Sightsong

自縄自縛日記

島村英紀『火山入門』

2015-05-27 22:58:46 | 環境・自然

島村英紀『火山入門 日本誕生から破局噴火まで』(NHK出版新書、2015年)を読む。

本書は、本当の意味での入門書だと思う。プレートテクトニクスやプリュームテクトニクスなどをもとに、手際よく火山のメカニズムを説明している。また、火山にもさまざまなタイプがあり、それらの噴火の歴史を追うことによって、長い目で見れば日本における大規模な噴火は必然であることを示している。さらに、それがどこでいつ起きるかについて確実なことを言うことは難しく、予知も地震と同様に極めて難しいことを、明らかにしている。

これまで、マグニチュード9クラスの地震のあとには、必ず数年間の間に、近くで複数の噴火が起きていた。東日本大震災のあとには大きな噴火がなかったが、結局、2014年の御嶽山噴火が起きた。これからも起きる可能性は十分にあり、その「近く」とは震源から600キロメートル以内であった。

地震の影響だけではない。長い目で見れば、この100年ほどは異常に静かな時期であったという。そして、火山や地震に対しては、時期や場所や規模を特定する「予知」ではなく、長い時間と広い場所を視野に入れることが、むしろ科学的な知見であるということができる。すなわち、いつ何時、さしたる予兆もなく、日本のどこかの死火山と思われている場所からさえ、巨大噴火は起こりうるということである。

●参照
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
黒沢大陸『「地震予知」の幻想』
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
石橋克彦『南海トラフ巨大地震』
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編


鬼頭昭雄『異常気象と地球温暖化』

2015-05-20 22:09:45 | 環境・自然

鬼頭昭雄『異常気象と地球温暖化 ―未来に何が待っているか』(岩波新書、2015年)を読む。

著者は、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2013-14年に提出した最新の「第5次評価報告書」の執筆にも参加している。本書もその知見を活かして、気候システムや、それを解き明かそうとする各種モデルについて説いたものになっている。その点で、気候変動に関する最新の評価を紹介しており、今、全体をつかむには良い本である。(もっとも、新書という分量の限界があるためか、もう少し図表を使って丁寧に解説すべきではないかと思う箇所が少なくない。)

最近のトピックとして、1998年に起こったエルニーニョ現象以降、2014年に至るまで、気温がわずかな上昇傾向にとどまっていることがよく挙げられる(ハイエスタス)。その原因としてわかってきたことは、海水の熱の蓄積が、この間、深層でなされていたということだという。すなわち、今後また海水の表層部分で熱を蓄積し海水温度が上昇するようになれば、また温暖化が加速するのではないかという予測がなされている。

また、氷期がまた来るのではないかという問いに対しては、CO2濃度が300ppmを超えているような状況では、それは起こりえないとの答えである。過去200万年の間、工業化がはじまるまで、300ppmを超えた時期はない。

本書は、最後に、気候工学の適用による温暖化の抑制について言及している。例えば、大気中(成層圏)にエアロゾルを撒いて太陽エネルギーの到達量を少なくする方法、CO2を分離回収して地中に貯留する方法(CCS)、海に鉄分を撒いて肥沃化する方法などである。それらについては、一時的な手段なのかどうかに加え、どのような副作用が出るかわからないという危険性を指摘している。この冷静な記述には好感を覚える。ナオミ・クライン『This Changes Everything』のように過激にそれを訴える方法は、ときに逆効果である(ナオミ・クラインは、『世界』2015年5月号におけるインタビューでも、着実な努力を否定する発言を繰り返している)。

●参照
大河内直彦『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
ナオミ・クライン『This Changes Everything』
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」


山本義隆『原子・原子核・原子力』

2015-05-17 16:03:58 | 環境・自然

山本義隆『原子・原子核・原子力 わたしが講義で伝えたかったこと』(岩波書店、2015年)を読む。

現在の原子力発電は、主にウラン235の核分裂によって放出されるエネルギーによって動かされている。235とは質量数であり、原子の重さ、つまり、陽子と中性子の重さの合計である。天然のウランは大多数が質量数が少し異なるウラン238であり、ウラン235はごくわずか(0.7%)しか存在しない。したがって、原子力発電を行うには、ウラン235の割合を人為的に増やしてやらねばならない。原子力を論じる上での基礎知識である。

しかし、これがなぜなのかについて解き明かしてある本はきわめて少ないに違いない。その理屈には、質量数が偶数か奇数かの違いが関係している。それを理解するなら、放射線のうちα線がヘリウム原子核であることも関連していることがわかってくる。そしてα線、β線、γ線のもつエネルギーが極めて巨大であり、それゆえに危険であること、閾値の設定は便宜的なものに過ぎないことが理解できる。

同様に、なぜ、核分裂を促すための中性子を、(軽水炉では水によって)減速しなければならないのか。すでに天才ニールス・ボーアにより、20世紀前半には、感覚的にわかりやすいイラストが描かれていた。

