Sightsong

自縄自縛日記

黒沢大陸『「地震予知」の幻想』

2014-08-15 22:31:45 | 環境・自然

黒沢大陸『「地震予知」の幻想 地震学者たちが語る反省と限界』(新潮社、2014年)を読む。

「朝日新聞」における編集委員の連載をもとにしたものだけに、一方的な物言いは回避されていてバランスが取れているが、その分、総花的で主張が見えにくい印象。興味深いエピソードは多いし、わたしも「一丁目一番地」たる地震研究所に修士時代に在籍したので、ここで紹介されている雰囲気の半分は理解できる。

阪神淡路大震災や東日本大震災などの大地震を経て、今では、「地震予知」が不可能であることが周知の事実となった。しかし、いまだに、「○○に大地震が起きる可能性がうんぬん」といった煽り記事が絶えないのは、かつての「予知」への期待の根深さを示すものだろう。

日本の地震対策は、1976年に、石橋克彦氏(当時、東大理学部助手)が「東海地震説」を発表したことにより、歪なものと化していく。あまりにも反響が大きかったのである。そのときから現在までの40年弱の間に、東海地震なるものは起きていない。もちろん、結果論であり、今では、駿河トラフからさらに四国・九州沖まで連なる南海トラフでの大地震の可能性があるものと想定されている。

問題は、ここだけにターゲットが絞られ、多くの予算が「予知」の幻想とともに投入されたことであった。そして、大地震は、駿河トラフでも南海トラフでもない、また活断層として危険視されてきた場所でもないところばかりで起きた。すなわち、「大地震はいつどこで起きるかわからない」ということが、現在の正しい言い方であろうと思われる。(これも結果論である。)

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
石橋克彦『南海トラフ巨大地震』
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』


ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』

2014-07-18 07:37:46 | 環境・自然

ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』(花伝社、原著2013年)を読む。

『Nuclear War and Environmental Catastrophe』の邦訳であり、こうして日本語で再読すると、またさまざまな発見がある。良書であり、ぜひご一読されたい。

もっとも強く印象付けられる点は、アメリカの政策を駆動してきたのは、イデオロギーや宗教だけではないということだ。化石燃料、医薬品、軍事といった分野の強力な諸企業のオカネと意向によって、政策は偏った歪なものとなっている。それを新自由主義と呼ぶべきかどうか明確でないが、チョムスキーによって示されているのは、少なくとも、「民間がオカネのみによってほんらい公共であるべき分野まで荒らしてしまう」という意味での市場主義ですらない。

ここで提示されている環境問題のなかには、中東での劣化ウラン弾使用、ベトナム戦争時の枯葉剤使用、ミクロネシアでの水爆実験など、過去から現在にかけてアメリカが行ってきた戦争犯罪がある。チョムスキーは、これらを、結果を認識したうえでの(あるいは結果がどうなろうと構わないという前提での)意図的なものであったと説く。相手は、自分自身と同列の存在ではないのである。このことは、民間の犠牲者がどれだけ出ようとも「コラテラル・ダメージ」として位置付けるあり方につながっている。

気候変動問題については、諸企業によるバックアップのもとで、共和党の議員たちがとんでもない懐疑派になってしまっている現状を示している。この、科学からはかけはなれた気候変動懐疑論は、アメリカにおいては右派によって扇動されているが、一方、日本においては、逆に、リベラルとみなされることの多い層によって口にされることが多い(本書でもそのことを指摘してほしかった)。前者は利権の保護。後者は、これまで気候変動対策が原子力とセットとして進められてきたことへの反発や、くだらぬ陰謀論が幅をきかせていることと無縁ではない。そういった一部の論客たちは、チョムスキーが本書や、2013年の上智大学での講演において明確に述べ、また、エイミー・グッドマンらも気候変動対策を訴えてきた(本書の補遺に収録)にも関わらず、チョムスキーやグッドマンの一部の主張についてのみ奉るように引用し、気候変動懐疑論(くだらぬ陰謀論)を否定されてしまう箇所については触れないのである。奇妙なことだ。 

●参照(本書での引用を含む)
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』
シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』


ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』

2014-07-06 00:17:04 | 環境・自然

アメリカへの行き帰りに、ジェームズ・ラブロック『A Rough Ride to the Future』(Allen Lane、2014年)を読む。

著者は「ガイア仮説」の提唱で有名な存在である。地球上の生命と環境とをひとつの生命体のように捉えるヴィジョナリーな説であり、わたしも、大学生になって読んだ『地球生命圏』(1979年)にずいぶん感銘を受けたものである(そのせいで、地球物理の勉強をすることになってしまった)。

前半は、主に、科学者たることについての文章。いまや、誰もが専門馬鹿であり、科学全般を鳥瞰するどころか、他分野のことがまるでわからない人ばかりになってしまっている状況を懸念している(仕方がないのだろうが)。著者が理想とする科学者の姿は、ジェネラリストであり、また、職人でもある。実際に、かつての科学者は実験器具のコンセプトも製作も自分でこなしたのであり、高価格・高性能の機器を買って使うのでは、その問題点に気づかないのだと指摘する。

現在は、大学や大企業などの組織に所属しないと論文さえ受理されにくく、それにより研究のバイアスがかかってしまうことの問題点があるという。それはそれとして、著者のように、個人として研究費を取得することがどれだけ可能なのだろうか。また、その空論は置いておいても、「ピアレビュー」をダメなシステムだとする指摘には、首をかしげざるをえない。たとえば、STAP問題については、組織所属の問題点と、ピアレビューがシステムとして機能していなかった問題点の両方があるわけである。

後半は、気候変動問題や、今後の科学技術のあり方についての論考。よく知られているように、ごく短期的にみれば、地球温暖化のトレンドはフラットにみえる。このことが、くだらぬ懐疑派(denier)たちの跋扈を生んでいるわけだが、著者自身は、かつてはそれと対照的な信仰派(believer)であった。何を信仰していたのかといえば、CO2の増加がごく近い将来にカタストロフを生むという数値計算によるシナリオを、である。

著者は、数値計算に重きを置きすぎていたと率直に誤りを認め、反省している。ここは高く評価すべきところだが、信仰派から懐疑派へと極端な動きをするのではなく、数値計算の限界をこそ再認識したのであった。予測の誤りとしては、他のガスの存在の他に、海流の挙動があったことを挙げている。こうしてみれば、著者自身が、大気と海とが独立せず動く自己制御型のシステム(self-regulating system)たる「ガイア仮説」を自ら再認識したことになる。もちろん、著者が強調するように、気候変動は中長期的な現象であり、短期的なトレンドで論じることは妥当ではない。

懐疑派と信仰派との構図は、日本と欧米とではずいぶん異なる。欧米では、本書でも書かれているように、左翼=信仰、右翼=懐疑であり(単純化しているが)、この背景には、さまざまな利権があることが、ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(『複雑化する世界、 単純化する欲望―核戦争と破滅に向かう環境世界』という邦題で、2014/7/10に花伝社より刊行)においても痛烈な批判とともに指摘されている。日本においてはその逆であり、そこには、原子力推進とセットとしてCO2削減政策が進められてきたことと、それを否とするリベラルの反応がある。しかし、科学をベースとせず、くだらぬ陰謀論にとらわれていると言わざるを得ない。

このように、著者は、信仰派、懐疑派のいずれか極端な主張をしてしまう愚を説いているわけだが、それは、残念ながら、著者自身についても当てはまってしまう点がある。

ひとつは、原子力への変わらぬ信仰ぶりである(福島では誰も原発事故で死ななかったという、どこかで聞いたような主張を、著者もしてしまっている)。もうひとつは、今後の人間社会は、都市を基盤として、外は過酷な気候であっても建物のなかでは快適に生活できるシンガポール型を指向すべきだという単純思考である。生活も、文化も、食糧も、機能で割り切ることができるようなものではない。もっとも、これは、今後何億年単位での「ガイア」を考える著者ならではのヴィジョナリーな構想によるものかもしれない。

●参照
多田隆治『気候変動を理学する』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
ダニエル・ヤーギン『探求』


