Sightsong

自縄自縛日記

ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』

2016-11-28 20:41:46 | ヨーロッパ

ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』(1970年)を観る。

護送中に脱走した男、5年の収監を経て仮出所した男、もと警官の狙撃の名手、老刑事。奇妙な友情と裏切り。「善に生まれ悪に染まる」という人間の業。アンリ・ドカエの暗鬱な撮影。切り詰められた台詞と演出。トレンチコート、ダークスーツ、細いネクタイ、革のボストンバッグなんかもキマッている。

いや見事な映画だなあ。メルヴィルの作品は、『影の軍隊』(1969年)にも『リスボン特急』(1972年)にも痺れていたのだけど、その2本にはさまれた地味な本作も実に秀逸。

そういえば母親がアラン・ドロンのファンだった。それもまあわからなくはない。くたびれた表情を浮かべたイヴ・モンタンは妙に高田純次に似ている。宝石店で自前の銃弾により警護用の鍵穴を撃つのだが、まずは三脚で照準を定め、おもむろに銃を取り外して手で撃つ、それにもまた痺れる。


ジュリアン・ジャロルド『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』

2016-11-07 19:12:25 | ヨーロッパ

ギンレイホールで、ジュリアン・ジャロルド『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』(2015年)を観る。(入院中の許可外出ゆえ、こういう場所がいろいろ良いのだ。)

1945年5月8日、ヨーロッパ戦勝記念日(VE Day)。ロンドンの市民は沸き立っている。現女王のエリザベスと妹のマーガレットは、このときこそ宮殿の外に出るチャンスだと思い、父母に交渉し、なんとか許される。そこからお忍びでの一夜のアヴァンチュールのはじまり。

要するに、『ローマの休日』的なコメディである。難しいことは考えないハッピーな映画。

面白いのは、父のジョージ6世。もともと国王になんかなるつもりがなかったのに、兄のエドワード8世が王位を投げ出したために、継承せざるを得なかったかわいそうな人である。『英国王のスピーチ』では吃音に苦しみ、なんとか国民に向けてスピーチができるようになるまでを描いているのだが、この映画はもう少しあとのこと。そのために、戦勝についてラジオで国民に語りかけるときも、その反応をやけに気にして、だからこそ娘たちの外出が許されたようなものだ。そして、相手をエリザベス王女だと知らない市民の女性は、ジョージ6世の肖像画を一瞥して、「国王なんかやりたくもなかっただろうに、頑張っているよ」と呟く場面もある。

また、ソーホー地区が当時とびきりいかがわしい場所であったとは知らなかった。街を歩くには歴史を知らなければならない。ところで、以前、ロンドンの仕事仲間に、何で日本では「SOHO (Small Office, Home Office)」なんてヘンな造語を使うんだと笑われたことがある。そういえばいつの間にか消え去った言葉である。

●参照
『英国王のスピーチ』


シーア・シェアイック『世界一キライなあなたに』

2016-10-13 07:40:10 | ヨーロッパ

シーア・シェアイック『世界一キライなあなたに』(2016年)を観る。

何でそんなベタな恋愛物を。いや眼が不調なので、片方だけで映画館で鑑賞して疲れないかのテストである(言い訳)。

英国の田舎町。失業中の女性ルーは、介護の仕事を見つける。相手はお城のイケメン御曹司ウィルだが、交通事故で首から下が不随になっていた。ルーのヘンな明るさとダサ可愛いファッションに心を開いていくウィル。一方のルーも、自分を外に向けて押し出してゆく。しかし、ウィルはかつての活動的で華やかな自分自身との落差に耐えられず、安楽死を選ぼうとする。ルーは必死に阻止しようとする。

原題は『Me Before You』。ウィルに出逢うまでのルーの恋人は、良い奴だがあくまで自分中心であり、ルーも嗜好や生活をかれに合わせていた。だが蓋が開いた今、ルーにはかれと別れ、新しい選択をするほかの選択肢はなかった。

