Sightsong

自縄自縛日記

石井美樹子『中世の食卓から』

2018-05-26 13:56:09 | ヨーロッパ

石井美樹子『中世の食卓から』(ちくま文庫、原著1991年)を読む。

軽いエッセイだが、中世ヨーロッパ人たちが何を食べていたのかについてあれこれと書いてあり、想像すると愉しい。

スパイスがいかに重要で高価なものだったか、とか(だからこそカネモチは使わなければいけなかった)。蜜にかわって砂糖が重用されて、そのために貴族が虫歯になることはステータスシンボルだった、とか。野菜なんて蔑視の対象だった、とか。かつてパリではみんな豚を飼っていて、それが禁止されて遠隔地から肉を運ばざるを得ず、鮮度が落ち、肉団子料理が発達した、とか。

それから、キリスト教の四旬節では肉を決して食べてはならず、その代わりに、ニシンばかり食べていてみんな見るのも嫌になった、とか。本書でもブリューゲル「謝肉祭と四旬節の喧嘩」について書かれているが、この絵の下の方で樽に乗って肉を喰らわんとしている人は、つまり、生命力というか食べ物への執念というか、そういうものを爆発させていたわけである。

そういえばニシンそばを食べたくなった。わたしはそんなにニシンを食べていないのでまだ嫌ではない。


The Art of Escapism『Havet』

2018-05-24 19:42:49 | ヨーロッパ

The Art of Escapism『Havet』(fortune、2016-17年)を聴く。

Ania Rybacka (vo, effects)
Lo Ersare (vo, effects)

「The Art of Escapism」はデンマーク在住の女性ふたりによる即興ヴォーカルデュオである。

ヨーロッパ人の声を耳に入れたいという理由だけなのだが、想像以上に幅広く、身体の内部を撫でられている感じを受ける。朗々と昔からの歌を詠むようなところもあり、また、喉歌の倍音も、コーラスにより厚みを付けたところもある。

2曲目の「Think Think Think」では、「ever」だとか「my skin」だとか言ったような「近くの言葉」とともに、「think」が重なり収斂してゆく。音声だけではなく、何かの意味を持って使われてきた言葉の力はあるものだ。仮にこれが英語でなく理解できぬ言語であっても同じに違いない。

また、東欧のバブーシュキ『Vesna』マリア・ポミアノウスカ『The Voice of Suka』でも感じたことだが、声を発したときの響きはアイヌのマレウレウを聴くときと驚いてしまうほど同じ感覚を持つMAREWREW, IKABE & OKI@錦糸公園マレウレウ『cikapuni』、『もっといて、ひっそりね。』


ミック・ジャクソン『否定と肯定』

2018-05-13 09:17:03 | ヨーロッパ

病院から抜け出してギンレイホールに行き、ミック・ジャクソン『否定と肯定』(2016年)を観る。

この映画は、1996年に起きた「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を基にしている。すなわち、ホロコーストは無かったとする歴史修正主義者のデイヴィッド・アーヴィングが、アメリカ人の歴史学者デボラ・リップシュタットとその著作を出していたペンギンブックスを名誉棄損だとして訴えた事件であり、日本でもマルコ・ポーロ事件が起きたばかりの頃であった。

なぜアーヴィングが英国法に準拠して訴訟を起こしたのか、それは、原告側ではなく被告側がその訴えの不当性を証明しなければならないからであったという(知らなかった)。世間へのアピールと両論併記化のため、歴史学の積み重ねを無視して、些細な穴だけの切り崩しによって全体の否定を狙い、著者と出版社をターゲットにするという点では、のちの大江・岩波沖縄戦裁判(2005-11年)にも似ているところがある。もちろんアーヴィングは敗訴するのだが、大江・岩波沖縄戦裁判がそうであったのと同様に、訴えを起こしたことで目的の半分は果たしたようなものであっただろう。

映画は、リップシュタットが良い弁護団を組成してもらい、はらはらしながらもアーヴィングの論理の穴を突いていくという展開であり、言ってみれば単純な勧善懲悪モノである。それでも、日本を含めた多くの歴史修正主義的な事例との共通点を含め、見どころはたくさんあった。