山岡淳一郎『インフラの呪縛』

2014-04-27 08:45:04 | 環境・自然

山岡淳一郎『インフラの呪縛 ―公共事業はなぜ迷走するのか』(ちくま新書、2014年)を読む。

土建国家、公共事業の暴走。それが、これまでの日本を表現するためにしばしば使われてきた言葉である。

本書には、それを裏付けるように、さまざまな事例が紹介されている。佐久間ダム九頭竜ダム八ッ場ダムといった巨大ダムによる電力供給、治水・利水、環境破壊、地域破壊、不正。満州時代からの野望ともいえる高速道路の建設。本州四国連絡橋の誘致合戦。国鉄の肥大化。

インフラ整備の過程は、需要との整合性がはっきりせず、事業性や効率よりもはるかに政治的合意のほうが重視され、それだからこそ、非民主的で、不透明であった(である)。

しかし、その一方で、本書は、公共事業への極端な批判を行き過ぎだとする。そして、必要なことは、中長期的なインフラの姿というヴィジョンを掲げて国土整備し、産業や経済もそれによって活性化させることである、と。わたしも、そのことには賛成である。

それでは、どのようにインフラ整備の過程に関わる問題を解消するのか。それなしに「新たなヴィジョン」を示すだけでは、従来の問題構造が解消されるわけはない。(そうではないのだが、)本書のメッセージは、現実を必要悪として是認するように読まれてしまうのではないか。

●参照
熊井啓『黒部の太陽』
姫野雅義『第十堰日誌』 吉野川可動堰阻止の記録
『八ッ場 長すぎる翻弄』
八ッ場ダムのオカネ(2) 『SPA!』の特集
八ッ場ダムのオカネ
ダムの映像(2) 黒部ダム
ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム
天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集

 


長沼毅、井田茂『地球外生命』

2014-04-22 07:43:38 | 環境・自然

長沼毅、井田茂『地球外生命 われわれは孤独か』(岩波新書、2014年)を読む。

どのような条件下で、生命が誕生し(約40億年前)、存在しているのか。わたしの知識はずいぶん前の聞きかじりに過ぎない。本書を読むと、科学的な知見やデータが吃驚するくらい蓄積されていることがわかる。

生命の誕生については、長年、「原始スープ説」が主流であった。有機物が多い海の中で、電気などのショックにより、長く結合していったという説である。これに加え、深海の熱水近くで、鉱物の表面で有機物が反応したという「原始クレープ説」、火星で発生した生命が隕石に付着してやってきた「火星起源説」、彗星(実は有機物に富んでいる)の上で太陽にあぶられて反応が進んだという「彗星起源説」といったさまざまな説が提唱されている。根拠なき話ではない。

生命が、高度な生物に進化していくためには、陸域の存在、酸素の大量発生が重要なファクターであるという。そのため、海のある惑星において、仮に生命が存在していたとしても、なかなか知性が生まれるには至っていないのではないか、とする。いまの段階では、地球が如何に奇跡的な環境にあったのかを示すものだといえる。

もちろん、生命の存在自体が、科学史における最大級の発見となる。しかも、候補は冗談のように多く、夢物語ではないようだ。この分野の伸びしろはとても大きいのだということが、実感できる本である。


石橋克彦『南海トラフ巨大地震』

2014-04-09 01:06:48 | 環境・自然

石橋克彦『南海トラフ巨大地震 歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年)を読む。

伊豆半島の西側にある湾・駿河トラフは、沖合で西南西に向きを変え、九州南端の東沖まで連なる南海トラフとなっている。フィリピン海プレートが、日本の陸地化に潜り込むところである。ここで、プレート間の地震のみならず、他のタイプの地震も多く起きてきた。従って、著者が昔から警告し続けているように、今後近い将来に大地震が起きる可能性は高いというべきなのだろう。

確かに、本書において、地面の下に刻み込まれた記憶や古文書の記録から再現された、かつての南海トラフ巨大地震の具体的な姿を見せられると、ゾッとしないわけにはいかない(古い地震についても、いまでは、各地の震度や津波の高さまで再現できているのである)。震度7の場所も、津波の高さが10mや20mにもなる場所も、当然、あったわけだ。

ただ、ほぼ同じ期間の周期をもって大地震が起きるという説は科学的に立証されたわけではないし、著者も、それをあくまでも作業仮説として扱っているように思われる。大地震は、さまざまな要因が連関しあって起きる現象であり、また、このような大規模なトラフや海溝でのみ起きるわけでもない。