まあありえないおとぎ話だが、ルー役のエミリア・クラークの笑顔が可愛く、また何かにおもねった演出でもない(つまり堂々としたベタ)であるため、楽しめた。


トーマス・ルフ展@東京国立近代美術館

2016-10-08 22:21:16 | ヨーロッパ

竹橋の東京国立近代美術館に足を運び、トーマス・ルフ展を観る。

かれはドイツでベッヒャー夫妻に師事した写真家であり、アンドレアス・グルスキーと同様に、ベッヒャー夫妻の影響下からはじまって独自の世界を発展させている。例えば、90年頃の「Haus」のシリーズでは、ベッヒャー夫妻が複数のガスタンクなどを同じ構図と条件において撮ったのとは異なり、まるで、あるがままに家々を無機質に撮っている。<あるがまま>の掘り起こしと挑発であるかのように。

大判カメラ・自然光で室内の様子を切り取った、80年代前半の「Interieur」では、そこに居る者・居た者の跡を感じさせるものだった。このあたりは、ヴィム・ヴェンダースの写真作品(『Written in the West』等)と通じるものを感じるのだが、ヴェンダースはドイツ写真のトレンドとどのように接していたのだろう。

Thomas Ruff、Interieur 5E (1983)、「トーマス・ルフ展」、東京国立近代美術館

やがてルフは、デジタル技術を利用しはじめ、また、写真家が個人単位で努力しても実現できない作品に取り組んでいく。「jpeg」のシリーズでは、画像を圧縮して情報が落ちた結果としてのピクセルを前面に押し出した。2001年のアメリカ同時多発テロ事件をこれにより図像化した作品など、技術のお遊びではなく、情報や認識に関わる多くの示唆を含んでいる。また「cassini」のシリーズは、国家の保有する巨大な画像データを用いて精細な土星の環(カッシーニ)を写真作品として実現したものであり、もはや写真撮影と制作という活動を暴力的なまでに相対化したものだと言うことができる。

Thomas Ruff、jpeg ny01 (2004)、「トーマス・ルフ展」、東京国立近代美術館

本展での展示作品はさらにヴァラエティに富んでいる。ここまで拡がりを持つ作家とは思わなかった。

(ところで、立体視の作品群があり、左眼を眼帯で隠している自分にとってはタイミングが悪かった。)

本展での写真撮影と利用について

●参照
アンドレアス・グルスキー展@国立国際美術館(2014年)


クリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」@東京都庭園美術館

2016-10-08 20:57:38 | ヨーロッパ

東京都庭園美術館に足を運び、クリスチャン・ボルタンスキーの個展「アニミタス-さざめく亡霊たち」を観る。

まずは、本展に際して行われたボルタンスキーへの20分ほどのインタビュー映像を観る。かれは、人をカテゴリーに押し込めることを激しく拒絶する。そのたとえが、「ユダヤ人を皆殺しにせよ」との命令の非論理・非倫理は、「床屋を皆殺しにせよ」との命令と同じ水準であるとする。そして、その対極にあるものとしてかれが表現手段としたものが、それぞれが異なる特別な存在たる者たちの声なき声であり、音声としての声であり、生命のあかしであり、生命の痕跡なのだった。


※映像ルームでの撮影は許可されている

本展では、古い洋館の部屋ごとにおいて、その囁きが提示されている。

最初の「さざめく亡霊たち」では、部屋の四方から人びとの囁きや呟きが聞えてくる。それは日本語ではあるが、聴きとれたり、とれなかったり。我々はもとより、個々を個々として認識する以上のことはできない。まとめてカテゴライズする行為は本質的に暴力を孕んでいるということだ。

次の「影の劇場」では、コミカルなモビールたちの影絵が揺らめき、それらは明らかに死を思わせるものであり、しかし同時にノスタルジックでもある。

書庫での「心臓音」では、人びとの心臓音が増幅され流されている(豊島にアーカイヴとして保存されている)。「MONUMENTA 2010 / Personnes」でも使われた手法だ。その場に身を置くことは、個への一体化を要請されることにもなる。すなわち、かけがえのないもの・取返しのつかないもの・一度限りのものとしての個の生命を、否が応でも実感させられてしまう。

