佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(集英社、2013年)を読む。
太平洋戦争末期、沖縄は日本の「本土」を防衛するための「捨て石」とされた。20万人以上が亡くなり、その過半数は沖縄出身者で占められた。民間人の犠牲者は10万人前後にのぼり、4人に1人、あるいはそれ以上の人びとが亡くなったとされる。
そこでは、日本軍が住民を護るどころか処刑さえも行った。そして、米軍上陸に際して、米軍に捕えられてはならないという徹底的な軍国教育・皇民化教育に起因する「集団自決」が多発した。奇跡的に生き残った人びとにも、地獄が待っていた。
本書では、沖縄戦とその後に、実際に何が起きたのかを検証していく。
沖縄において、「援護法」のもと、遺族に給与金が支給される際、適用者は「戦闘参加者」と位置づけられた。そのため、たとえば、日本軍に壕を追い出されたとしても「壕の提供」という形となり、幼児でさえ「戦闘参加者」として靖国に祀られる事態となった。もちろん、多くの人びとはひとえに戦争の犠牲者なのであり、戦闘に参加などしていないし、ましてや積極的な協力などするわけがない。戦争美化の、あるいは死者冒涜の、歪んだ形である。
戦争は多くの孤児たちや、心に傷を抱えて生きざるを得ない人びとを生んだ。著者は、その実像に接し、沖縄戦がいまだ終わっていないことや、「本土」の想像力のなさを訴えている。実際に、エピソードのひとつひとつは読んでいて辛い。
現在まで続く米兵による性暴力も、沖縄戦が終わっていないことを如実に示すものかもしれない。本書によると、戦後、地元の女性たちを暴行する米兵に頭を悩ませた各地域で、被害を軽減させるため「慰安所」が設置された。たとえば、今帰仁では、料亭において、地域の有力者たちが米軍と調整し、身売りされた女性を米兵相手の「慰安婦」にさせる事例があった。ある女性は、1日20-30人を割り当てられ、つらいと泣いていたという。この悲惨さは、戦時中と異ならない。橋下・大阪市長は、このようなことに想像力を何ら働かせる意思も知識もなく、いまでもこの「機能」が必要だと発言したわけである。
翁長・那覇市長をとりあげた「那覇市長の怒り」という章がある。自民党でありながら、「オール沖縄」を唱え、オスプレイ配備にも正面から反対している。氏の反骨ぶりと人柄とが想像できる文章である。来年の知事選には、翁長市長、高良倉吉氏らの出馬が噂されているようだが、さて、どうなることだろう。
ところで、本書には、『ウルトラマン』の生みの親のひとり、金城哲夫についても少し言及されている。彼は円谷プロを退社して沖縄に戻り、やがて酒に溺れ、階段を転落して37歳の若さで亡くなる。確かに、著者が指摘するように、金城哲夫が生きていたなら、いまも大きな存在であったかもしれない。
金城哲夫の生家・松風苑(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号