本書は、物理学者であり、かつ科学史家でもある山本氏が、こういった物理学上の発見の歴史を紐解きながら、原子力発電の理屈にまで導いてくれる講義録である。そして、あくまで論理的な帰結として、原子力が危険な技術であり、倫理にも反していることを説く。反原発が技術を知らず感情的な運動だと決めつける言説は少なからず転がっているが、そうではないのだ。

ちなみに、わたしも高校生のときに駿台予備校の講習に出かけ、山本氏の説く物理に接し、感銘を受けたことがある。本書は、語りは平易であっても、山本氏にしかなしえない仕事である。

●参照
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
山本義隆『知性の叛乱』
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』
山本義隆『熱学思想の史的展開 3』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
福島原発の宣伝映画(2)『目でみる福島第一原子力発電所』
フランク・フォンヒッペル+IPFM『徹底検証・使用済み核燃料 再処理か乾式処理か』
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
使用済み核燃料
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『伊方原発 問われる“安全神話”』


寺尾忠能編『「後発性」のポリティクス』

2015-05-11 23:41:08 | 環境・自然

寺尾忠能編『「後発性」のポリティクス 環境政策の形成過程』(アジア経済研究所、2015年)を読む。

中国の吉林省では、2005年、工場の事故によって河川に大量のベンゼン類が流出した。SARS対策を契機に、緊急性の高い事故・汚染等への対応が必要視されていたときであったこともあり、この事故への対応のまずさは、情報公開や指揮系統のあり方を問うことにもつながった。事件後、地方政府は、汚染現場にNGOやジャーナリストが入ることへに警戒しているという。情報公開のまずさに対する批判が、却って情報公開そのものを慎重にさせるという傾向は、日本にも共通するところがあるのかもしれない。

タイのチャオプラヤでは、2011年に大洪水が起きた。発生から長い時間が経ってもどの地域に水が来るのかはっきりせず、また、水が引くにも長い時間を要した。わたしもバンコクに行く用事をいつまで延期しなければならないのか見通しが立たず、やきもきさせられた記憶がある。これこそが、勾配が緩やかなチャオプラヤの特性である。そのとき、安定政権がインフラ投資できなかったからこのような事態になったのだという声をしばしば聞いたものだが、本論によれば、新旧の縦割り組織が事故対応を難しくしていたのだった。インラック政権は短期対応には高く評価すべき組織改革を行ったが、中長期の水資源管理対策についてはうまくいかぬまま、クーデターを迎えた。そして、組織はまた非効率な形へと戻ってしまった。

カンボジアの巨大なトンレサップ湖では、2012年、かつてフランスによって導入された区画漁業制度が撤廃された。このことは、政府主導の私有資源化(囲い込み)とは逆の、珍しい「脱領域化」である。実は、いまや漁業由来の歳入は非常に小さく、それを考えあわせれば、非常に多くの零細漁民を含めた人々に利益を再分配し、政治的な安定をはかるべきだという狙いが政府にあったのではないかという(カンボジア国民1,500万人のうち、トンレサップ湖に何らかの利害を持つ者の人口はなんと400万人)。しかし、その一方で、生態系や漁業資源の管理があやういものとなっている。実際に、目に見える形での悪影響は出ているのだろうか。

台湾では、水質保全の法制度が整備されてきたものの、それは必ずしも実効的なものではなかった。逆に不十分な法制度を作ってしまったことが、それを言い訳とする使い方を許してしまい、環境影響の観点からはマイナスともなった。日本では、浦安の「黒い水事件」(1958年)を受けて導入された「水質二法」が実際には甘く、むしろ公害追認法として機能し、その後の水俣病の被害拡大を招いてしまった。台湾でも同様に「緑色牡蠣事件」(1986年)が政治問題化し、関連法制度が整備された。しかし、日本と同様の失敗を繰り返してしまった側面があるのだという。

ドイツで1991年に導入された容器包装例は、容器包装廃棄物に関する拡大生産者責任(EPR)を法制化するモデルとなった。環境の時代を象徴するような政策であり、日本の容器包装リサイクル法にも大きな影響を与えている(わたしも1999年頃にOECDでのEPRの会議を黒子として手伝い、大変な勢いがあったことを記憶している)。なぜこれがドイツで導入されたのか。そこには、缶など「ワンウェイ容器」の台頭を脅威とするビールメーカーが多く立地する地域出身の政治家の存在があった。そして、政府と産業界とのせめぎあいにおいて、瓶など「リターナブル容器」の回収率が常に問題とされた。日本でも、リターナブル容器のほうが環境負荷が小さいとする論文が酢メーカーによって公表され、目立っていた記憶がある。