新館の大きな部屋に入ると、そこには、人びとの眼がプリントされた布が数多く吊るされており、「眼差し」と題されている。それらの間をかきわけて歩いてゆくと、「帰郷」という物がある。ナチスの強制収容所で没収された大量の古着の山がイメージされ、それを、金色のシートが覆っている。やはり「MONUMENTA 2010 / Personnes」では古着類が積み上げられ、クレーンが掴み上げては上から放り落とすことを続けていた。それが痛いほど直接的な暴力を示したものであるとすれば、本展はシートの向こうに人の痕跡があることを間接的に想像させられるものだ。いずれも息が詰まってしまうほどの迫真性をもっている。

そして、上映室の真ん中にスクリーンが置かれ、両側から風鈴のプロジェクト風景が上映されている。片方はチリ・アタカマ砂漠におけるものであり、多数の棒の上から風鈴と白い短冊が吊るされ、風に揺れて音を立てている。もう片方は豊島の森におけるものであり、木からやはり風鈴と透明な短冊が吊るされている。短冊には名前や何かが記されている。それらは<無数>であり、かつ<個々>であるものとの共振であるように感じられた。

囁きや存在の予感とともにふるえさせられる、素晴らしい展示だった。美術館の外に出ると、上映室に敷き詰められた稲わらが1本、靴にへばりついていた。世界がシームレスにつながっているように感じさせられた。

●参照
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」(2010年)


トビー・フーパー『スペースバンパイア』

2016-09-04 09:35:18 | ヨーロッパ

トビー・フーパー『スペースバンパイア』(1985年)を観る。

死ぬほど懐かしい。中学生のとき、同級の女の子が映画館に観に行ったと話していて、何でそんなヘンなことをするのだろうと思った。その後テレビ放送で鑑賞して合点がいった。その子はエロ物が好きなのだった。

それはともかく。淀川長治がマチルダ・メイの裸に興奮したという逸話があるが、それ自体はいまやなんということもない。時代は変わるものである。しかし、彼女に抗いようもなく吸い寄せられて、生体エネルギーをすべて吸収され、挙句の果てにミイラになってしまうSFXは、いま観てもなかなか鮮烈である。(日本でSFXという用語が使われはじめたのはこの頃だったと記憶している。)

ロンドンがヴァンパイア化の連鎖で滅びそうになる展開には、素朴すぎて笑ってしまう。できれば、コリン・ウィルソンの原作小説『宇宙ヴァンパイアー』において執拗に書かれたように、生体エネルギーの相互の吸収は人間同士でもなされるのだという設定や、エイリアンが神から堕落した存在であったという設定も活かされればもっとよかったが、しかし、それではせっかくのアホアホさが損なわれたかもしれない。

●参照
コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』


カラヴァッジョ展

2016-06-01 22:14:59 | ヨーロッパ

ようやく、上野の西洋美術館でカラヴァッジョ展を観た。平日なのに結構混んでいた。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、16世紀末から17世紀初頭に活動したイタリアの画家である。その立体的な明暗や、あけすけなモチーフが大きな特徴であり、多くのカラヴァジェスキというフォロワーを生んだ。今回の展覧会では、カラヴァッジョの作品が11点も集められている(わたしもルーブルやナショナル・ギャラリーでぽつぽつ観た程度)。

こうして多くのカラヴァジェスキの作品群の中でカラヴァッジョの作品を見つめると、パイオニアの凄みは隠しようもなく伝わってくる。真の暗闇において、わが身を差し出さんばかりにあられもなく露出される存在。

特に視野に入った瞬間にぎくりと引いてしまった作品は、「法悦のマグダラのマリア」。その薄目は張り詰めるとともに全ての力を抜いており、色の変わった下唇とともに、この世のものとは思えない。上半分には吸い込まれそうな闇。なんというものを描くのか、正気ではありえない。

デレク・ジャーマンがエキセントリックなカラヴァッジョの姿を描いた映画『カラヴァッジオ』も再見したい。


ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』

2016-05-29 10:13:43 | ヨーロッパ

ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(岩波文庫、原著1955年)を読む。

底本は1955年版だが、初稿が書かれたのは1938年、ブレヒトが既にナチスドイツを脱出した後のことである。ブレヒトの作品はヒトラー政権によって弾圧され、亡命後は焚書の対象となっている。