たとえば、体験者・受苦者に証言をさせるのかという点。かれらは記憶を忘却の彼方に追いやりたいという気持を持ち、またその記憶は自分の周辺に限られている。一方で、その記憶をウソだとして滅却しようとする動きに抗したいという強い気持ちもまた持っている。弁護団は、アーヴィングに攻撃する機会(要は格好の餌)を与えるべきではないとして、証言をさせない方針。結局はそれが奏功する。ただ、声なき声というサバルタン的・オーラルヒストリー的なものも重要な筈であって、そこに焦点を当てた画期的なものが、たとえば、クロード・ランズマン『ショアー』(1985年)や、クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001年)、『人生の引き渡し』(1999年)であった。

事件から20年が経ってこのような映画が作られるのだから、これから、大江・岩波沖縄戦裁判についての劇映画があってもよさそうなものだ。

●参照
芝健介『ホロコースト』
飯田道子『ナチスと映画』
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
ジャック・ゴールド『脱走戦線』ジャン・ルノワール『自由への闘い』
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
ニコラス・フンベルト『Wolfsgrub』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』
徐京植『ディアスポラ紀行』
徐京植のフクシマ
プリーモ・レーヴィ『休戦』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
クリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」@東京都庭園美術館
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」


ベン・ウィートリー『ハイ・ライズ』

2018-04-27 15:31:07 | ヨーロッパ

ベン・ウィートリー『ハイ・ライズ』(2015年)を観る。何しろJ・G・バラード作品の映画化であり観たかったのだが公開期間も短く逃してしまっていた。amazonのプライムビデオにあった。

閉ざされた世界のような高層マンション。セレブはもはやモラルなど持っておらず本能のはけ口を探している。この帝国で、ヒエラルキーがあるために乱痴気騒ぎと狂気と殺し合いが歯止めなく暴走する。

正直言ってどうも面白くない。バラードのテキストの合間にある想像力のポケットが、この映像にはないためか。リミッターを超えたときに笑ってしまうユーモアもない。最終的に落ち着くところはテクノロジーの中の原始的なコミュニティであり、それはバラード的で良いのだが、それをマーガレット・サッチャー流の資本主義とシニカルに結び付けようとしたところも上滑り。

●J・G・バラード
J・G・バラード自伝『人生の奇跡』(2008年)
J・G・バラード『楽園への疾走』(1994年)
J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』(1956-70年)


ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

2018-02-27 00:31:40 | ヨーロッパ

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房、原著1946年、1977年)を読む。

もちろん旧版(1946年)の邦訳(1956年)は読んだことがあったのだけれど、改訂された原著(1977年)にもとづく新訳(2002年)に接するのははじめてだ。今回旧版・新版と続けて読むことで、ずいぶん訳が現代的に柔らかくなっていることに気が付いた。ただし、それが良いとは限らない。ごつごつした文章のあちこちにぶつかりながら読むことにも意味がある。

それにしても、あまりにも怖ろしい体験記であり、思索の記録である。人はどこまでも残酷になりうる存在であり、それは立場によらないことが、体験をもとに記されている。人が試されるのは「いつか先」ではなく、「そのとき」であるのだ。そしてどのようであっても自分は自分であり、生きることの意味を「そのとき」に噛みしめられる者のみが、環境に従属することなく、人として生き延びることができた。

本書の中に、列車で収容所に運ばれる者が、自分の生まれ故郷を眺め、まるで自分が霊であるかのように思うというくだりがある。ヴィム・ヴェンダースが『ベルリン・天使の詩』を撮ったとき、つまり自分(たち)が自分(たち)の現実を生きるのだというテーマを物語にしたとき、『夜と霧』のことを意識していたのではなかったか、なんて妄想したりしている。