また、ドイツでは、埋め立てや焼却を従来通り公共部門が、そしてリサイクルを民間が行う「デュアル・システム」が導入された。おそらくリサイクルの事業性について明確なメッセージがないまま進んだのではないかと思ってしまう。日本では、容器包装リサイクル法の導入当時、ペットボトルのリサイクルに新規事業者が急激に参加し、原料としてのペットボトルの過不足やコストの乱高下を生んでしまった。果たしてドイツではどうだったのだろう。

大恐慌後、ニューディール期のアメリカでは、公共政策としての「保全」概念が拡張した。すなわち、水や森林の管理だけでなく、野外レクリエーションの機会創出、都市・農村間の格差解消までもが「保全」の範疇内なのだった。それに伴い、雨後の筍のように、数々の機関ができ、収拾がつかなくなった。これを受けて、連邦政府は「保全」という理念をもとに、権限争いをする省庁・機関をうまく統合し管理しようと試みた。そのひとつの答えがEPA(環境保護庁)なのだろう。著者は、「理念」の「制度化」のプロセスを検証しておくべきだとする。

本書は、寺尾忠能編『環境政策の形成過程』の続編的な本であり、同書と同様に、各国において環境政策がどのように導入され、多くの場合、それがどのように失敗したのかといった観点で掘り下げたものとなっている。齧った分野も関心のあった分野も取り上げられており、それぞれ興味深く読んだ。さらなる続編を期待したい。

●参照
寺尾忠能編『環境政策の形成過程』
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』


山本昭宏『核と日本人』

2015-03-27 23:26:19 | 環境・自然

山本昭宏『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(中公新書、2015年)を読む。

戦後、日本では核兵器と原子力発電がどのように受容されてきたのか。本書においては、それを見出す媒体は、漫画や特撮映画といった大衆芸術である。確かに、それらは大衆の欲望や感情を機敏に受け止めて絶えず作りだされる。

1950年代からの「原子力の平和利用」が、多くの者に望ましいものとしてとらえられたことは、今となっては実に奇妙なことだ。その思想的な背景には、「被爆経験があるからこそ、原子力を進めるべきだ」という言説がある。本書によれば、このような一見もっともらしい論理は、対象を変え、正反対の言説がセットとして現われている。すなわち、「被爆経験があるからこそ、原子力を廃絶すべきだ」、「被爆経験があるからこそ、核兵器を廃絶すべきだ」、「被爆経験があるからこそ、核武装する資格を持つ」、「原発事故の経験があるからこそ、原発を廃絶すべきだ」、「原発事故の経験があるからこそ、安全な原発を推進できる」、・・・。

このことは歪ではあるが、市民運動においては一定の力を持っていた。しかし、いまでは、問題を切実にとらえず、他人事のように評論家然としている者が多いという。この理由は、著者のいうように、不条理や矛盾や暴力があまりにも日常の中に入り込んでしまい、過剰に相対化された結果なのかどうか。

●参照
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』
太田昌克『日米<核>同盟』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
前田哲男『フクシマと沖縄』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


大河内直彦『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』

2015-03-07 07:29:13 | 環境・自然

大河内直彦『チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る』(岩波現代文庫、原著2008年)を読む。前々から、そのうちにと思っていた本であり、文庫化大歓迎。

言うまでもなく地球は生き物であり、大気を通じて宇宙とつながっている。また、地球の側でも、多くの物質や相が相互に作用している。それらの複雑な相互作用の結果としてあらわれる現象を、メカニズムという形で読み解くためには、海底の堆積物や分厚い氷床といった、地球上に残されたものを「記録」として扱い、分析していくほかはない。

その鍵として本書において大きくフィーチャーされるものは、「同位体」である。同じ炭素や酸素であっても、自然界にはごくわずか、質量が微妙に異なる「同位体」が存在する。質量が違うということは物理的な挙動が異なるということであり(時間が経てば姿を変えていく「放射性同位体」もある)、その結果、大昔の堆積物や氷床をトレースすれば、それがいつどのような環境にあり、どのような道をたどってきたのかということが解きほぐされていく。こういったからくりを、科学史とともに解説するあたりは見事である。

科学を丁寧に書くと厚くなってしまうという難点はあるが、じっくりと付き合う価値がある本だ(もちろん、くだらぬ環境陰謀論を、ではなく)。それは現在の環境政策の重要さを認識することにもつながっている。

「・・・少々二酸化炭素濃度が上昇しても、氷期から間氷期に移ったような大規模な気候の再編は起きない。しかし、この「ひと押し」がどんどん大きくなっていったら、どうなるだろう? 気候システムが異常をきたしたとしても、それは決して不思議なことではない。いずれ「障壁」を乗り越え、別の安定解へとまっしぐらに突き進む非線形性が現れるかもしれない。気候の暴走である。それが、気候学者が現在もっとも恐れていることなのである。」
「人類が危険な火遊びをしていることは間違いないのである。」

●参照
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
ナオミ・クライン『This Changes Everything』
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」


