Sightsong

自縄自縛日記

加納啓良『東大講義 東南アジア近現代史』

2013-05-17 00:39:01 | 東南アジア

加納啓良『東大講義 東南アジア近現代史』(めこん、2012年)を読む。

近代以前の歴史をざっと眺めたあと、欧米の植民地時代からはじめて現代までを解説する本。

何しろ地図やグラフが多く、大変わかりやすい教科書になっている。通読するにも、脇に置いておいて調べるにも良い。

わたしの感覚では、東南アジアを足繁く訪れる仕事人でも、その9割以上は碌に歴史を知らない。何らかの形で東南アジアに関わる人には、ぜひ。

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
白石隆『海の帝国』、佐藤百合『経済大国インドネシア』
梅棹忠夫『東南アジア紀行』
鶴見良行『東南アジアを知る』
波多野澄雄『国家と歴史』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
坪井善明『ヴェトナム新時代』
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
末廣昭『タイ 中進国の模索』
ラオス、ヴィエンチャンの本


2013年2月、バリ島

2013-02-26 00:58:42 | 東南アジア

二回目のバリ島。例によって時間はほとんどない。


空飛ぶ女性


入口


断崖と寺


断崖と地層


断崖と溶岩


紙皿のお供え

すべて Minolta TC-1、Superia 400

●参照
2013年2月、ジャカルタ
2012年11月、バリ島とL島とP島
2012年9月、ジャカルタ
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼
2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏


梅棹忠夫『東南アジア紀行』

2013-02-02 09:26:31 | 東南アジア

梅棹忠夫『東南アジア紀行』(中公文庫、原著1964年)を読む。

著者が、「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」の隊長として東南アジア諸国(タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア)を旅したのは1957-58年。55年も前のことである。国家体制も社会の雰囲気も、当然、既に大きく変っている。しかし、この本には愉しさと多くの発見とがある。

著者は、出会ったひとつひとつを咀嚼し、納得し、あるいは疑問として提示する。例えば言葉。タイ語もインドネシア語も、修飾語が名詞のあとにくる。昔は、日本ではチャオプラヤ川のことを「メナム川」と呼んでいたが(わたしもそう習った)、実はメーナムが川を意味する。ジャワ島のブンガワン・ソロも同様に、ブンガワンが川。従って、「メナム川」も「ブンガワン川」も、「川の川」となり、意味をなさない。知らなかった。

タイは、チャートリーチャルーム・ユコン『象つかい』(>> リンク)で描かれたように、戦前は国土の8割が熱帯林におおわれていた(いまでは3割程度に過ぎない)。本書の時代には、まだまだ過伐採が行きつく前であり、現在よりも遥かに多くの森林が残っていたに違いない。そのタイ北部では、植生を具体的に観察している。熱帯雨林のイメージたる常緑広葉樹ではなく、ほとんどは、モンスーン気候に合った落葉広葉樹林だという。そう言われてみればそうだ。

タイ北部からビルマ(ミャンマー)にかけてのカレン族も山地民として描かれているが、さらに国境を越えた民族として観察されているのがモン族である。わたしは昨年、ベトナム北部で多くのモン族の女性たちや子どもたちを目にした。中国雲南省のミャオ族と同じだということも聞いた。本書を読むと、実は彼らの生活の拡がりは、それだけではないことがわかる。本拠は中国貴州省、そこから、雲南、広西にのび、ベトナム北部、ラオス、タイまで広がってきた。インドシナ半島における山づたいの本格的な移住は、19世紀に行われたが、そのときの原因は、中国南部における反清革命運動たる太平天国の余波が、この山の民を駆って、南へ追いやったのだという。著者は、この拡がりを称して、「奇怪な分散隊形の空中社会」だとする。1000mの等高線で切って、それ以下の部分を地図で消し去ってしまうと、あとに彼らの国があらわれてくるのだというのである。素晴らしい説明術だ。

中国からインドシナ半島へ移動してきたのは、モン族だけではない。広い意味でのタイ族の国は、もともと雲南省にあって、ナンチャオ(何詔)とよばれ、8世紀には唐に比肩する大勢力だった。しかし、13世紀、のクビライの進出により独立国としての歴史を閉じた。しかし、その前から移動ははじまっており、タイやラオスに入った。何年か前、ラオス人が、いやタイに言って会話するだけなら何て事はないと話していたのが記憶にあるが、それは故なきことではなかったのだ。