一読すると、この物語は17世紀初頭における「固陋な宗教界、対、真理を求める科学者」の構図のように見える。実際に、本書の表紙に書かれた文句はそれを意識したもののようだ。しかし、それは皮相な見方に過ぎない。ガリレオを英雄視する視線はあくまで大衆受けする物語なのであり、実際のところ、このガリレオ事件は宗教界における許容と拒絶とのフリクションだった(田中一郎『ガリレオ裁判』)。

ブレヒトの視線は実に複眼的である。主役はガリレオでも宗教界の権力でも政治権力でもなく、むしろ、大衆なのだった。そしてブレヒトが大衆に向けるまなざしは決してあたたかくはない。それは、ガリレオという「科学者」の存在を二次利用して物語をつくりあげ、その過程で容易におかしな方向へ自己誘導されていく大衆の姿である。またガリレオを英雄視し、拷問の恐怖から折れた彼を侮蔑する者は、他者を手段として扱うという点で倫理に背いていた。

「科学者」が社会とのかかわりを顧みず「真理」を追究する姿に対するブレヒトの視線もまた複雑だ。この作品が何度も書き換えられていく途中で、2度の原爆投下があって、そのことも作品に反映されている。また、「真理」による「新しい社会」は実際のところ幻惑に過ぎないという、ブレヒト自身の苦い経験があった。もちろん、「真理」を理解できない宗教権力も政治権力もシニカルに描かれているのだが、その一方で、ガリレオにもまた狡猾で偏狭な性格を持たせている。

さまざまな読み方ができる、再読すべき作品に違いない。

●参照
田中一郎『ガリレオ裁判』


エルマンノ・オルミ『緑はよみがえる』

2016-05-09 22:17:48 | ヨーロッパ

岩波ホールにて、エルマンノ・オルミ『緑はよみがえる』(2014年)を観る。

第一次世界大戦(1914-18年)は、戦争のあり方、国家のあり方、人間のあり方を大きく変えた戦争であった。飛行機や機関銃といった新兵器が登場し、対策として長い塹壕が掘られ、兵士は極度の消耗と緊張とにさらされることになった。その結果、精神に異常をきたすものも続出した。攻撃と防御の規模が急に肥大化したことにより、兵士は文字通りコマと化し、また、数によって把握される存在と化した。よく言われるように、近代戦争のひとつの起点である。

映画の舞台は、1917年、イタリアの雪山。戦局が膠着し、オーストリア軍と塹壕から対峙するイタリアの兵士たちは、もはや耐えられない状況に追い込まれていた。真っ暗な中での探り合い、相手の視えぬ殺し合い、やはり顔の視えぬ司令部からの理不尽な指令。

オルミのまなざしは、真っ暗な中で、兵士たちの微かな顔の皮膚の動きや、揺れる眼の動きを追う。まさに兵士のひとりが泣きながらひとりひとりの名前を言いたいと呟いたように、それは、数や大きな物語としてではなく、人間を個々の存在としてとらえようとする視線なのだった。

パオロ・フレスによる音楽も出色。

●参照
エルマンノ・オルミ『木靴の樹』(1978年)
オーネット・コールマン集2枚(パオロ・フレス)


エルマンノ・オルミ『木靴の樹』

2016-03-28 09:28:03 | ヨーロッパ

岩波ホールに足を運び、エルマンノ・オルミ『木靴の樹』(1978年)を観る。

これまでに映画館やヴィデオで何度も観てきた作品なのだが、わたしにとっては、また体験しなければならない特別な映画なのだ。

19世紀末、北イタリアの農村。農民たちは玉蜀黍を収穫し、みんなでその皮を剥いたり、粉にして地主からおカネをもらったり。家畜の鶏や豚をつぶしたり、牛を大事にしたり、牛の蹄の中に拾った金貨を隠したり。15にもなって小さい子供たちと一緒にかくれんぼをして遊ぶ、おねしょが治らない子がいたり。たまに街のお祭りで大騒ぎしたり。みんなを驚かそうと早生のトマトを育ててみたり。

