Sightsong

自縄自縛日記

アルンダティ・ロイ『ゲリラと森を行く』

2013-06-16 22:53:20 | 南アジア

アルンダティ・ロイ『ゲリラと森を行く』(以文社、原著2011年)を読む。

インド東部、とくにオリッサ州チャッティースガル州のあたりでは、毛沢東主義者たちの活動が激しいことが知られている。そのために、わたしも、仕事をひとつ諦めたことがあった。それでも、頭の中には「危険地域」というイメージしかなかった。

<外務省海外安全ホームページ>
「(4)中・東部諸州(マハーラーシュトラ州東部地域、アンドラ・プラデーシュ、オディシャ、チャッティースガル各州の高原奥地、ジャールカンド及びビハール両州の農村地域
 「ナクサライト」と呼ばれる武装集団による治安部隊や公共施設等への襲撃事件が続いており、最近はその活動が顕著で、2010年には2,212件の暴力事件が発生し、1,003名が死亡しました。マハーラーシュトラ州東部地域においては、2012年3月に、治安部隊に対する大規模な襲撃事件等が発生して多数の死傷者が出ました。」
http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcmap.asp?id=001&infocode=2012T084&filetype=1&fileno=1

なぜ、この地域なのか。それは、大規模なボーキサイトの鉱床が存在するからだ。ボーキサイトは製錬と精錬によってアルミニウムの新地金になる。そこから、自動車やエアコンの部品、建材、もちろん大きなものにも使われる。たとえば東南アジアでは、製造業は、石の塊からではなく、既存のアルミ廃材などを溶解して固めた二次地金を使って製品を生産することが主流であり、ちょっと話が違う。しかし、おおもとの新地金を作る場合には、まず採掘を行い、水を使い、そして精錬のために大量の電気を投入することが必要となる。誰もが地金を欲しがるから、経済的価値を生むのである。

そのために、貧困層の人びとは、暴力的に住む場所を奪われ、人権を与えられなかった。真っ先に、開発に伴う環境負荷の受苦者となった。また、土地の下から得られる利益の配分にもあずかることはなかった。ここでも、住民を騙すような言辞が弄され、それは空約束にすぎなかった。

世界のどこでも、強引な発展段階にみられることだと思う。しかし、著者は話をひとくくりにはしない。森に入り、毛派のゲリラと行動を伴にし、起きていることの実態をとらえようとするのである。

警察は掃討作戦を繰り広げ、その段階で殺人者となり、強姦さえも行う。エラいものはオカネと権力。その体現者がアルミや鉄の巨大企業だという構図だ(これらの企業が掃討作戦の資金源だったという話もある)。わたしも、本書で挙げられている企業のいくつかは訪問したことがある。オリッサ州にもチャッティースガル州にも足を運んだ。もっとも、わたしの目的は環境対策であるから、間接的にも開発に手を染めたわけではない。それでも、ここに書かれている現状を知らなかったのは罪かもしれない。

現在の権力はメディアとセットである。いかに、大メディアが煽るように毛派の凶悪性を報道し、それと呼応して、政治家たちが耳触りの良い経済発展やトリクルダウン的な言説を弄したか。著者が書く毛派の姿は、それとは正反対に近いものだ。そこから、著者は、大きな物語としての経済発展や、オカネと力だけで動く経済社会や、産業転換などは不要とさえ言っているように聞こえるほどの文明論に踏み込んでいく。

言うまでもなく、極端なユートピア論である。しかし、極端なディストピア社会ばかりが視える今、おかしな現実論ではなく、このようなユートピア論に向き合うことは重要極まりない。少なくとも、ここに登場する人びとにとって、暴力に抵抗するためには、他の選択肢を取りえなかったかもしれないのだから。そして、インドでも、日本でも、問題があることにさえ気が付かない構造になっているのであるから。

著者の筆致は、相変わらず、ユーモラスで、かつシニカルだ。

毛派が子どもたちに共産主義理念を教えることに対し、メディアは「若者の思想強制だ」と叫ぶ。著者は言う。「テレビコマーシャルを垂れ流して、物心がつく前の子どもたちを洗脳することが、ある種の思想強制とはみなされないのに」、と。これだって、日本にそのままあてはまる皮肉である。

デリー市内に、ジャンタル・マンタルという昔の天文台跡がある。綺麗に整備された公園であり、わたしが訪れたときには、カップルが静かに過ごしていた。実はここは、デリーで数少ない、抗議運動が許された場だという。(貧困層の多くの人びとが集まると、臭いが強烈になり、きっと『スラムドッグ$ミリオネア』も臭いがないからヒットしたのだろう、などという軽口を叩いているが、それはともかく。)

重要な点は、その場でさえ、次第に制限されるようになってきていること。そして、ガンディーの非暴力主義は、このような多くの視線にさらされているからこそ有効なのであって、可視化されていない森の中では、ゲリラ活動があるべき抵抗の形だとしていること。