こんな具合に、カンボジアや、ベトナムの歴史を大局的に解説する。東南アジア史をあまり知らないことを恥じてしまう。

当時の東南アジアと現在の姿は、当然、異なったものだが、なかなかその変化が面白くもある。

バンコクでは、当時、「ATAMIONSEN」というソープランド(昔はトルコ風呂と呼んでいた)があったという。今は、何店舗もの「有馬温泉」があるが、これは健全なるマッサージ店である。

当時は三輪自転車が廃されて三輪バイク(トゥクトゥク)が出てきた時代だったが、今では大気汚染の問題から製造が禁止され、5、6年前と比べると、その姿が目立たなくなってきた。もはや産業遺産である。

ルンピニ公園横の「Wireless Road」は、この頃すでにその名前があった。昔、無線局があった名残なのだという。当時はタクシーで「Wireless Road」と言っても通じなかったというが、今では知らぬ者はない。

大昔の記録だと思わず読んでほしい。特筆すべきは、著者の、簡潔にしてユーモラスな文章である。文章たるもの、こうでなければならない。


モン族のふたり(ベトナム北部、2012年)


2013年1月、ハノイ

2013-01-25 07:17:35 | 東南アジア

今年になって最初のベトナム。

自分がその街に親しみを持てるかどうかは、歩いていて愉しいかどうかによる。

その意味では、生活が道に張り出していて、空気が濡れていて、リラックスできるハノイは好きな街である。一方、クルマ社会で点から点への移動しかできないジャカルタには、まだ、親しみを持つことができないでいる。


家貌


散髪屋


空港

※写真はすべて Minolta TC-1、Fuji Superia 400

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
2012年6月、ハノイ
2012年8月、ハノイ
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、ハノイ
ハノイのMaiギャラリー
牛と茶畑


2013年1月、ハロン湾

2013-01-24 23:05:20 | 東南アジア

ベトナム・ハノイから自動車で3時間半。ユネスコ世界遺産にも登録されているハロン湾は、トンキン湾北西部にある。

案内してくれた仕事仲間のベトナム人は、やはり、真っ先に、トンキン湾事件のことを口にした。1964年、トンキン湾において、米海軍艇が北ベトナム軍の攻撃を受けた。しかしこれは、関東軍による柳条湖事件、米国によるイラクの大量破壊兵器保有説などと同様、武力介入のための、米国による捏造であった。

残念ながら、この日は曇天。しかし、船に乗って湾内を周遊すると、次々に石灰岩の奇岩が現れた。ある岩の島に接岸し、なかの鍾乳洞を見学した。ベトナムの彼は、わたしの故郷・山口県にある秋芳洞に行ったことがあるとのことだった。自然の不思議。

沖縄の本部半島にも、同じような琉球石灰岩の熱帯カルストがある(>> リンク)。そこでは琉球セメントが石灰岩を採掘しているよ、というような話をしていたら、この近くの道沿いにもセメント・コンクリート製品が沢山あった。それはそうだ。

オーストラリア南西部のピナクルズには、もっと小さい石灰岩が砂の上ににょきにょきと立っている(>> リンク)。

ところで、昨年末に3年ぶりに本を上梓した自分へのご褒美として、ミノルタTC-1を入手し、はじめて使った。フィルム2本のうち、2コマに指先が写っていた(笑)。


もぎり


奇岩群



船と野菜


船と下着



鍾乳洞


看板

※写真はすべて Minolta TC-1、Fuji Superia 400

●石灰岩
本部半島のカンヒザクラ(寒緋桜)と熱帯カルスト
ピナクルズの奇岩群

●ベトナムの写真
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
2012年6月、ハノイ
2012年8月、ハノイ
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町
牛と茶畑


ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』

2012-12-04 00:35:44 | 東南アジア

ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』(1992年)を観る(韓国版DVD)。公開後にヴィデオを借りて以来だ。内容は何故だかまったく覚えていなかった。