また、活断層にのみ注目することも危険である。活断層とは、地表で確認できた断層を呼ぶものにすぎず、阪神淡路大震災も、その意味では想定外であったわけである。従って、原発再稼働に際して活断層の判断にばかり論点が集中することは、明らかに、危険評価の矮小化であるということができる。

本書のメッセージは、南海トラフで巨大地震が起きる可能性は低くないものの、それがいつになるか、確度の高い予測はまず不可能だということだ。南海トラフの前に、他の場所で巨大地震が起きる可能性だって、同程度に高い。それが「想定外」であったとき、まさに著者が『原発震災』において予言し、不幸な結果を見た事態が、また起きないとは限らない。

すなわち、日本において、巨大地震はいつどこで起きるかわからない。従って、起きたときの対策を講じておくべきであるし、そのときには「想定外」がつきものであることが常識化されるべきでもある。(その意味では、本書のタイトルは、間違って解釈されるおそれがある。)

●参照
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』


小山堅・久谷一朗『台頭するアジアのエネルギー問題』、茅陽一・山地憲治・秋元圭吾『温暖化とエネルギー』

2014-03-30 22:55:32 | 環境・自然

小山堅・久谷一朗『台頭するアジアのエネルギー問題』(エネルギーフォーラム新書、2013年)、茅陽一・山地憲治・秋元圭吾『温暖化とエネルギー』(エネルギーフォーラム新書、2014年)を読む。

「脱原発」には、しばしば現実論が欠けており、感情論が先走る。政策立案・推進側には、従来、透明性が欠けており、議論の場を設定してこなかった事実がある。特に東日本大震災に伴う原発事故以降、両者の乖離は広がった。

この2冊が、それらの乖離を埋めるための即効薬になっているわけではない。そのようなものはない。読んでいて勉強になった点も、強く異論を唱えたい点も多いが、至極真っ当な具体論である。くだらぬ環境陰謀論を読んで想定悪を見出す時間があるなら、こちらを。


園池公毅『光合成とはなにか』

2014-02-13 23:21:27 | 環境・自然

電子書籍で、園池公毅『光合成とはなにか 生命システムを支える力』(講談社ブルーバックス、2008年)を読む。

著者によれば、光合成の説明として、「植物が光によってデンプンなどを作る働き」とするのは小中学生レベルの答え、「植物が光によって水を分解して酸素を発生し、二酸化炭素を有機物に固定する反応」となれば高校生レベル、さらに「光によって環境中の物質から還元力を取り出し、その還元力とエネルギーによって二酸化炭素を有機物に固定する反応」が大学生レベル、そしてまたさらに先がある。実に奥深い世界なのである。

太陽光エネルギーを得る方法も、エネルギーやマテリアルのフローも、種や環境によってまったく異なり、一筋縄では捉えることができない。また、植物は単なる受け手ではなく、環境に応じて能動的に光合成のあり方を変えてみせる。もう不思議と言うほかはない。

そもそも、この世界の多様な植物はどのように進化してきたのか。27億年ほど前、好気性のシアノバクテリアが登場した。それは1回限りの出来事であったとしても、結果として生まれた光合成生物は、他の生物との共生を繰り返した。つまり、葉緑素をもつ生物が、他の生物と合体していったわけである。へええと簡単に済ませる話ではない。

また、地球環境と光合成は切っても切り離せない関係にあるわけだが、著者は、最近の気候変動についても、実に真っ当な見方を提供する。

しかし、今では、どうしようもない陰謀論や一見わかりやすい科学が、その低水準(たとえばこのようなもの)にも関わらず、社会に一定の影響力を持ち続けている。バカバカしい限りなのだが、どうすればいいのだろう。このような言説は、歴史修正主義のように、論破されても、論理とは関係ない隙間からまた生えてくる。

●参照
只木良也『新版・森と人間の文化史』
上田信『森と緑の中国史』
そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
東京の樹木
小田ひで次『ミヨリの森』3部作
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
森林=炭素の蓄積、伐採=?
宮崎の照葉樹林
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
多田隆治『気候変動を理学する』
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ダニエル・ヤーギン『探求』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
自著
『カーボン・ラッシュ』