朝日新聞経済部『電気料金はなぜ上がるのか』

2014-12-25 22:06:16 | 環境・自然

朝日新聞経済部『電気料金はなぜ上がるのか』(岩波新書、2013年)を読む。

日本の電力会社の電力料金は、有名な「総括原価方式」で決められる。つまり、発電するためにかかったオカネを積み上げ、それを消費者に転嫁する。しかし、それが具体的にどのように積み上げられているのかを、明確に答えられる人は少ない。普段わたしもこのことばを使いながら、曖昧にしか理解していない。

本書は、その原価の計算方法に含まれる問題を示している。また、その結果電力料金が高くなっていることの原因を、地域独占のため競争原理が働いていないからだとする。

中にはもっともな指摘もあるし、週刊誌的に糾弾すればよいだろうというノリの部分もある。少なくとも、電力の安定供給を行ってきたことと、原子力を歪なかたちで進めてきたこととは、切り離してとらえなければならないはずである。

●参照
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』


フランク・フォンヒッペル+IPFM『徹底検証・使用済み核燃料 再処理か乾式処理か』

2014-12-23 22:29:44 | 環境・自然

フランク・フォンヒッペル+IPFM『徹底検証・使用済み核燃料 再処理か乾式処理か』(合同出版、2014年)を読む。

原子力発電所からは、使用済み核燃料が発生する。日本は、以前より、これを再処理してプルトニウムを抽出し、高速増殖炉において使う核燃サイクルを計画・推進してきた。高速増殖炉の計画が頓挫した後も、MOX燃料に加工して既設の軽水炉で使おうとしてきた。その矢先の東日本大震災であった。

いや、東日本大震災後の原発停止は問題の構造をはっきりさせるものに過ぎなかった。すなわち、コストの面でも、マテリアルバランスの面でも、安全面でも、軍事的なリスクの面でも、再処理は難題に他ならないのである。本書も、そのような明確なメッセージを発している。

国外に目を向けても、再処理の方針を維持しようとしている国は、日本の他にはフランスくらいである(英国は中止の方針)。そして、直接処分であろうと再処理であろうと、高レベル廃棄物の処分地の決定にはどの国も苦慮している。少なくとも言えることは、密室で誰かの頭越しに決める方法ではなく、透明性を確保した協議でなければ、ことは決してうまく進まないという教訓が、全世界的に得られているということだ。

他国の事例を学ぶことは退屈かもしれないので、せめて、第III部の「日本への提言」だけでも広く読まれてほしい。あるいは、市民勉強会などのテキストにも良いかもしれない。

●参照
太田昌克『日米同盟』
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
使用済み核燃料
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』


ナオミ・クライン『This Changes Everything』

2014-12-19 07:43:50 | 環境・自然

ナオミ・クライン『This Changes Everything / Capitalism vs. The Climate』(Simon & Schuster、2014年)を読む。(何しろ大著ゆえ時間がかかり、読了するまでに、ベトナムとサウジアラビアとを往復してしまった。)

大規模な気候変動による悪影響は誰の目にも明らかだ。著者のことばを借りるなら、100人の科学者のうち97人が、それを温室効果ガスに起因するものであると考えている。もちろん科学的な異論はあって然るべきものだが、日本においては、それは強引な「ためにする」反論や、政治的な陰謀論としか言えないような詭弁であった。そして、アメリカにおいては、保守政権や、化石燃料を生産する産業や、それを消費する産業や、それらから委託されたシンクタンクによって、温暖化やその原因を温室効果ガスに帰すことへの否定論が、何十年もの間繰り広げられてきた。

そのことは、たとえば、ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』(本書でも引用されている)でも、ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』でも、そして本書でも、徹底的に検証されている。

なぜなのか。それは、すべてをオカネによって駆動するからだということが、本書が執拗に説いていることである。すなわち、本書は、サブタイトルにあるように、資本主義批判の書であり、新自由主義批判の書である。

天然ガスは、石油や石炭よりも二酸化炭素排出が少なくて済むために、再生可能エネルギーの普及条件が整うまで、あるいは、他の技術革新が起きるまでの「橋渡し」的なエネルギーとして位置づけられてきた。これも、著者によれば批判の対象である。それ自体が化石燃料産業の自己目的化しているからだ。また、シェールガスについては、採掘時に大量の水を使い、メタン漏洩が大きいことを指摘する。さらに、カナダのオイルサンド(tar sands)や、カナダとアメリカとをつなぐキーストーンXLパイプライン計画についても、繰り返し、多くの問題があると指摘する。

土地の水没や、ハリケーンなどの頻発などによる気候変動の悪影響は、社会的な弱者にこそ打撃を与える。また、化石燃料の採掘や輸送のサイトも、先住民族の地を含め、ヴァルネラブルな場であるとされる。著者は、これを「カーボン・フロンティア」と呼び、やはり、オカネばかりによる社会の駆動の歪みだとする。しごく真っ当な指摘であろう。