1929年、仏領インドシナのサイゴン(現、ベトナム・ホーチミン)。貧しくコケティッシュなフランス人の女の子と、リッチな中国人の男。女の子は15歳、男は32歳。はじまりから歴然とした立ち位置、男は恋をしたと陶酔しつつ、実のところは猛烈な性欲に抗えず、女の子と関係を持つ。立ち位置を忘れようとするかのように激烈に。

というとインモラルで倒錯した物語が昇華しているようだが、実はまったくくだらない。そのようなものを見せたいだけの三流映画だった。書き割りのような背景も、奇妙にクリアで鮮やかなベトナムの光景も、何だか恥かしい。カット割りもステレオタイプ以下で、これも恥かしい。

付録のメイキングフィルムにおいて、監督のアノーが、誰の目にも明らかな間抜け顔で、とうとうと文化の違いだとか魅力的な主演女優を見つけただとか語っているのを視ると、この恥かしさは故なきことではないと確信した。見世物のエロと、マルグリット・デュラスのナルシシズムに依存しただけの代物である。

ああ、くだらない。

●参照
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』(デュラス脚本)


ジャカルタのワヤン・パペット博物館

2012-11-27 07:56:08 | 東南アジア

ジャカルタの旧市街にあるワヤン・パペット博物館を覗いた。

もの凄い勢いで館員が飛び出してきて、案内をしてくれた。日本語がどうも微妙で、英語のほうが断然わかりやすかった。そして最後は売店案内、買わなければチップでも良い、というお決まりのコース。

ワヤンとはインドネシアの人形影芝居であり、展示されているパペットも、棒で手などが動かせる作りになっている。そして、大半が『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』を題材にしたものらしい。インドから東南アジアなどへの物語伝播とそれによる異本生成を説いた本、金子量重・坂田貞二・鈴木正祟『ラーマーヤナの宇宙』(春秋社)を、もう一度読んでみなければならない。

また、インドネシア独立(ムルデカ)を題材にした影芝居のパペットもあった。近年、ロッテルダム市から返還されたものだという。インドネシアとオランダとの対決、オランダ側についたインドネシア人と独立側のインドネシア人との対立などの場面があった。ムルデカに参加した旧日本軍兵士の姿はなかった。


ハヌマーン


インドネシア人どうしの対立(左側が「裏切ってオランダ側についた」人々)

●参照
ハヌマーン(1) スリランカの重力
ガネーシャ(1)
ガネーシャ(2) ククリット邸にて
ドーハのイスラム芸術博物館(ムガル帝国時代の『ラーマーヤナ』写本)
中島岳志『インドの時代』(『ラーマーヤナ』は現代のヒンドゥー・ナショナリズムにつながっている)


2012年11月、バリ島とL島とP島

2012-11-27 00:15:41 | 東南アジア

はじめてバリ島に行ってきた。

仕事であるから余裕はない。深夜ホテルに到着し、翌朝早々に、隣りのL島まで船で移動し、さらに乗り換えて宿の前まで移動、またさらに10人乗りくらいのボートに乗り換えてP島まで行く。もう飛沫で背中が水浸し。

P島で空いた時間に立ち寄ったヒンドゥー寺院では、腰巻と腰布を付けないと立ち入ってはならないようだった。ガネーシャなどのヒンドゥー神の横に、観音菩薩が祀られていた。勿論、神仏習合はここだけではない。


バリ島


バリ島の珊瑚


サンダルと麦わら帽子を買った


容赦ない水飛沫


碧い碧い海


L島の珊瑚


ボートの船頭


去ってゆくボートとP島のクソガキ(笑)


P島


P島の山


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


P島のヒンドゥー寺院


ガネーシャ


観音菩薩

※写真はすべて、Pentax MX、M40mmF2.8、Fuji Pro 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼
2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏
2012年9月、ジャカルタ


白石隆『海の帝国』、佐藤百合『経済大国インドネシア』

2012-11-17 23:54:32 | 東南アジア

サウジから香港への帰途、白石隆『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書、2000年)を読了した。

19世紀に、ラッフルズという人物がいた。英国東インド会社に所属した、シンガポールの生みの親である。

彼が見抜いたマレー半島やインドネシア島嶼における権力構造は、いくつもの中心からなる「まんだら」システムであった。その中心のひとつがマラッカであり、また、のちにシンガポールとなる地であった。各々の中心には、王がいた。そして、スラウェシ島南部のマカッサル人・ブギス人たちが、海の民として交易活動を活発に行っていた。