●参照
芝健介『ホロコースト』
飯田道子『ナチスと映画』
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
ジャン・ルノワール『自由への闘い』
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
ニコラス・フンベルト『Wolfsgrub』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
ジャック・ゴールド『脱走戦線』
マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』
徐京植『ディアスポラ紀行』
徐京植のフクシマ
プリーモ・レーヴィ『休戦』
高橋哲哉『記憶のエチカ』


ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』

2018-02-25 09:11:00 | ヨーロッパ

ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987年)を観る。もう学生の頃以来だからゆうに20年以上ぶりの鑑賞である(DVDを買った)。

歴史が始まってからずっと人間を観察し、静かに守ってきた天使たち。そのひとりダミエル(ブルーノ・ガンツ)が、自分の身体で実感できる世界や、自分の作る歴史をもとめて、人間になる。きっかけのひとつは、サーカスの踊り子マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)の存在でもあった。

何しろ、ベルリンの壁があった28年間の末期に撮られたフィルムである。革命が起きて市民により壁が壊されるのは、このわずか後なのだ。それに向かう予感や予兆があったのだろうか、それともあくまで希望だったか。

大事な場所はポツダム広場。壁があるために荒れ地となっており、かつての繁栄を知る歌い手が歩いてきて、その変わりように絶望している。ダミエルは自分自身の時代を作ると決意する。そして人間になって再会するマリオンは、ダミエルに対し、主体として私・あなたよりも「広場」(platz)を何度も口にする。すなわち、映画は個人の物語を超えて、新たな社会の胎動と人間のつながりに向けた大きな物語として提示されていたように思えてならない。

先日ポツダム広場を訪れたところ、壁の一部がモニュメントとして残されて開発されており、この映画の雰囲気などまるで感じられない場所となっていた。その何日かあと、壁がなくなってからの時間が、壁が存在していた時間を超えてしまった。

●参照
ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』
ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』、『アメリカ、家族のいる風景』
ヴィム・ヴェンダース『ミリオンダラー・ホテル』


ベルギー王立美術館のマグリットとブリューゲル

2018-02-12 10:46:06 | ヨーロッパ

ブリュッセルで空いた時間に、ベルギー王立美術館を覗いた。入館の際のチェックは厳重で、わりと時間がかかる。

ちょうどルネ・マグリットの特別展をやっていた。ブリュッセルにはマグリットが住んでいた家があって、2004年に観に行った。暖炉の上から列車が出てくる絵などはその家で描かれていて、中では暖炉と絵とを観ることができる。しかし、こちらの王立美術館に入るのははじめてだ。

中学生の頃から大好きな画家でもあり、もはやサプライズはないのだけれど、「光の帝国」2種類などの作品を観ることは嬉しい。

ところで、入口に、マグリットとマルセル・ブロータスが自動車に乗っている人形が展示されていた(ヨラ・ミナッチーというアーティストによる)。手にはマラルメの写真。後ろの座席にいる女性がカメラを持っており、それはおそらくニコマート(海外版ならNikkormatか)。ちょっと時代考証が甘いぜと思い調べてみると、ニコマートFTの発売は1965年、マグリットの没年は1967年、ブロータスの没年は1976年。おかしくはない。

 

それよりも(文字通り)度肝を抜かれたのはブリューゲル父子の作品群である。

「ベツレヘムの戸籍調査」は父子両方の作品が並べられており、比べると愉しい。偉大さでいえばオリジネイターの父なのだろうけれど、子の筆も仔細でまがまがしく、ポップでもあり、どれだけ凝視してもキリがないほど面白くドキドキする。

「謝肉祭と四旬節の喧嘩」は子の作品が展示されている(父の作品はウィーンにあるようだ)。なんなんだ、この奇怪な人たちは。おそるべしヨーロッパ中世。以下参照。

ああ、そういえば上野での展示も観に行かないと。


ベルリンのキーファーとボイス

2018-02-11 13:09:31 | ヨーロッパ

ベルリンでは夜以外に空き時間なんて無かったのだけど、移動日の朝に、ハンブルガー中央駅(という名前の駅を改造した美術館)を覗いた。

ちょうど「彫刻は彫刻は彫刻」と「マルクス・コレクション」の展示をやっていた。中でも目当てはやはりドイツでもあり、アンゼルム・キーファーとヨーゼフ・ボイス。このふたりはデュッセルドルフでともに学んだ仲である。