興味深いことに、温暖化対策の国際交渉と、貿易自由化の国際交渉とは、同時期に進められてきた。貿易自由化は、コストの利用すべきギャップを世界中に広げることでもあった。ギャップがあるからこそ富が生産され続ける。その結果、中国は巨大化し、同時に、あっという間にアメリカを抜き去り、世界一の温室効果ガス排出国となった。大いなる構造的な矛盾であった。

それではどうすればよいのか。著者の言わんとしていることは、オカネのみにより駆動される経済社会を根本的にあらためよということだ。その中には、財やエネルギーの地産地消も含まれるし、環境の直接規制も含まれる。

もちろん環境保護のためには、外部性を認識して、政府により、楔や埋め込みを設定することが必要なことは言うまでもない。しかし、著者の主張は、「地球が危ない」という危機感のあまり(実際にそうなのだが)、極端に振れているように思われる。著者にかかれば、環境経済の手法さえも生ぬるいとして全否定される。しかし、それはやりすぎだ。改革は、現在のシステムを動かしながら行わなければならないのである。

環境経済、特にカーボン・クレジットについて、どこかで聞いたような偏った主張をしているなと思い脚注を確認してみると、やはり、カナダのテレビ局が制作したドキュメンタリー『カーボン・ラッシュ』を引用していた。実際には、そこであげつらわれているような問題点は、とうの昔に認識され、それを回避すべきものとして改善されているのである。極端な仮想敵を設定し、それに対する闘いを論じることの害は大きい。

また、行うべきでない「geoengineering」として、大気中に太陽光を遮断する物質を散布する方法(SRM: Solar Radiation Management)について、一章を割いて論じていることにも首を傾げる。もちろんその議論自体は妥当なものだと捉えたのだが、それならば、より実現に近いと考えられる炭素の地中貯留(CCS: Carbon Capture and Storage)についてこそ議論すべきではなかったか。なんだかアンバランスである。

●参照
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」
中川淳司『WTO』
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集


デイビッド・ウォルトナー=テーブス『排泄物と文明』

2014-11-29 19:52:11 | 環境・自然

デイビッド・ウォルトナー=テーブス『排泄物と文明』(築地書館、原著2013年)を読む。

 

要するに、ウンコの本である。原題は『The Origin of Feces』(『糞便の起源』)、つまりチャールズ・ダーウィン『The Origin of Species』をパロッている。 

人はウンコが嫌いで好きである。認めてはいるが視ていない。有用であり有害である。ヘンにタブーだからヘンなことになる。

所詮は、消化しきれなかった食べ物と、水と、バクテリアの塊である。それが、生態系の主役のひとつでもある。すなわち、ウンコを真っ当に評価して扱わないことには、食糧問題も公衆衛生も解決できない。著者がユーモラスにたくさんのネタとともに迫るのは、まさにそのことである。

読みながら思い出したこと。

わたしは腹が弱い。真っ青になって必死に走ったのは、日本ばかりではない。バンコクのスーパーマーケット(綺麗なトイレだった)。ハノイの空港(タクシーで冷房に当たりすぎた)。インドネシアの離島の空港(あまりにも汚く、水も出なかった)。ネパール・ポカラの街(買い物をしている途中だったので、支払う前に預けてまた戻った)。紹興(間に合って出ていくと、仲間に万歳三唱をされた)。・・・思い出せばまだありそうだ。

これがあまりにも酷い("OPP")と、トイレに通い詰めることになる。イエメン・サヌアの宿では、本来使ってはならない紙をたくさん使ってしまったために、トイレが詰まったようで、掃除をしていた男に、お前だろう、わかっているぞと言わんばかりの形相で睨まれてしまった。用を足したあとに紙でなくバケツの水を使う文化は多いのである。そんなわけで、本書にもイエメンについての言及があってドキリとした。イエメンが「近代化」されると水洗トイレが増え、サヌアでは水不足と地下水位の低下が起きているのだという。まるで「近代化」の先兵としてトラブルを起こしたような気がしてくる。申し訳ない。

そのあとも下痢は止まらず、紅海へと向かう車のなかで「ハンマーム!」と言って止めてもらっては、サボテンの陰に隠れた。そのサボテンは他よりも大きくなっただろうか。まるで生態系に悪影響を与えたような・・・それはないか。(ちなみに、「ハンマーム」という言葉は、英語の「バスルーム」と同様に、風呂のことも指す。)

もうひとつ思い出したこと。

インド・ムンバイは海辺の街。早朝に散歩して海に着いたところ、たくさんの男たちが佇んでいる。みんな、しゃがんでいる。仰天した。ここまで多ければ生態系の一部として評価すべきものだろう(どちらの影響かわからないが)。本書でムンバイの話として示しているのは、映画『スラムドッグ$ミリオネア』の中で、突然あらわれた映画スターのサインが欲しいがために、肥溜めに飛び込んだくだり。そのことだって、ウンコの管理や処理という問題を垣間見せてくれるものなのである。