佐藤正典『海をよみがえらせる』

2014-02-02 20:46:55 | 環境・自然

佐藤正典『海をよみがえらせる 諫早湾の再生から考える』(岩波ブックレット、2014年)を読む。

有明海・諫早湾の奥に建設された堤防が完成した1997年から、もうすぐ14年が経つ。必要性や環境破壊の観点から異議が申し立てられようとも、日本型公共事業の典型として、止まることがなかった。

干拓地は農地化され、堤防と干拓地との間の調整池は、予想された通り、水質が悪化した。そのために、調整池の水は、農地には使われていない(調整池に注ぐ川の河口から取水されている)。調整池の外側でも水質が急激に悪化した。これも予想されたことである。

漁業者が裁判を起こし、佐賀地裁および福岡高裁は、漁業被害の原因との因果関係を認め、国に対し、堤防の5年間の開門を命じた(国は上告しなかったため判決確定)。その期限は2013年12月20日であったにも関わらず、2014年2月2日現在、いまだ国は開門調査を実施していない。

一方、干拓地の営農者は、国に対する開門差し止めの訴えを起こし、長崎地裁は、差し止めを命じる決定を下した(2013年11月)。長崎県も開門に反対の立場である。これに対し農水省は異議を申し立てた。もはや泥仕合そのものだ。

本書に書かれているように、漁業汚染が発生することが予想されていたにも関わらず事業が強行された結果、漁業者も営農者も被害者になってしまったのだろう。

営農者は、いまでも調整池から取水していないとは言え、開門されれば、河口部からの取水も不可能になるという。本書にも、営農者にとっての新たな被害対策をどうすべきかについては述べられていない。おそらく、答えとなるべき手段は国による補償か。

本書によれば、開門して海水を調整池に流入させ、水の行き来をつくりだせば、かなりの環境復元を見込むことができる。既に、三重県英虞湾において、遊休地となった干拓地を干潟に戻す再生が、良い結果を出しているという。カチカチの堤防がなくても、自然再生によりあらわれる干潟やヨシ原が「緩衝地帯」となり、防災対策にもなる。そのような形の再生事業をすすめていくべきだとする主張には、説得力がある。

●参照
『科学』の有明海特集
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)


橘川武郎『日本のエネルギー問題』

2014-01-28 23:08:40 | 環境・自然

橘川武郎『日本のエネルギー問題』(NTT出版、2013年)を読む。

著者は、「リアルでポジティブな原発のたたみ方」を説く。文字通り、現実の分析に立脚した建設的な議論である。

もちろん、これは提言であり、万人にとっての正解ではありえない。しかし、1か0かの極端な感情論や無根拠な妥協からはまともな未来は生まれないのであって、その意味で、このような真っ当な議論を踏まえておくことはとても有益である。

スタンスや立場の違いを超えて推薦。わたしが手掛けた仕事にも言及があった。


福島原発の宣伝映画(2)『目でみる福島第一原子力発電所』

2013-12-28 15:52:41 | 環境・自然

福島第一原子力発電所の宣伝映画『目でみる福島第一原子力発電所』(企画:東京電力、1991年)が、科学映像館により配信されている。やはり同じ目的で製作された『黎明』(1967年)、『福島の原子力』(1985年)に続くものである(>> リンク)。

まずは伸びるエネルギー需要への対応が必要なことを述べたあとに、福島県浜通りが地盤も気候条件も最適であることが紹介される。そして、GE社とのターン・キー契約(運転開始までメーカーが責任を負う)により、30mの断崖を掘り下げて設備を建設したのだと続ける。

たしかに、これだけを見ていたのでは、違和感を覚えないだろう。しかしながら、「3・11」の事故のあと、まさにこのターン・キー契約のために個別のコスト削減の交渉が難しいことが、「折角の高い地盤を掘り下げる」という方法になったことがわかっている(NHK・ETV特集『シリーズ原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論』、2011/9/18)(>> リンク)。すなわち、冷却水を30mまで持ち上げることはコストアップになり、パッケージのターン・キーでは改善が難しいという事情であった。その観点から、GE社との打ち合わせや、掘り下げる土木工事や、キーそのものの映像を観ることには辛いものがある。