キーファーはナチ時代の弾圧と戦後の忘却に抗した作品を作り続けている。「Leviathan」は1939年に実施された統計調査を意識しており、文書が描き込まれている。それはホロコーストを行うための資料にもなったものだった。

また「Lilith at the Red Sea」は、アダムの最初の妻リリスが平等を求めて罰せられ、紅海へと移り住み、魔と化した神話をもとにしている。これと古着が貼り付けられていることとの関連は壁の解説を読んでもはっきりわからなかったのだが、放逐された者を古着で表現することは、やはりホロコーストを意識したクリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーション「MONUMENTA 2010 / Personnes」にも共通しており、記憶の強い掘り起こし力を持つもののように思えた。

ヨーゼフ・ボイスのインスタレーションは贅沢な広いスペースを利用していくつも展示されていた。「Dau Kapital Raum 1970-1977」ではピアノと環境との共存がずいぶんラディカルな形で表現されている。また「Tallow」は羊や牛の大量の脂肪を溶かし押し固めたものであり、アクションを想像することとともに観るべき作品だった。

いまとなっては素朴かもしれないのだが、ボイスの精神はまだまだ過激なものとして伝わってくる。

ところで、ひとしきり観終わったあとに併設のカフェレストランに入り、サンドイッチを注文したところ、想像とは大きくかけ離れたものが出てきた。うまかったのだが、とても食べにくく、ぼろぼろとこぼしてしまった。

●参照
チェルシーのギャラリー村
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』

2017-12-30 23:24:04 | ヨーロッパ

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』(1979年)を観る。

ベルリン。マリアの夫は、結婚1日半で戦争に出征し、間違って戦死したと伝えられる。生き延びるために、マリアは連合軍の黒人兵士と、結婚しない形でパートナーとなろうとする。しかし、まさにベッドインのときに、夫が帰ってくる。マリアは鈍器で兵士の頭を殴り、殺す。その罪は夫が被り、長く収監される。またもマリアは生き延びるために、女性であることを使うのだが、それを刑務所の夫に明け透けに喋る。かれはそれを受け容れられず、去ってゆく。マリアは絶望する。

ファスビンダーらしい描写は、愛の不毛というよりも、いやそこまでやるのかという展開か。一歩間違えるとギャグになってしまうほどのプロットを躊躇なく突き進むことで圧倒されるのだが、これは鈴木則文と同じ天才性のゆえであったに違いない。もう救いも何もあったものではない。

その生き地獄の中で、マリアことハンナ・シグラの恍惚とした表情が凄い(ジャン=リュック・ゴダール『パッション』においてのように)。あるいはハンナ・シグラのための映画であったのかもしれない。

●ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ファスビンダーの初期作品3本(1969-70年)


デヴィッド・リーチ『アトミック・ブロンド』

2017-12-27 07:26:15 | ヨーロッパ
成田からバンコクに向かう機内で、デヴィッド・リーチ『アトミック・ブロンド』(2017年)を観る。



シャーリーズ・セロン好きなのでそれだけでOKなのだ。それにしても痛々しく強すぎる。真似してウォッカのロック派になろうかな。
舞台は壁崩壊直前のベルリン(1989年)。映画館でタルコフスキーの『ストーカー』(1979年)をやっているのが面白いのだが、これは実際のことなのだろうか。
西側に脱出しようとするスパイに対し、セロンが「シュタージっぽいから着替えて西側風になって」と言っている。いまベルリンの人をそんなふうに揶揄すると怒るだろうね。

ジュリアン・バーンズ『人生の段階』

2017-06-12 22:31:34 | ヨーロッパ

ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(新潮クレスト・ブックス、原著2013年)を読む。

19世紀、気球に乗って旅をしようとする人たち。写真家のナダールも女優のサラ・ベルナールもいる。かれらはやはりどこかブチ切れていて、文字通り、地に足が着いていない。人間が跳躍できる以上の動きを体験してしまい、感覚もふわふわする。恋愛もふわふわしている。