農業収益の3分の2は地主に差し出さなければならず、土地も家畜も地主のもの。生殺与奪の力はただ地主にあった。恋が実り結婚した男女は、舟でミラノまで旅をして、修道院で養子を授かる。育てることで養育費がもらえるからだ。そのような貧しい環境の物語でもあった。

なんということもない風景と物語とが、新鮮な野菜や果物のように感じられる。


ミラン・クンデラ『The Festival of Insignificance(無意味の祝祭)』

2016-03-18 20:52:13 | ヨーロッパ

飛行機の中で読むものがなくなってしまい、ドバイの空港で、ミラン・クンデラ『The Festival of Insignificance』(Faber & Faber、原著2014年)を買った。そのときは未邦訳の新作かなと思っていたのだが、実は、『無意味の祝祭』という題で既に邦訳されていた。わたしは余っていたカタールリヤルを使って、さらに残り20米ドルを払ったのだが、邦訳版は2千円未満。それに、もともとフランス語であるから、英訳版を読むことの意味はまるでない。まあ、買ったものは仕方がないし、「無意味」と題されていることでもあるから、だらだらと読んだ。

人生に幻滅する男たち。『不滅』(1990年)がそうであった以上に、読む者をひらりひらりとかわし続ける対話と思索である。

道ですれ違う女の子たちはヘソを出している。なぜヘソに魅せられるのか。ある男は言う。ほら、女性の胸や尻のあり様はひとりひとり違って、その人の記憶と結びつくだろ。でもヘソはみんな同じようなものだろ。無意味だけどそんなもんだろ。

スターリンは、得意になって自身の考えを披露する。見えるものの背後には何もないんだよ。無意味なんだよ。それでは哲学の意味はどこに?

無意味の意味がなんであろうと、無意味が無意味であろうと有意味であろうと、それが人生。そんな達観なのだろうが、残念ながら今のわたしには余裕がないため、文字通りエクリチュールが脳の表面をつるつるすべっていくだけ。読むタイミングが悪かった。

●参照
ミラン・クンデラ『不滅』(1990年)
ミラン・クンデラ『冗談』(1967年)


ジョルジョ・モランディ展@東京ステーションギャラリー

2016-03-14 07:34:01 | ヨーロッパ

東京ステーションギャラリーにて、ジョルジョ・モランディ展を観る。

モランディは表舞台に出ることを好まず、静物画を描き続けた人だった。かれの手にかかれば、花は佇まいを示すためのものであり、建物も静物のひとつの在りように過ぎないことになってしまう。瓶や小物たちは、少しずつ移動し、ときには現実の閾を平然と踏み越えて、「変奏」する。

かれの視線に晒され続けたものどもは、影も形も光の揺らぎのなかだけに、漆喰のように封じ込められる。よく観ると、背後の壁が瓶よりも後に描かれ、それが瓶の形を決めていることもわかる。

地味で落ち着いたモランディの作品が好きなわたしでも、ここまで執拗な、人生をかけた「変奏」を見せられては、圧倒される以上に、かれの正気を疑ってしまう―――もちろん、偉大な芸術家のありうべき側面として。


ギレルモ・デル・トロ『クリムゾン・ピーク』

2016-03-01 21:38:36 | ヨーロッパ

飛行機の中で、ギレルモ・デル・トロ『クリムゾン・ピーク』(2015年)を観る。

20世紀初頭のニューヨークにおいて、資産家の娘が、粘土掘りの機械を開発しようとする野心を持った実業家の男に騙され、結婚する。男の実家は英国の古く大きな洋館。かれは人殺しであり、その背後には姉との関係があった。洋館には犠牲者たちの幽霊があらわれた。

なかなか雰囲気のあるゴシック・ホラーだが、言ってみれば、見どころはそれだけだ。騙される娘は、亡くなった母親の霊から「クリムゾン・ピークに気をつけろ」と忠告されていて、その赤い丘が洋館の建つ地であった。だが、迫りくる運命的な「赤」を使うなら、ニコラス・ローグ『赤い影』のほうが1万倍怖くて巧い。