そして、原子力発電の仕組みと安全性について、繰り返し説明がなされる。

立地・建設のプロセスを問題とする視点もあったし、放射性廃棄物の処理の問題も取り上げられていた。しかし、技術的な安全性については、多くの人が信じていたのである。もっとも、その一方では、石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』(『科学』誌、1997/10)(>> リンク)のように、事故を予見したかのような適確な問題提起もあった。

ここでは、設備は故障し、人間はミスをするものだという観点から、何かの異常が起きた際には、「止める」、「冷やす」、「閉じ込める」を徹底するのだと紹介している。実際のところ、「止める」ことも、「冷やす」ことも、「閉じ込める」こともできなかった。

もうすぐ事故から3年が経とうとしている。

>> 『目でみる福島第一原子力発電所』(科学映像館)

●参照(原子力)
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
『これでいいのか福島原発事故報道』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
前田哲男『フクシマと沖縄』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
『neoneo』の原発と小川紳介特集
『"核のゴミ"はどこへ~検証・使用済み核燃料~』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
大島堅一『原発のコスト』
小野善康『エネルギー転換の経済効果』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
黒木和雄『原子力戦争』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』
纐纈あや『祝の島』

科学映像館が公開する映像の数々


佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』

2013-10-27 08:23:17 | 環境・自然

佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』(玉川大学出版部、2013年)を読む。

東アジア、東南アジア、南アジア、どこでも田んぼを目にする。長い間、人の手が入った自然である。コメやコメ料理が場所によって大きく異なるように、田んぼも土地それぞれの顔を持っている。

本書は、コメ作りのみならず、野生のイネについての研究までも紹介している。その野生イネもさまざまで、タネをつけないものもあった。それが、中国・長江流域(6千年前だという)やインド・ガンジス川流域から意図的な稲作が拡がっていき、収穫効率の良いタイプへと選択的にシフトしていくことになる。たとえば、背が高いものよりも低いものの方が、また、穂が自然に落ちるものより落ちないものの方が、収穫効率がよい。また、赤米から突然変異で生まれた白米が選択され、主流となった。

東南アジアの近代農法が普及していない地域では、農法だけでなく、コメのタイプにも古いものがまだある。しかし、近代的・画一的にすることが良いばかりではない。昭和の不作・飢饉は、そのような画一化により総倒れになったことが理由だという。東南アジアにおいて、たとえば頻繁に村々の間で種を交換したり、同じ田んぼでも多種多様なコメを栽培したり、といったことが行われ、収穫できないリスクを回避している。しかし、収穫効率を追求する近代農法ではそれは否定される。また、単一でないコメは流通させることができない。まさに、近代の陥穽というべきである。

本書ではじめて知ったものに、プラント・オパールというものがある。コメは珪素を取り込み、それはガラス体となり、焼かれたり分解したりしても残る。つまり、遺跡で出土されるプラント・オパールの分析が、当時の稲作を探る手掛かりとなるわけである。

それを含め、本書では、分析やフィールドワークの方法を紹介している。何でも、アジアのフィールドワークにおいて、自動車を止めることなく野生イネを見出す能力さえも要求される現場だという。別に稲穂が垂れているわけでもなく、ただの貧相なる草である。他にも、調査場所でのご飯の食べ方のコツなど、研究者の生の声がいちいち面白い。科学を人間の仕事として見せてくれている。


ベトナム・サパの棚田とトウモロコシ(2012年6月)


ベトナム・サパの棚田(2012年6月)

●参照
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
2012年6月、サパ(本書にも登場する場所)


『Megaquake III 巨大地震』続編

2013-09-01 22:56:00 | 環境・自然

NHKで放送された『Megaquake III 巨大地震』(2013/8/31, 9/1)。

前回放送(2013/4/7, 14)(>> リンク)の続編たる第3回と第4回であり、それぞれ「よみがえる関東大震災~首都壊滅・90年目の警告~」、「南海トラフ 見え始めた”予兆”」と題されている(>> リンク)。


番組のポストカード

関東大震災は1923年9月1日、つまり、ちょうど90年前に発生した。

震源地は相模湾から房総半島南部までの広い範囲に及んだ。フィリピン海プレートの沈み込みに伴い蓄積されたエネルギーが解放されたものであり、典型的なプレート境界型地震であるとともに、都市直下型地震でもあった。