それはそれとして、突然、バーンズ自身の物語へと話が移る。長年一緒に暮らした妻が急死してしまった。準備もなにもあったものではない。感覚も行動様式も、気球に乗ってしまった人間と同様であり、それまでの経験など何にもならない。周囲の言動に戸惑い、怒りを覚え、適応ができない。それを納得するための行動や努力自体が目的を失い、無意味なものになる。

バーンズの独白とも自己分析とも言えるような語りは怖ろしい。悲しみとは何なのか。報酬を求めての心の動きか、虚栄か。もうやめてくれと言いたくなるような言葉が次々に提示される。

「わたしはあなたより高くから落ちた。内臓の飛び散り具合を見てごらんなさい」

もちろんこれは皮肉やアフォリズムを集めたものではない。あらゆる罠と共存しながら絞り出した作家の言葉である。

解説によれば、『Pulse』『終わりの感覚』も、この体験の最中に書かれたものであった。それゆえの迫力だったのか。

●参照
ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(2011年)
ジュリアン・バーンズ『Pulse』(2011年)
ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(1984年)


ドリス・レッシング『なんといったって猫』

2017-05-12 07:34:44 | ヨーロッパ

ドリス・レッシング『なんといったって猫』(晶文社、原著1967年)を読む。

軽い気持ちで古本屋で手に取ったのだが、中身はそうライトではない。もちろん愛玩される猫がいれば、汚い猫、憎まれる猫、顧みられない猫もいる。著者の幼少時の記憶は、怖ろしいことに、猫の処分(というより、殺戮)に直接結びついている。

それでも著者は猫を飼っている。いや飼っているというよりは同居している。そして可愛がると同時に憎み、対話し、闘っている。特に、話の中心となる灰色猫と黒猫のアイデンティティや生存競争についての仔細な観察を読んでいると、怖ろしくもあり、愉快でもあり、不快でもあり。

ジャック・デリダは、単数形の記号として扱われる<動物>というものの姿を書いてみせたが(『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』)、ここでのレッシングの心根は、それとはまったく正反対のものだった。


ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』

2017-03-13 08:00:07 | ヨーロッパ

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社、原著2015年)を読む。

冒頭の「誰が水道の元栓を閉めたのか」というくだりから既に爆笑、思い切り引き込まれる。登場するのは、決して発刊されることのない日刊紙の準備のために集められた面々。かれらは人生で辛酸を舐めたインテリたちであり(だからこそ知的なのだというプロットは、白川静『孔子伝』を想起させられる)、一癖も二癖もある。 

ムッソリーニやファシストたちを巡る陰謀論は、現実からの思わぬ攻撃により、陰謀論という構図を保ったまま、陳腐なものとなってしまう。その一方で、現実は次の現実によって表面だけ塗り替えられ、不可視の領域へと追いやられてゆく。しかし現実も陰謀論も何もあったものではない、人びとが忘れ去るだけなのだった。

エーコの作品を読むのは『フーコーの振り子』(1989年)以来だ。それもテンプル騎士団やフリーメーソンなどを巡る陰謀論を扱い、また『薔薇の名前』(1983年)(実は映画しか観ていない)も虚実あい混じる世界を描いていた。エーコ亡きいま新しい作品はもう生まれないが、せめて、遺された小説群を味わってみなければ。


ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』

2017-01-08 09:44:56 | ヨーロッパ

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)を観る。タブレットでアマゾンビデオを観るのは快適。

現代のパリ。主人公の男ギルは、ハリウッドのシナリオライターであり生活にはまったく困っていないが、小説家になりたがっている。婚約者は典型的なお金持ちの娘であり、パパは頑固な共和党支持者。見るからにギルと父娘との相性は良くない。その上、この婚約者は、いかにもセレブ界に馴染んだ博学な友人に惹かれる始末。ある夜、ギルは突然1920年代のパリにタイムスリップする。そこではフィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイが熱く語り、コール・ポーターがピアノを弾き、ピカソやダリやブニュエルやマン・レイといった男の憧れの対象が現れる。そしてギルとピカソの愛人とは恋に落ち、さらに時間を数十年遡り、ロートレックやゴッホ、ゴーギャンがいるベル・エポックの時代へとスリップしてしまう。