●参照
ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』


コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』

2016-02-27 17:10:18 | ヨーロッパ

吉祥寺のバサラブックスはなかなか愉快な古書店で、先日、コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』(新潮文庫、原著1976年)を300円で見つけた。トビー・フーパーの映画『スペース・バンパイア』の原作となった小説なのだが、迂闊にも、御大コリン・ウィルソンによるものだとは知らなかった。なお、映画の宣伝のため、カバーだけタイトルが変えられている。

なかばB級映画に接するつもりで読み始めたようなものだが、途中からどんどん面白くなってきて、サウジアラビアに着く直前に読了した。

近未来。地球の近くで、長いこと放棄されていたと思しき巨大な宇宙船が発見される。なかには人間の形をした死体があった。そのうち3体だけを地球に持ち帰ったのだが、これは宇宙人の陰謀だった。かれらはヴァンパイアであり、人間の生命エネルギーを吸収して生き続けようとしていたのだった。宇宙飛行士とヴァンパイア学者が協力して、誰かの身体に侵入したヴァンパイアを追い詰めていく。かれらは、神からサディスト的な犯罪者に堕ちてしまった存在だった。

生命エネルギーはヴァンパイアならずとも人の間を行き来するものであり、そこには性が介在しており、エネルギー保存則が成り立っているという設定が実に面白い。このヴィジョンによれば、人はそれで長生きできるばかりか、時間さえも逆行できる。

ヨーロッパにおけるヴァンパイア伝説を発展させたウィルソンの腕前は、さすがである。ヴァンパイアの息吹が場所によらず人に対してあらわれるという設定は、まるで生霊のようだ。しかもそれが宇宙の大いなる意思につながっていくという力技。

ところで、フーパーの映画については、裸の宇宙人の女が、誘惑された男から生命エネルギーを吸い取る激しい場面しか覚えていない。帰国したらすぐに観なければ・・・。


沢木耕太郎『キャパの十字架』

2016-01-16 08:10:20 | ヨーロッパ

沢木耕太郎『キャパの十字架』(文春文庫、原著2013年)を読む。

スペイン内戦(1936-39年)はスペイン市民戦争とも称される(英語では「civil war」)。解説において、逢坂剛は、「civil」には国内という意味があり、アメリカ南北戦争も「civil war」なのであるから、あくまで内戦と呼ぶべきだと書いている。しかし、この戦争は、ファシズムとの闘いをわがこととして他国の市民が駆けつけた戦争でもあり、その重要性をもって市民戦争と呼んでしかるべきなのではないか。

その視線があったからこそ、ロバート・キャパが撮った写真「崩れ落ちる兵士」は傑作として位置づけられ、イコンのように扱われ、キャパに一躍名声をもたらすこととなった。その一方で、この写真は、本当に、共和国軍の兵士が反乱軍の銃弾を受けて死んでゆく瞬間をとらえたものなのかという真贋論争の対象となってきた。

著者は、他の写真や証言をもとにして、写真が撮られた過程を検証していく。そして、導き出した答えは「贋」であった。そこには、若くして戦場で亡くなった恋人ゲルダ・タローの存在も関係していた。

冗長さはあれど、まるで推理小説においてパズルを解いていくようなスリルを覚える。使われたカメラが、ライカIIIa(またはライカIIIがあとでIIIaに改造されたもの)と、6x6の中判(本書ではローライフレックスとされていたが、その後、レフレックス・コレレであったことが判明)だったという事実をもとにした推理も面白い。ただ、上から覗く逆像ファインダーゆえ、咄嗟の動きに対応できず、兵士の姿が端に寄ってしまったのだとする推測には納得しかねる。さほど扱いに習熟していなくてもすぐに身体の動きと連動しうるものであるし、何より、「崩れ落ちる兵士」の構図は、兵士を左側にとらえることで完成度を増したものであるように思える。

●参照
スペイン市民戦争がいまにつながる
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』
ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』
室謙二『非アメリカを生きる』
ナツコ(沢木耕太郎『人の砂漠』)
『老人と海』 与那国島の映像(沢木耕太郎『人の砂漠』)