もうひとつ・・・。キリがない。このように恥ずかしい話のネタとして扱われることが、ウンコの置かれた状況を示すものでもあるだろう。ウンコを直視すべし。


斎藤修『環境の経済史 森林・市場・国家』

2014-11-17 00:05:16 | 環境・自然

斎藤修『環境の経済史 森林・市場・国家』(岩波現代全書、2014年)を読む。

「日本は、古来から自然を尊重し、大事に育ててきた」とは、よく言われることである。しかし、それはイメージのみに基づく常套句であり、正確ではない。日本の「潜在自然植生」は、現在の姿とはずいぶん異なる(たとえば、関東にもともとあった植生は、シイ、カシ、タブなどの常緑広葉樹であった)。保全を目的とはしない人間の手が入った結果である。

本書によれば、江戸初期(17世紀)において、森林は激しく伐採され劣化したという。それを押しとどめたのは、海外で広く信じられているように「徳川幕府の中央集権的な伐採規制」などではなかった。官ではなく民の側こそが、森林の保全に長期的な利益を見出し、木材や薪炭材の市場と森林保全とをうまく組み合わせるような形を作り上げたのだという。

他にも、このような「神話」が挙げられている。産業革命が直接森林伐採に結びついたというストーリーも、地域の経済発展が森林減少を必ず引き起こすという因果関係も、正確ではない。ヨーロッパでは近代に森林が回復に転じており、単に「環境クズネッツ曲線」の事例として分析するほど単純ではないようだ。

一方で、中国の森林減少は統計的にも激しいもののようで、著者は、この要因を民族のメンタリティなどに求めるのではなく、統治の失敗にあったとしている。このあたりは仮説の域を出ないように思われるがどうだろう。近年、中国政府が非常に熱心に植林を進めていることはよく知られているが、そのあたりへの言及はなかった。効果と現在の問題点についても知りたいところ。 

●参照
上田信『森と緑の中国史』
只木良也『新版・森と人間の文化史』
そこにいるべき樹木
園池公毅『光合成とはなにか』
館野正樹『日本の樹木』
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
東京の樹木
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
湯本貴和『熱帯雨林』
宮崎の照葉樹林
オオタニワタリ
科学映像館の熱帯林の映像
森林=炭素の蓄積、伐採=?


館野正樹『日本の樹木』

2014-11-11 23:12:34 | 環境・自然

館野正樹『日本の樹木』(ちくま新書、2014年)を読む。

ミニ樹木事典的なものかと思ったら、そうではなかった。それぞれの樹木は話のきっかけであり、なぜその樹木がそこにいるのかについての解釈やメカニズムが、ぎっしりと詰め込まれているのだ。針葉樹と広葉樹、常緑樹と落葉樹は、どのような得意分野を持っており、その結果、どう生き延びてきたのか。樹木と菌とはどのように共生しているのか。樹木の一生の長さはどのように決まってくるのか。・・・など、など。

たとえば、樹木の水分。極度に寒いときには、樹木は、細胞の中に糖などをため込み、さらに、細胞外で凍結した氷が細胞内の水を吸い出し、その結果どろどろになった水分はなかなか凍らない。逆に、そうでないときには、根の細胞が内部の管に糖などを放出し、それにより管内の浸透圧が高まり、土から水を吸い上げていく。つまり、樹木が自分の内部に糖などを放出しても、状況によって、水は出たり入ったりとまったく逆の動きをする。

ああ、なるほどねと思わされてしまう話ばかりである。これは面白い。まるで語りの芸。

●参照
園池公毅『光合成とはなにか』
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
只木良也『新版・森と人間の文化史』
東京の樹木
そこにいるべき樹木
湯本貴和『熱帯雨林』
宮崎の照葉樹林
オオタニワタリ
科学映像館の熱帯林の映像
森林=炭素の蓄積、伐採=?


ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』

2014-11-03 19:13:34 | 環境・自然

ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『The Collapse of Western Civilization』(Columbia University Press、2014年)を読む。

ナオミ・オレスケス(ハーヴァード大)とエリック・M・コンウェイ(カルテク)は、『世界を騙しつづける科学者たち』(原題『Merchants of Doubt』=『懐疑論の商売人』)を書いたコンビである。そこには、タバコの健康影響、酸性雨、オゾン層破壊、地球温暖化、化学物質の環境影響といった分野において、いかに米国政府と巨大産業とが「結婚」を行い、一部の御用学者と利用しあう形で、ほんらいの危機に懐疑論をぶつけることによって対策を阻害してきたかが書かれている。本質的に相手にするに値しないような懐疑論であっても、メディアはまるで「論争」があるかのように取り扱い、また、懐疑論をぶつけたい側は、両論があることを盾にしてきた。日本でも、科学の「ためにする」懐疑論や、歴史修正主義の懐疑論は、まさに同じように利用されている。