これは、国境によって色分けされる近代国家とはまるでパラダイムを異にする。そしてその19世紀、英国自由貿易の時代に、近代国家(リヴァイアサン)が誕生する。資本、資源、労働力の囲い込み、そして搾取は、そこからシステムとして変貌する。

確かに、オランダや英国の東インド会社という「会社国家」がいかなるものか、近代国家観からは理解が難しい。そもそも、国家なる観念が変わってきたわけである。著者の指摘によれば、「マレー人」や「中国人」といったラベリングさえも、居住地を分け人口調査のためにリスト作成を行う過程で、創出されたという。ラベル間の境界がいい加減だったのではない。顔かたちや出自が違おうと何人というラベルなど無意味であったところが、ラベリングそのものが、個人のアイデンティティをも形成していったということだ。

まさに民族という観念も、ナショナリズムも、近代の賜物だということさえできる。これは驚くべきことだ。

ところが、中国になると、事情が異なってくる。古代から、農民支配・土地支配こそが帝国の基礎をなしてきたのだという。これは海の「まんだら」と、そこで行われる商業とは相いれない。著者はこのことをもって、中国の市場経済システムが国としての政治経済システムと整合するか疑問だとしている。確かに、天下国家としての固い支配と緩やかな支配、東部の市場主義と内陸部の投資対象・労働力の源泉など、はたしてこのシステムがうまく永続しうるのか、まだ誰にも断言できないのかもしれない。

本書は19世紀から20世紀にかけての国家システムの変貌をダイナミックに描いている。それに対し、現代のインドネシアの姿は、佐藤百合『経済大国インドネシア 21世紀の成長条件』(中公新書、2011年)に、詳しく描き出されている。

腐敗したスハルト時代(1966~98年)が瓦解し、まさに近代的な新興国として、インドネシアが注目されている。その目玉は、人口ポテンシャル、資源(これは、日本の南進時代から変わっていない)、優秀な経済テクノクラートたち、全方位的な成長戦略などなのだという。

実証的にデータと情報が詰め込まれており、ひとつひとつ、なるほどと納得させられる。面白い。

そんなわけで、明日から、今年3回目のインドネシアへ。 

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
鶴見良行『東南アジアを知る』


いなば食品のタイカレー缶

2012-11-10 01:09:29 | 東南アジア

最近ローソンで存在感をアピールしまくっている缶詰。いなば食品のタイカレーのシリーズである。

深夜疲れて帰る途中、つい、ビールと一緒に掴んでしまった。缶詰と酒なんて、オッサンみたいだな。

買ったのは、「ツナとタイカレー(グリーン)」と、「チキンとタイカレー(イエロー)」。この商品展開はちょっとヘンな感じだ。

皿にあけたり電子レンジで温めたりするのも面倒なので、そのまま食べた。色気も何もあったものではないが、なかなかまともに作ってある。そのままつまむより、飯にでもかけた方が良かったかもしれぬ。でも、そのままでも旨い。

原材料を見ると、それなりに本格的だ。ところで、「こぶみかんの葉」とは何だろう。

もうタイに1年くらい行っていないな。


2012年9月、ジャカルタ

2012-10-07 22:10:14 | 東南アジア

ジャカルタは自動車の渋滞がひどく、中心部はビルばかりで歩いている人はあまりいない。ショッピングセンターに入ると東京よりも立派で、ヘンなDVDか文房具でも買おうかというアテがはずれた。つまり散歩していてもあまり楽しくないのであって、必然的にスナップの意欲が薄れていく。

ただ、それは仕事で余裕がなく、真ん中しか知らないからだろうね。

カフェ・バダヴィアは、オランダ植民地時代の古い建物を改装したカフェレストランで、かなりオシャレだ。壁やトイレには古い写真や映画スターのピンナップがぎっしりと飾られている。メニューは柱の写真を外すと裏に書かれているという趣向。

観光客も多い。ひとり座っていた日本人女性(らしき人)は、坂口恭平『独立国家のつくりかた』を読んでいた。近くのテーブルで、英語と日本語をなにやら喋っていて、旅の興がそがれたかもしれない。申し訳ない(が、仕方がない)。

