さっき読み終わった。やはり面白い。予備知識はなかったが、『ワーニャおじさん』で見たような構図を作者が得意としていたのがわかった。感想については今は書かない。書き始めて気づいたら膨大な量になってるかもしれないから(苦笑)
作品の捉え方という枠組みで言えば、今回もチェーホフは喜劇として書いたのに、劇場の側は悲劇的に演出しようとして意見が対立した、というのは面白かった。やはり、人はカタルシスを求める方向に傾き、ゆえに演出もまた引きずられていくものなのだろう。人の育ててきた思いや悲しみを、他者が理解できずにいる様をシニカルに表現しているところにこの作品の眼目の一つはあるはずなのだが、そういった主張よりもわかりやすさが大事らしい(チェーホフは、かなりわかりやすく、しかもわざとらしくならない程度に断絶といった構図を描いているというのにだ)。
『ワーニャおじさん』でもそうだったが、いかにも破局しそうな関係が失望を積み重ねながら続いていったり、あるいは逆にくっつきそうな人間が誰一人としてくっつかない。それを単にドラマツルギーの否定という演出面から見るのはわかりやすいけれども、実は、そういったカタルシスの欠如や登場人物の進歩のなさを見て生まれる冷笑や嘆息(「慟哭」ではない)にこそチェーホフの読み取ってほしいものが込められている、私にはそのように感じられた。本作及び『ワーニャおじさん』は、そういった人々の上手くかみ合わない関係を、鋭い人間観察で練り上げた登場人物を巧みに配置し、見事に表現していると言えるだろう。
作品の捉え方という枠組みで言えば、今回もチェーホフは喜劇として書いたのに、劇場の側は悲劇的に演出しようとして意見が対立した、というのは面白かった。やはり、人はカタルシスを求める方向に傾き、ゆえに演出もまた引きずられていくものなのだろう。人の育ててきた思いや悲しみを、他者が理解できずにいる様をシニカルに表現しているところにこの作品の眼目の一つはあるはずなのだが、そういった主張よりもわかりやすさが大事らしい(チェーホフは、かなりわかりやすく、しかもわざとらしくならない程度に断絶といった構図を描いているというのにだ)。
『ワーニャおじさん』でもそうだったが、いかにも破局しそうな関係が失望を積み重ねながら続いていったり、あるいは逆にくっつきそうな人間が誰一人としてくっつかない。それを単にドラマツルギーの否定という演出面から見るのはわかりやすいけれども、実は、そういったカタルシスの欠如や登場人物の進歩のなさを見て生まれる冷笑や嘆息(「慟哭」ではない)にこそチェーホフの読み取ってほしいものが込められている、私にはそのように感じられた。本作及び『ワーニャおじさん』は、そういった人々の上手くかみ合わない関係を、鋭い人間観察で練り上げた登場人物を巧みに配置し、見事に表現していると言えるだろう。
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