それでは沖縄はどうだろう。高江の抵抗は、少なくとも「本土」にあっては、視線すなわちメディアの報道がなされることは、ほとんど皆無であった。もちろん、そこで暴力には暴力で抵抗することはあってはならないことだ。著者も、毛派の攻撃について、「間違って警察以外の人を殺してしまった」というゲリラの発言を、さしたる批判もなく紹介している。「視線が届かない」レベルがまるで違うのかもしれないが、ちょっとこの感覚は麻痺している。

もう一点、あらゆる環境対策を信用しないことも、あまりにも極端だ。日本でも、企業が行う環境対策をすべて欺瞞だと言い放つ人に遭ったことは一度や二度ではないから、その陥穽があることはわからなくもないが。

●参照
アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』
ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
中島岳志『インドの時代』


石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」

2013-06-16 10:06:03 | 沖縄

「どぅたっち」から引っ越した「東京琉球館」。移転後はじめて足を運び、石川文洋さんの講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」を聴いた。わたしは前日に連絡があってパソコン操作係。

石川さんはベトナム戦争の従軍カメラマンとして有名であり、カンボジア、ラオス、ボスニア、ソマリア、アフガニスタンといった戦場でも取材している。来年(2014年)の8月に、ニコンサロン(新宿、大阪)や沖縄において写真展を予定されているという。これは氏がベトナムに渡ってから50年後ということになる。

石川さんは、ご自身の生い立ちから、現在の沖縄問題までを2時間以上、熱く語った。

○1938年3月、沖縄生まれ。4歳のときに「本土」に渡ったため、記憶は断片のみ。沖縄のことばは聞けるが話せない。
○お父さんの石川文一氏は、小説や映画の脚本を書く作家(>> リンク)。監督を務めた『護佐丸誠忠録』は、戦前の首里城などが記録されておりかなり貴重な映像(NHKに保存されている)。


読んだことがある『琉球の平等所 捕物控』、『怪盗伝 運玉義留と油喰小僧』の他、『琉球の唐手物語』などそそられる作品

○父方の実家は、首里の鳥堀町にあった饅頭屋(「の」饅頭の元祖)。向かい側に泡盛の咲元酒造があり、そこのご主人(故人)からは、自分の幼少時について、「ガッパヤー」(おでこが目立っていた)、「ミンタマー」(目が大きかった)、「ワタブー」(おなかが大きかった)などと言われたものだ。しかし父は饅頭屋を継がず、安里あたりで本屋兼文房具屋を開きながら小説を書いていた。母方の実家は首里の儀保町。
○「本土」では、大阪を経て船橋へ越し、小中学校時代を過ごした。母方の姓(安里)を名乗っていた。学校には、真っ赤で鬼のような顔をした「鬼畜米英」のポスターが貼られていたことを覚えている。また、軍の将校に「お前の故郷は玉砕したぞ」と言われたりもした。
○高校は定時制。昼間は毎日新聞の給仕として働いた。沖縄での米国民政府による土地一括収容、プライス勧告、島ぐるみ闘争に共感し、訴えかけを行ってもいた。
○高校を卒業し、1957年に、15年ぶりに沖縄に帰った。祖父は摩文仁で戦死していた。
那覇軍港は、朝鮮戦争直後でもあり、米軍だらけ、物資だらけ。ラジオから沖縄民謡が聞こえてきて、故郷に帰ったのだとしみじみ思った。り、10日間ほど過ごし、バスで沖縄中を回った。
○1959年に、毎日映画社にカメラマンの助手として入社した。当時は劇映画の前に必ずニュース映画が上映されており、それを製作した。ちょうど入社後に、石川の宮森小学校に米軍機が墜落した(1959年)(>> リンク)。また、60年安保反対運動を撮っているとき、すぐ近くで、樺美智子さんが亡くなった。
○1964年に、27ドルだけを持って香港へ渡った(オランダ船にただで乗せてもらった)。当時、初任給は40ドルほどだった。米国人の会社に入りたいと言ったところ、テストとして、香港でちょうど入院中だったジュディ・ガーランドを撮ってみろと命じられた。既にカメラの扱いはお手のものだったので、結果はばっちり、採用された。
○同じ1964年、トンキン湾事件が勃発(ベトナムを攻撃するための米国の言いがかり)。ベトナムに行くオカネを稼ぐため、NHKの特派員の仕事をした。なんと1000ドルを得た。
○1965年、ベトナムへ。日本テレビのドキュメンタリー『南ベトナム海兵大隊戦記』(>> リンク:永田浩三さんのブログ)の第1部を放送した直後、橋本登美三郎官房長官(当時)からの電話により、第2・3部が放送中止になった。直後に、映画からスチルに転向。