本書は、『世界を―』に続き、その小説版として書かれたものだ。曰く、SF小説は将来を想像し、歴史家は過去を辿る。それに対し、本書は、科学的な知見に基づき、将来のある時点から過去を辿ったものである。

21世紀末。既に気候変動に伴う海水面上昇によって、オランダ、バングラデシュ、ニューヨーク、フロリダなどの低地は水没し、大規模な移住や都市機能の移転がなされていた。対策は可能ではあったが、コスト上の判断により、その地を棄てることが選択された。すなわち、犠牲になるのは常に低所得者であった。そのために、アメリカとカナダは合併し、北欧も大きな国家となっていた。

確かに、ヨーロッパ中世のペスト大流行など、過去にも大災厄はあった。しかし、それらとの違いは、「わかっていた」にも関わらず、有効な対策が講じられなかったことなのだった。直接的な要因は、科学の縦割り、科学が「確実に実証できること」ばかりを対象としてきたこと、利益を追求する巨大産業やそれと結託した為政者たちの行動(なんと、科学者たちの行動を抑圧するための法制度さえ出来てしまうのだ)、市場経済市場主義の失敗といったところ。

市場経済の失敗という点で、著者は、ハイエクやフリードマンといった経済学者について言及している。かれらさえも、新自由主義やリバタリアニズムの権化とばかりは言えず、政府の介入の必要性を認めていたのだという。ノーム・チョムスキーも同様の指摘をしていた(「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」)。アダム・スミスは新自由主義のドクトリンのように扱われているが、実は、その本質は異なるものである。有名な「見えざる手」という表現もまれにしか出てこないのであり、しかもそれは、平等な配分を説くために使っているのである。スミスの言説は、新自由主義の都合のよいように変えられてしまっている、と。

ただ、『世界を―』と同様に、政府のあるべき介入を環境経済という形で解決しようとする考えについては、言及を避けているような印象がある。また、望ましい形の政府の介入として、中国政府が再生可能エネルギーに対して行っていることを称揚している点については、少なからず違和感を覚えた。それによって、中国以外の国の行動を歪め阻害する面があることも無視できないはずである。

いずれにしても、極めて真っ当で興味深い本である。そんなに長くもないので、ぜひご一読を。・・・といっても、アル・ゴア『不都合な真実』と同じように、シニカルな言説のなかに取り込まれてしまうかもしれないと思うと、ちょっとゲンナリしてしまうのではあるが。

●参照
ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』


ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』

2014-10-10 00:46:25 | 環境・自然

ハノイへの行き帰りに、ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』(上・下)(楽工社、原著2010年)を読む。

原題は『Merchants of Doubt』であるから、『懐疑論の商売人』とでもいったところ。邦題は、どのような科学者が「世界を騙す」のか曖昧になっており、直訳の方が良いものだったかもしれない。「懐疑論」とは、決して知的で正当な議論から出てくるものではなく、一部の権力にとって好ましくない事実に向けられたものであることが多く、また、歴史修正主義とも共通する面があることからも、そのような観点で視なければならない言説が多くなってきているからだ。

本書には、何人かのキーとなる(元)科学者たちが登場する。何人かは、原爆の開発に従事していた。かれらは冷戦の申し子であった。すなわち、アメリカ陣営・資本主義陣営を是とし、そのための軍事開発に賛成・参加し、ホワイトハウス、右派的な色がついたシンクタンク、利益を守りたい産業界の資金によって活動を行い続けた。かれらにとってみれば、環境保護とは「赤い根を持つ緑色」に他ならないのだった。

かれらのターゲットとしては、タバコの健康影響、酸性雨、オゾン層破壊、地球温暖化、化学物質の環境影響などが選ばれてきた。それぞれ、科学的な手続きによる成果の積み重ねによって、仮説から、対策を講じなければならぬ問題へと移り変わってきたテーマばかりである。ところが、懐疑論者たちは、その手続きと成果とを意図的にねじ曲げ、プロパガンダを繰り広げた。これが如何にデタラメかつ悪質なものであったかを、本書は、執拗なほどに検証している。

メディアが、科学的知見そのものにではなく、安っぽい人間ドラマや、争いといったものに飛びつくことは、日本でも欧米でも変わらない現象のようだ。懐疑論者は数としては圧倒的に少なく、また、言説も劣っているにも関わらず、「論争」が仕立て上げられることによって(たとえ非論理的な悪罵のたぐいであっても)、メディアは両者の主張を「バランス」を取って報道し、市民はそれを信じてしまう。まさに懐疑論者の自作自演のようなものだ。