女の憧れは「現代」の20年代ではなくベル・エポック、ギルの憧れは20年代、ギルの婚約者は現代を現実的に生きている。ギルを現代につなぎとめるものが、本物のコール・ポーターではなく、ポーターの古いレコードだということがウディ・アレンらしい。

ウディ・アレンはマンハッタンがひたすら好きで、マンハッタン賛歌たる『マンハッタン』を撮ったのだろうなと思っていたのだが、パリや黄金時代への憧れもあったのだね。もっともそれは、ヘミングウェイらと同様に、アメリカ人にとっての憧れのパリである。それにしても、主人公のコンプレックスや屈折、共和党の毛嫌いぶり、アイドルたちへの憧憬を隠さないミーハーぶりといったものの描写など、さすがというかやはりというかのウディ・アレン。

映画に登場するゼルダ・フィッツジェラルドは、既に心のバランスを崩していて、セーヌ川に飛び込もうとしているところをギルたちに止められたりもしている。エリカ・ロバック『Call Me Zelda』はそのゼルダを描いた面白い小説だったが、映画化の話はどうなったのだろう。ウディ・アレンが監督すればいいのに。

ところでわたしなら1940年代か50年代のマンハッタンにスリップしてみたい。目的は言うまでもない。

●ウディ・アレン
ウディ・アレン『マンハッタン』
(1979年)


マリア・ポミアノウスカ『The Voice of Suka』

2016-12-03 11:57:35 | ヨーロッパ

マリア・ポミアノウスカ『The Voice of Suka』(fortune、2016年)を聴く。

Maria Pomianowska (vo, Bilgoray suka, Plock fiddle)
Aleksandra Kauf (vo, Bilgoray suka, Mielec suka)
Iwona Rapacz (bass suka)
Patrycja Napierała (percussionalities)
guests:
Piotr Malec (tabla) (11)
Marta Sołek (accompanying suka) (12)
Bartek Pałyga (folk bass) (12)

ポーランドとウクライナのヴォーカルアンサンブル・バブーシュキ『Vesna』も実に気持ちが良かったことでもあり、またビョークだって人間のヴォイスに距離が近いという理由でストリングスをまた取り入れたことでもあるし、などと妄想し、弦楽器スカを中心としたこの盤に手を出してみた。

結論、大正解。快適であることはもちろんなのだけれど、それがまるで自然のなかに身を置いているような感覚でもある。ライナーによると、スカとは膝に縦置きする古くからのポーランドの弦楽器(おもに4弦)であり、また、弦は指の爪で抑える。ネックは奇妙に太い。そして弓だけで弾く。人間のヴォイスに近いのも当然のように思えてくる。

驚いたことはそれだけではない。伝統楽器を現在において用いた音楽だと思い込んでいたのだが、実は、スカとは、いちど19世紀にその伝統が途絶えた楽器であった。それを、20年以上の調査によって復活させたということである。ここでの曲はすべて魅力的なのだが、すべて現代の作曲。おもしろい再生である。

ポーランドの伝統音楽は、ペルシャやインドのそれに近いものがあるという。実際に本盤でも、11曲目においてタブラが入り、例によって最後にスピードアップしてゆきカタルシスをもたらしてくれる。

以下のサイトを見れば、マリア・ポミアノウスカがパキスタンの音楽家やヨーヨー・マと共演したりもしている。かなりの広がりがあるということだ。そしてイランの音楽との共通項はいかに。ちょっと掘り下げてみたいところ。

http://www.poloniamusic.com/Bilgoray_Suka.html

●参照
バブーシュキ『Vesna』
イラン大使館でアフランド・ミュージカル・グループを聴いた
若林忠宏『民族楽器大博物館』にイランの楽器があった