬かっている根は、沖縄のヤエヤマヒルギに似た支柱根のようだった。インドネシアでは何と呼ぶのだろう。

そして、川沿いの樹木を見上げると、幹から枝にかけて、オオタニワタリのようなシダがびっしり。これも何と呼ぶのか。

やはり熱帯は愉しい。


マングローブ林


シダ

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400


伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』

2012-07-12 00:42:37 | 東南アジア

伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』(高文研、2011年)を読む。

ベトナムの近現代史が実体験やルポとともに、よくまとめられている。伊藤千尋氏、さすがである。

日本人にとって、ベトナムとは、食べ物が口に合う国、親近感のある国、それからしばらく置いて、ベトナム戦争があった国。しかし、日本の侵略により、軍隊用の麻袋を作らせられ、食糧生産を圧迫して多くの餓死者が出たことや、ベトナム戦争による景気で潤ったこと、米国のベトナム人虐殺に間接的に加担し続けたこと、沖縄にはベトナム戦争を意識した米軍のジャングル訓練センターがあることなど、どれだけの人が知っているだろう。わたしは断言するが、ベトナムを訪れる現役のビジネスマンの1割もまともな知識を持ってはいない。

ベトナム戦争の終結から40年近くが過ぎようとしているいま、これはもはや過去の歴史なのである。しかし、米国が、屁理屈を付けて(トンキン湾事件など)、自国の利益だけのために(軍事産業や石油利権など)、民間人を無差別に虐殺するという構造、それに日本が追随する構造は、現在の姿そのものだ。また、枯葉剤の被害は現在も止まっていない。

要は、知らなければならない歴史ということである。

●参照
伊藤千尋『反米大陸』
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、ハノイ
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』


デイヴィッド・マーティンという写真家

2012-07-06 23:41:08 | 東南アジア

ベトナム北部の町、サパ

ベトナム出身の仕事仲間が、良い写真ギャラリーがあるから行こうと誘ってくれて、いそいそと出かけた。ところが、ある筈の場所には別のアートギャラリーしかない。彼がいろいろ訊いて、どうやら、その米国人写真家デイヴィッド・マーティンは、最近亡くなったのだということがわかった。旅の途中、寝台列車の同じコンパートメントで愉しく話しこんだことがあるという彼は、とても残念がった。

もしかしたらと別のホテルに行ってみると、その壁には、多くのデイヴィッド・マーティンの写真が飾られていた。知己のあったオーナーが引き取っていたのだった。

写真群は、サパのさまざまな貌を捉えたものだった。少数民族の女性たち。山々。棚田。稲刈り。水牛。農家の中でくつろぐ人びと。眼を奪われる作品も少なくない。ずっと同じ場所に腰を据えなければ、このような写真を撮ることなどできなかっただろう。

小さい解説板によると、写真は、キヤノンEOS 5DマークIIで撮られている。そのデジタルプリントを販売していると書かれており、ホテル従業員に話をすると、ほどなくして多数のプリントを持った女性があらわれた。その中から気に行った二枚を選び、手に入れた。

そこで同行者が、女性に対し、驚くように言った。

「あなたはこの写真に写っている人?」

「そうです。わたしはデイヴィッドの助手として働き、英語も覚えました。デイヴィッドは残念ながら癌で亡くなりました。確かに、寝台列車に愉しい仲間がいたと言っていましたよ」

●参照
2012年6月、サパ