当時の地震計の記録を用いた最新の研究によると、このとき、震度7以上の揺れとなった地域は、神奈川から南房総まで広範囲にわたり、実に阪神・淡路大震災の20倍の面積であった。

死者・行方不明者は10万人超、その9割は火災により亡くなっている。しかも、その3分の1は、墨田区の横網町公園において、「火災旋風」という現象によって、である。多方面で発生する火災が、煙と炎を伴う恐るべき竜巻を起こし、人びとを巻き上げ呑み込んだというのである。

90年という時間をどうとらえるべきか。館山に、過去の大震災による隆起の跡が残されており、それによれば、大震災の間隔は短くても200年であった。しかし、さらにボーリング調査を行うと、地表で視える隆起だけでは大震災の歴史を捉えきれていなかったことがわかってきたという。また、南房総から東のエリアは、関東大震災でもエネルギーが解放されておらず、かなりのエネルギーが蓄積され、解放されるのを待っているという。すなわち、やはり、いつ次の首都直下型地震が起きてもおかしくはない。

但し、こういった研究は、いわゆる「予知」ではない。可能性が高まっていることは推測できても、いつそれが起きるか、本当に起きるのか、については、予測できないわけである。GPSを用いた精緻な測地によって、今後、「予兆」を捉えることができるのかについては、まだ言うことができる者はいない。番組は、そのあたりを、意図的に曖昧にしているように思えた。

第4回では、「スロー・クエイク」(NHK用語?)に焦点を当てている。東日本大震災でも、発生の1か月以上前から起きていたという、地震計にしか捉えられない微細な「遅い地震」。これが、プレート境界に蓄積したエネルギーをじわじわと解放し(その点だけで言えば、大地震でないために良い現象なのだが)、それが、プレート境界の固着エリアたる「アスペリティ」の断裂を促進したとする。

南海トラフでも、通常の地震源を取り囲むようなエリアにおいて、「スロー・クエイク」が起き続けている。これと、GPSによる精緻な測地情報とを組み合わせて、何とか大地震発生の「予兆」が捉えようとされている。

しかし、同様に「スロー・クエイク」異常発生が観測され警戒されていた北米西岸では、突然それが消え、大地震にはつながらなかった。すなわち、こういった考えも、まだ模索段階にすぎず、「予知」には至らない。

番組の最後では、「叡智を結集して、云々」と空虚なことばが並べたてられていた。メカニズムの研究と「予知」との距離はまだまだ遠く、現在の時間的・地理的解像度では、いつ何どき大地震が起きても何とかなるような対策を講じるべきである。

●参照
『Megaquake III 巨大地震』
『The Next Megaquake 巨大地震』
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


多田隆治『気候変動を理学する』

2013-07-16 08:00:00 | 環境・自然

多田隆治『気候変動を理学する 古気候学が変える地球環境観』(みすず書房、2013年)を読む。

一般向けの「環境サイエンスカフェ」における講演をもとにしているだけに、みすず書房には珍しくやわらかい作り。しかし、内容は「ガチンコ」である。それも当然のこと、何しろ相手は地球なのだから。

ここで示されるのは、気候という極めて複雑なシステムが、深堀していくと実に面白いメカニズムを持っていることだ。太陽との関係、ミランコビッチ・サイクル、海という巨大なバッファーの挙動、氷期と間氷期、プレートテクトニクスと気候との関係、正と負のフィードバック。かつて、全地球凍結(スノーボール・アース)という時期もあった。

太陽活動の変動や紫外線によるオゾン量の変化についても適切に評価されている。しかし、気候変動の大きな媒体となっていたのは、やはりCO2であった。

もちろん、気候変動は一様ではありえず、局所的な異常気象を含めてシステムの変動を考えなければならない。言うまでもないことだが、ここのところ異常に暑いだの寒いだのといった理由で地球温暖化を云々するものではないということだ。そうではなく、もっとも重要な機能を担ってきた媒体たるCO2が、かつてとは比べ物にならないほどの勢いで増加しているのだから、異常を引き起こさないわけがない。これはドグマではなく、まさに「理学」的な判断である。