もうちょっと、周辺をうろうろしたかった。


ナシゴレン


壁に写真がぎっしり


観光客


高い天井の下でランチ

※写真はすべて、Pentax LX、FA28mmF2.8、Fuji Pro 400

●参照
2012年7月、インドネシアのN島(1) 漁、マングローブ、シダ
2012年7月、インドネシアのN島(2) 海辺
2012年7月、インドネシアのN島(3) 蟹の幾何学、通過儀礼
2012年7月、インドネシアのN島(4) 豚、干魚、鶏


鶴見良行『東南アジアを知る』

2012-09-09 11:48:13 | 東南アジア

鶴見良行『東南アジアを知る ―私の方法―』(岩波新書、1995年)を読む。氏が1989-90年に行った講演録である。

何気なく読み始めたのだが、これがなかなか刺激的だった。さすがに歩く人である(本人は学者世界を批判し、自らを調査マン、ジャーナリストだと称していた)。ただ、あくまで講演録であるから、これをきっかけに次に進まなければならない。著者の本は、これまで『アジアを歩く』しか読んだことがなく、勉強不足を悔んだ。

その、きっかけとして。

○東南アジア諸国は、欧米の侵略によって、国境と定住を前提としたネーションにならざるを得なかった。もともと島嶼部東南アジアは多様な民族・文化があったところであり、ネーションの形成には無理があった。レナト・コンスタンティーノは、民族的自覚(ネーションフッド)を、未完の発展的概念としている。このことから、ネーション形成の歴史を逆照射しなければならない。
○7世紀後半からマラッカ海峡の交易ルートを支配したスリウィジャヤ王国も、14世紀末から110年間存在したマラッカ王国も、いくつもの港の連合体であった。そのため、縮んだり大きくなったりできるものだった。
○東南アジアのナショナリズムは、植民地主義に対抗するために人為的に作ったものだった。このあたりが、タン・マラカ(インドネシアの共産主義者、独立後にオランダの再植民化に抵抗して殺される)、プラムディヤ・アナンタ・トゥール(インドネシアの共産主義者、獄中で小説を執筆)、レナト・コンスタンティーノらを悩ませた問題であった。
マングローブの沼地において、東南アジアの一揆や反乱が起きた。日本の定着農耕地を前提とする考えとはまったく異なる。
○ハノイやジャカルタやマニラは植民地主義者が築いたものであり、これだけで考えれば、植民地主義者の眼だけで「第三世界」を考えることになる。
○また、「第三世界」の生産が、一方的にヨーロッパの市場だけにつながったとする教育や史観は間違っている。(早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』では、たとえばコメの輸出入経済を、ヨーロッパとの関係だけでなく、東南アジア諸国間やインドとの間で論じている。)
マラッカ海峡は交通の要所でありながら、浅くて通過しにくい(むかし)、海賊が出没する(むかしもいまも)、といった難があり、マレー半島・タイのクラ地峡に運河を建設する計画があった。かつては、船を棄てるか持ち運ぶかして陸域を横断したものだった。インド大反乱(セポイの乱)(1857年)では、英国が香港の極東艦隊を呼び寄せるために建設を画策した。スエズ運河を建設(1869年)したレセップスは、タイのチュラーロンコーン王(ラーマ5世)と会談し、やはり運河建設を画策した。日本は戦前にも計画したが、1973年にあらためてそれが浮上する。なんと水爆を使って運河を掘るというものだった。そして今も計画は死んでいない。
○東南アジアでは人跡未踏のマングローブ林はわずかなのではないか(たとえば、エビ養殖との関係)。


