Sightsong

自縄自縛日記

ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』

2013-06-22 17:26:22 | 思想・文学

ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー、原著1958年)を読む。

ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは、1889年、ウィーン生まれ。工学を勉強するが、やがて哲学に転向。第一次世界大戦ではオーストリア軍に参加し、捕虜になっている。そのとき、既に『論理哲学論考』のドラフトがリュックの中にあった。その後、さまざまな職を経たあと、哲学に復帰し、ケンブリッジ大学で教鞭を取る。

本書は、そのときの教え子による回想記である。世の中にヴィトゲンシュタイン回想記は山ほどあるそうで、その理由も、本書を読めば納得できる。つまり、他人から見れば、まぎれもなく奇人・変人であったのだ。

ただし、ここで描き出されるヴィトゲンシュタインの姿は、学者や哲学者としてのステレオタイプ像ではない。むしろ、彼はそういったものを毛嫌いしていた(これはよくわかる。わたしも限られた世界で思い上がった大学人たちに耐えられなかったから)。彼は、偉ぶったり、その場に相応しい言動を取り繕うのではなく、偏執的に、哲学を追及する人なのだった。その代償として、感情の浮き沈みが激しく、自分の意見と合わない者に対しては極端に激しい態度でのぞみ、自分の思想が理解されないばかりか剽窃されているとの猜疑心にとらわれていた。

こんな人が近くにいたら、疲労困憊し、距離を置いてしまうだろう。著者も、一度話すと、数日間は時間を置かないと我慢できなかったと書いている。

残念なことに、本書がヴィトゲンシュタインの人柄を思い出すことに終始し、思想とのかかわりについてはあまり触れていない(つまり、下世話な思い出話)。このあたりについては、併録されている小伝が有益だ。すなわち、重要なことは、この回想記が、ヴィトゲンシュタインの後期哲学の発展期についてのものだということである。

『論理哲学論考』では、言語を実在の写像であるとみなし、要素命題から有意味な命題を構築しようと試みていた。しかし、後期哲学においては、それらの説をすべて捨て去り、さらに語ることの奥底に立ち入ろうとしていたという。そのような時期の言動であるからこそ、納得できるものもある。

とはいえ、わたしが読んだヴィトゲンシュタインの著作は、『論理哲学論考』だけである。あらためて時間をとって、『哲学探究』につきあってみなければならないのだろうね。

●参照
合田正人『レヴィナスを読む』(レヴィナスとヴィトゲンシュタインとの関係)
柄谷行人『探究Ⅰ』(言語ゲームとしてのヴィトゲンシュタイン)
小森健太朗『グルジェフの残影』を読んで、デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』を思い出した


ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』

2013-06-22 15:55:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』(AxolOtl Records、1999年録音)は、タイトルの通り、ポール・オースターの小説世界にインスパイアされて吹き込まれた作品である。

発表時に気になりながら聴かず、いまになって入手した。

Jeff Gardner (p)
Ingrid Jensen (tp)
Rick Margitza (ts)
Drew Gress (b)
Tony Jefferson (ds)

タイトル曲の『偶然の音楽』、それに『幽霊たち』、『ガラスの街』、『ムーン・パレス』、『ミスター・ヴァーティゴ』、『リヴァイアサン』が曲名として採用されており、さらに、『最後の物たちの国で』に登場するアンナ・ブルーム(彼女は終末世界で生きる)に捧げた曲など、オースター好きの心をくすぐる構成。

とはいえ、それぞれの曲から元の小説世界をイメージすることは難しい(もっとも、無理に結びつけることは間違いだろうが)。ガードナーの、やや暗く、抒情的で、モーダルな印象のピアノを聴くための盤である。

もっと言えば、自分にとっては退屈。ただ、トニー・ジェファーソンの流麗なシンバルワークには聴き入ってしまった。

同好の士が作った作品ゆえ、よしとする。なお、ヴィム・ヴェンダースもオースター好きだが、彼の映画にこの音楽は合わないだろうね。

●ポール・オースターの主要な作品のレビュー
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
『Man in the Dark』2008年)
『写字室の旅』(2007年)
『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)

『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』


金達寿『わがアリランの歌』

2013-06-22 06:59:30 | 韓国・朝鮮

金達寿『わがアリランの歌』(中公新書、1977年)を読む。

金達寿(キム・ダルス)氏は、在日コリアン文学の嚆矢のひとりである。嚆矢ということは、おそらくは、直接的にも、間接的にも、「在日」たることを強いられたことを意味する。

本書は氏の自伝であり、ここに書かれた体験は、まさにそのために負わなければならなかった労苦の数々だ。日本により併合された韓国にあって、生家は土地を奪われ、自暴自棄になった父親がさらに土地を売った。困窮のあまりに両親と兄は日本へ出稼ぎに渡り、氏は祖母のもとに残されてしまう。10歳になり、自分自身も日本へ。そこではさらに貧困に苦しみ、廃棄物の仕事で糊口をしのぎながら、文学に夢中になっていく。

そして差別と暴力。文学と民族主義に目覚めたのは、これらの理不尽に対峙しなければならなかったからでもあるだろう。

本書を読んではじめて知ったことだが、著者と、金史良(キム・サリャン)とは、終戦までの何年間か親密な交際を続け、お互いに影響を与えていた。1940年に芥川賞候補となり、戦後平壌に帰郷、朝鮮戦争に参加して消息を絶った作家である。著者が書くことからわかったことは、金史良の作品に登場する奇怪な人物たちは、抑圧されている状況において、そうしなければ自民族を表現できないというせめぎ合いの中で生まれたものでもあったのだ。

著者はやがて神奈川新聞に入社し、日本人女性と恋愛をするも民族間の壁を意識して絶望、京城(ソウル)に渡って、京城新聞社に入る。地方紙よりも(中国新聞や河北新報といった地方の新聞に比べ、変に関東に近い新聞のほうが競争力がなくてダメだったという指摘は面白い)、部数の多い新聞のほうが立派に見えるというだけの理由だった。しかし、著者は、そこが朝鮮総督府の御用新聞を出すところだと気付き、屈辱にまみれる。故郷を支配する国の一大勢力、その中でさらにまた差別に苦しむという場所に立っていたわけである。

このあたりのエピソードは、のちの長編『玄界灘』(1953年)に、かなり直接的に生かされていることがわかる。如何に苛烈な体験であったか。それは噴き出す場所を求めるほどの鬱屈であったということだ。

●参照
金達寿『玄界灘』
青空文庫の金史良