○ベトナムでは、米海兵隊に従軍した。米軍の攻撃は、村を包囲して火の海にし、その後突撃するものだった。勿論、村の中には民間人がたくさんいたが、米軍はそのことをまったく考えなかった。ベトナム戦争における民間人の死者は、第二次世界大戦における日本の民間人の死者をかなり上回っている。
○船橋には空襲がなかったが、東京大空襲で空が真っ赤になっているのを見た。
○ベトナムでも東京でも沖縄でも、犠牲になるのは民間人である。大人の起こす戦争により、子どもが犠牲になり、心の傷を受けて生き続けることになる。戦場では、自分はいつも難民キャンプを撮影するが、そのことがよくわかる。
○ベトナム戦争では、日本は後方で基地を利用させるという点で、参戦と同じだった。
○米兵は1年勤務であり、そのうち、3日間の国内休暇(ベトナム)と1週間の国外休暇が与えられていた。国外としては、日本、タイ、ニュージーランド、ハワイなどが主な行き先だったが、米国「本土」は禁じられていた(里心を懸念したのだろう)。なかでもコザでのオカネの使い方は伝説的な話になっている。
○1969年の正月に帰国しており、沖縄の北部訓練場(ベトナムを想定)を取材した。米軍ヘリの中など特ダネ写真が多く、朝日新聞から引き抜かれ、入社した。
○その1月、突然朝日新聞に請われ、屋良朝苗主席に伴って沖縄に飛んだ。機内でインタビューと撮影をした。
○屋良主席は、「2・4大ゼネスト」を前にして、住民と日本政府との板挟みにあっていた。水爆を積んだB52がグリーンランドやスペインで落ちたばかりであり、当時の沖縄にも核が持ち込まれていた。佐藤首相(当時)からは、ゼネストを決行したら「返還」が遅れてしまうこと、まもなくベトナム戦争が終わりそうだということを理由に、圧力をかけられていたという。
○結局、ゼネストは自主参加という形になった。フェンスの中で、米兵が実弾を詰めて対峙していた。おそらく内部に突入でもしたら、発砲したことだろう。そしてストの頭上をB52が飛び立った。明らかな差別・占領意識だと思った。
○沖縄の施政権返還(1972年)の直前、沖縄の多くの学校で、その是非を巡る討論が行われた。当時、独立論は本当の少数であり、「本土並み」こそが住民の希望だった。
○当時、米兵は住民を殺してもほとんど無罪であった(今に続く不公平な地位協定)。ドルの切り崩しによって(360円から305円になると、1ドルあたり55円も損してしまう)、多くの住民がだまされたとの思いを抱いた。そういった積み重ねが、現在の日本政府への不信感につながっている。オスプレイだけのことではない。
○普天間の海兵隊を大阪に移すなどと口先だけで語っている者がいる。自分は、嫌な部分を「本土」に移したいとは思っていない。行うべきことは「撤去」である。(※この点は、「県外移設論」とあわせて考えるべき >> リンク
フィリピンのクラーク米軍基地、スービック米軍基地は、日本とは異なり、利用に関して米国からオカネを得ていた。それでも10年の使用契約が切れることを機に、もう貸さないことを決定した。クラークは沖縄の基地の2倍、スービックは嘉手納の3倍も大きい基地である。その際には、大規模な米軍基地を置くことは真の独立国家としての行動か、それによりアジアの同胞たちが殺されたのではないか、非核3原則を語る資格はないのではないか、といった議論があった。翻って日本はどうか。
○既に、沖縄の基地経済は5%程度にまで落ちている。返還によって商業地域として、経済を大きく活性化させたおもろまち新都心や北谷町といった事例もある。もはや、沖縄経済を阻害しているのは基地だということができる。
辺野古には2011年12月にフェンスが設置された。銃剣で取られた自分の島であり、非常に抵抗感がある。嘉手納のせいでベトナム人が死ぬのを多く見てきた。日本が許可して、他国の人を殺すわけである。オカネをもらえばそれでいいのか。
○60年安保以降、日本政府は人びとの声を聴かない体質になってしまったのではないか。
○安倍首相が、侵略の定義が定まっていないとの発言をした。しかし、ベトナムでも満州でも、軍事力を背景にした侵略以外の何物でもなかった。なぜ政治家やジャーナリストや教育者がそれをわからないのか。日本が戦争の総括をせずじまいになり、教育もしていないためでもあるだろう。
○ベトナムでは、枯葉剤の被害者がまだ生まれている(第三世代)。第四世代でどこまで減るのか、まだわからない。
○ベトナムには、中国や沖縄と共通する文化が散見される。龍、シーサー、ひんぷん、ハーリー、ゴーヤ、なーべらー、豆腐。

終わった後、石川さんを囲み、短い懇親会。宮森小学校の事故のとき1年生だったという方(その後ブラジルに移住し国籍を取得)がいて、興味深い話を聴くことができた。

●参照
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
石川文洋の徒歩日本縦断記2冊
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
石川文一の運玉義留(ウンタマギルウ)