残念ながら、この手法は科学だけではない分野でよく採用されている。たとえば、沖縄の「集団自決」を歴史修正主義者たちが攻撃したとき、この史実は、歴史教科書から、それが「両論ある」という理屈によって消し去ろうとされたことがあった。なお、「大江・岩波裁判」については、最高裁における歴史修正主義者の敗訴という形で決着が着いている。しかし、歴史修正主義者たちにとってみれば、騒動を起こすだけで「半分目的を果たした」のだった。

著者は、環境問題への懐疑論者はすなわちリバタリアンであり、資本主義の失敗を決して認めない者たちだとみなしているようだ。しかし、これには少々無理がありそうに思える。環境経済の手法は、負の外部性を経済に取り込もうとするものでもあるが、そのためか、そういったものに対する著者の評価はやや曖昧になっているように読める。たとえば、酸性化の原因となった硫黄酸化物・窒素酸化物を対象とした「キャップ・アンド・トレード」が、政策として成功であったのかどうかについては、本書では、揺れ動いて定まっていない。

アメリカにおける地球温暖化に対する懐疑論は、本書で示される文脈に沿って読まれるべきものだが(ノーム・チョムスキーもそのことを繰り返し指摘している)、日本においては、それが奇妙にねじれている。日本の温暖化政策が原子力推進とセットで進められてきたために、陰謀論好きな一部のリベラルたちによって、懐疑論が投げかけられてしまった。すなわち、日米の懐疑論者が右と左とに分かれてしまうという奇妙な現象である。もっとも、両者ともに非論理・非科学の沼にはまっていることは共通しているようだ。

膨大な取材と検証に基づく力作である。推薦。

●参照
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』


市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方』

2014-09-17 23:58:46 | 環境・自然

市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方 海の歌姫を追いかけて』(岩波書店、2014年)を読む。

著者はジュゴンの研究者。日本には沖縄に極めて限られた数のジュゴンが棲息しているだけなので(+鳥羽水族館)、タイやオーストラリアといったジュゴンが多い地帯にフィールドワークに出ており、その研究成果を本書で紹介してくれている。(なお、沖縄には、辺野古近辺に父親が、反対の西側の古宇利島近辺に母親と子供が棲んでおり、その子供が西と東を行き来しているのだという。)

これが、自虐的な書きぶりも相まって、滅法面白い。何でも、ジュゴンは、夜明け前に、えさ場(海草)の外でのみ鳴き、その鳴き声は、短い「ぴよぴよ」の後に長い「ぴーよ」が付け足されるらしい。著者は、「ぴよぴよ」が注意喚起で、「ぴーよ」が仲間に伝えたいメッセージだと推測している。なるほど、ロマンチックな話である。

しかし、声のデータ採取は実に大変なもののようで、しかも、テッポウエビがつめを叩いて出すノイズの中から抽出するのだという。大変なのは声データだけではない。泳ぐジュゴンの横に舟をつけて複数名で飛び込み、ダメージを与えないよう捕獲し、データ取りをするというやり方も紹介されている。「好きこそ・・・」とはこのことだ。わたしなど生まれ変わってもジュゴン研究者にはなれまい。

本書には、「ジュゴン食い」についても言及されている。実際に、オーストラリアの一部ではいまも食べることがあるというし、辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫)には、フィリピンでも最近までジュゴンを食べていたとある。柳田國男も、「肉ありその色は朱のごとく美味なり、仁羹(にんかん、人魚の肉)と名づく」と書いており、南方熊楠は「千六六八年、コリン著『非列賓(フィリピン)島宣教志』八○頁に、人魚の肉食うべく、その骨も歯も金瘡(切り傷)に神効あり、とあり」と書いている。また、八重山の新城島(あらぐすくじま)には、食べた後のジュゴンの骨を祀る「七門(ナナゾ)御嶽」があり、琉球王朝に献上していたジュゴンの干肉も残されている。(テレビ朝日『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』、2007年) 沖縄本島でも、昔は「獲れてしまった」ジュゴンを食べていたよという話を聞いたことがある。

もちろん、ここで著者が食べたというジュゴンは、漁網にかかって死んでしまった後であり、そのことに問題はまったくない。むしろ、食べた結果、硬くて獣臭かったということには、読んでいて少しがっかりさせられた。

ところで、わたしは米軍基地の新設にも、環境アセスを真っ当に行わなかったことも、もちろん稀少なジュゴンの生態系を脅かすことにも、反対する。しかし、それが、基地に反対する手段としてのジュゴンの利用と感じられるときには、首をかしげてしまう。まずはジュゴンについて知るべし。わたしのような素人にはとても興味深く面白い本である。

●参照
池田和子『ジュゴン』
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ(2009年)
ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ(2006年)
『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』(沖縄本島、宮古、八重山におけるジュゴン伝承を紹介)
澁澤龍彦『高丘親王航海記』(ジュゴンが「儒艮」として登場)
タイ湾、どこかにジュゴンが?
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