ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー、原著1958年)を読む。
ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは、1889年、ウィーン生まれ。工学を勉強するが、やがて哲学に転向。第一次世界大戦ではオーストリア軍に参加し、捕虜になっている。そのとき、既に『論理哲学論考』のドラフトがリュックの中にあった。その後、さまざまな職を経たあと、哲学に復帰し、ケンブリッジ大学で教鞭を取る。
本書は、そのときの教え子による回想記である。世の中にヴィトゲンシュタイン回想記は山ほどあるそうで、その理由も、本書を読めば納得できる。つまり、他人から見れば、まぎれもなく奇人・変人であったのだ。
ただし、ここで描き出されるヴィトゲンシュタインの姿は、学者や哲学者としてのステレオタイプ像ではない。むしろ、彼はそういったものを毛嫌いしていた(これはよくわかる。わたしも限られた世界で思い上がった大学人たちに耐えられなかったから)。彼は、偉ぶったり、その場に相応しい言動を取り繕うのではなく、偏執的に、哲学を追及する人なのだった。その代償として、感情の浮き沈みが激しく、自分の意見と合わない者に対しては極端に激しい態度でのぞみ、自分の思想が理解されないばかりか剽窃されているとの猜疑心にとらわれていた。
こんな人が近くにいたら、疲労困憊し、距離を置いてしまうだろう。著者も、一度話すと、数日間は時間を置かないと我慢できなかったと書いている。
残念なことに、本書がヴィトゲンシュタインの人柄を思い出すことに終始し、思想とのかかわりについてはあまり触れていない(つまり、下世話な思い出話)。このあたりについては、併録されている小伝が有益だ。すなわち、重要なことは、この回想記が、ヴィトゲンシュタインの後期哲学の発展期についてのものだということである。
『論理哲学論考』では、言語を実在の写像であるとみなし、要素命題から有意味な命題を構築しようと試みていた。しかし、後期哲学においては、それらの説をすべて捨て去り、さらに語ることの奥底に立ち入ろうとしていたという。そのような時期の言動であるからこそ、納得できるものもある。
とはいえ、わたしが読んだヴィトゲンシュタインの著作は、『論理哲学論考』だけである。あらためて時間をとって、『哲学探究』につきあってみなければならないのだろうね。
●参照
○合田正人『レヴィナスを読む』(レヴィナスとヴィトゲンシュタインとの関係)
○柄谷行人『探究Ⅰ』(言語ゲームとしてのヴィトゲンシュタイン)
○小森健太朗『グルジェフの残影』を読んで、デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』を思い出した