インドネシア・N島のマングローブ林

ついでに、現代の「ナショナリズム」について、いくつか指摘を整理してみる(これも、きっかけとして)。

ジャック・デリダ キリスト教の「普遍への意図」「政治的無関心主義」が、逆に、ナショナリズムを生んでしまった。(>> リンク
ガヤトリ・C・スピヴァク 「公」をそれぞれ「私」に近づけ、それを拡大していく想像力をナショナリズムの原点に置くことができる。(>> リンク
デイヴィッド・ハーヴェイ 新自由主義は、市場の自由を標榜しながら、実は逆に、ナショナリズムが効率的に機能する仕組になっている。(>> リンク
高橋哲哉 マジョリティ(民族的多数派)のナショナリズムはもはや「健全」ではありえない。それは必然的に暴力を孕み、排外主義を孕んでしまう。(>> リンク
村井紀 日本のナショナリズムを相対化する柳田國男らの試みは、実は、排他性が組み込まれたナショナリズムそのものであった。(>> リンク
加々美光行 孫文による、国境・宗教・民族などさまざまな要素を丸呑みする普遍的な「中華ナショナリズム」は、その抵抗的性格を失ってしまうと精神を失い、排他性を強め、自己を尊大視するものと化した。(>> リンク)(>> リンク
徐京植 「死者への弔い」が、たえず「他者」を想像し、それとの差異を強調し、それを排除しながら、「鬼気せまる国民的想像力」によって、近代のナショナリズムを強固にしている。(>> リンク

●参照
早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』


早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』

2012-09-07 07:30:00 | 東南アジア

早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ 東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年)を読む。

本書は、第一次世界大戦前後に、東南アジア諸地域(シャム=タイ、仏領インドシナ=ベトナム・カンボジア・ラオス、英領ビルマ、英領マラヤ=マレーシア・シンガポール、オランダ領東インド=インドネシア、アメリカ領フィリピン)における植民地化と国家形成への模索についてまとめたものである。

確かに、欧米諸国による領土争いが熾烈であり、日本は後発の侵略国に過ぎなかったことを俯瞰できる。もっとも、日本は資源獲得という本音を、大東亜共栄圏や欧米列強からの解放などといった欺瞞で包んでいた。

気付かされたことは、こうした近代植民地化のプロセスのなかで、各地域のモノカルチャー化が進んだということだ。コメはその代表的な存在であった。東南アジアの水田を視て、手仕事の見事さや、水循環の実感を印象として持っていたのだったが、そのような現在の切り口だけでは明らかに不十分なのだった。そうではなく、この100-200年の権力や世界市場による変化を幻視しなければならない。

たとえば英領下のビルマでは、インド大反乱(セポイの乱)(1857年)やアメリカ南北戦争(1861-65年)による世界コメ市場の逼迫を受け、コメの生産・加工を中心とするモノカルチャー型輸出経済が進展した。

また、第一次大戦中に、英国は植民地のビルマからインドに大量のコメをまわし、ビルマから英領マラヤへの輸出が急減し、マラヤはやはりコメ輸出を最重要な輸出作物にしていたシャムにそれを求め、その結果、コメ価格の急騰やペナンでの暴動を招いた。

このコメ不足や、オランダ経由でドイツにコメが入らないための英仏による禁輸、シャムの参戦(1917年)などにより、オランダ領東インドではトウモロコシなどへの転作を増やし、水田と畑地の割合を逆転させた。

世界大恐慌(1929年)では、ナショナリズムをともなわなかったインドシナ経済は大打撃を受け、コメ価格暴落により失業者が溢れた。

このように、コメだけを取ってみても、如何に植民地東南アジアでのモノカルチャー化が地元の柔軟性を減じ、経済や大国の意向に左右されやすくなったかがわかる。アジア諸国を訪れて行うべき幻視とは、そのような歴史から、根っ子たる風景がどのように変貌したのかを想像することなのだろう。

●参照
中野聡『東南アジア占領と日本人』
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
波多野澄雄『国家と歴史』


牛と茶畑

2012-09-01 08:19:46 | 東南アジア

ベトナム北部を自動車で走っていて、ガソリンスタンドでトイレ休憩したときのこと。

道路の向い側を見ると、牛のぬいぐるみを着た女の子が何やら踊っている。「ベトミルク」という牛乳の宣伝なのだった。ただでさえ暑いのに、御苦労さまとしか言いようがない。しかし、愉しそうにしていた。


乳牛さま


こちら側には牛の餌袋

標高が上がってくると、道路横の風景が水田から茶畑に変った。目を凝らすと、向こう側に新郎新婦とカメラマン。結婚の記念撮影である。これもまた暑そうで、愉しそうで。


ポーズ


カメラマンも大変だな


注文あれこれ

※写真はすべてPentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400にて撮影

●参照 ベトナム北部
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
デイヴィッド・マーティンという写真家
ベトナムのヤギ三昧
ベトナムで蜂食い
2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町