かたや、温暖化は原子力ロビーの陰謀であるとか、氷が溶けても海面上昇は起こらないだとか、森林保全を行ってもCO2は減らないだとか、そのような陰謀論や言いがかりとでもいうべき言説に左右される日本社会の現状は情けない限りだ(テレビに出る人のいいおじさん風の「学者」や、「巨悪」を攻撃してきた「評論家」が言うことだからといって、鵜呑みにしてはならない)。

「・・・問題を極端に単純化して、断片的観察を拡大解釈して巧みに二者択一の問題にすり替えるような議論です。政治や巨額の研究費などが絡むと、こうしたエセ科学的議論が出てきて人心を惑わせます。そして、こうしたエセ科学が人類の地球環境問題への対応を大きく誤らせる危険性さえ含んでいるのです。これからの時代は、一般市民も、こうしたエセ科学的議論を見分ける目を養う必要があると私は考えています」

米国では様相が異なり、長年、温暖化に対する懐疑論が巣食っている。たとえば、それを告発するノーム・チョムスキーのテキストを読み、まずはそれらの言説の相対化を図ってみるべきだろう。

下らぬ陰謀論などは置いておくとして、本当に面白い良書。大推薦。 

●参照
小嶋稔+是永淳+チン-ズウ・イン『地球進化概論』
米本昌平『地球変動のポリティクス 温暖化という脅威』
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』
ダニエル・ヤーギン『探求』
吉田文和『グリーン・エコノミー』
『グリーン資本主義』、『グリーン・ニューディール』
自著
『カーボン・ラッシュ』
『カーター大統領の“ソーラーパネル”を追って』 30年以上前の「選ばれなかった道」
粟屋かよ子『破局 人類は生き残れるか』


坪井潤一『空飛ぶ漁師カワウとヒトとの上手な付き合い方』

2013-07-01 22:56:00 | 環境・自然

坪井潤一『空飛ぶ漁師カワウとヒトとの上手な付き合い方 ―被害の真相とその解決策を探る―』(成山堂書店、2013年)を読む。

旧江戸川で毎朝姿を見るカワウ。凝視していると、杭の上から滑空し、両足を揃えて着水、そして唐突にちゃぽんと潜る。魚を獲っているのである。本書によると、カワウが魚を発見する能力は大変なものがあるようで、どんなに透明度が低くても着実に捕える。

そのために、カワウは、漁民から時に害鳥扱いされる。せっかく放流したアユを食べられてしまっては、怒るのも当然である。しかし、著者によれば、その見方は極端にすぎる。むしろ、カワウの存在は「川の豊かさのバロメーター」なのであり、魚や人と共存すべき存在なのだという。逆に、埋め立てや河川改修といった水環境の悪化、汚染物質の蓄積などにより、1970年代には、絶滅寸前の存在であった。

また、水産被害といっても、単にオカネに換算した数字だけを見るべきではないとする。なぜなら、たとえば直接田畑を荒らす動物とは異なり、カワウは、人間と共有する魚類資源を食べる。共存であれば、カワウが食べた魚のオカネ換算は被害額とはいえない。

そのようなわけで、著者が強調するテーマは、「如何にカワウと共存するか」。銃で撃ったり、何かで脅したり、他の魚を放流してそれを食べさせたり。なお、対策のひとつとして試行された「カワウ食い」は、大失敗に終わっている。「信じられないくらいまずい」そうだ(笑)。

興味深いことに、カワウの糞を集めて肥料やリン資源としてリサイクルするアイデアが書かれている。リン資源はともかく、糞の利用は戦前への回帰であり、効率的に集めて取り出すという方法は面白い。何しろ、森を枯死させるほどの強烈な代物である。 

仕事は、このくらい楽しみながら展開していかなければならない。

映像
>> 川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(科学映像館)
>> 「カワウの大群(舞阪港にて)」 (本書で紹介)


2010年12月、旧江戸川

●参照
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(科学映像館の無料配信映画)
旧江戸川のゆりかもめ、カワウ(2010年12月)
旧江戸川のカワウ(2010年12月)
旧江戸川のゆりかもめ、カワウ、ドバト(2010年2月)