マンハイム『イデオロギーとユートピア』の覚書は一旦これで最後。「内容終わってないのになんで?」という話だが、結論「時事評論としては興味深い内容だけど、それ以上ではない」と感じたからである。
これはマンハイムの仕事自体の質が低い、というのとはちょっと違う気がする。100年経って後期近代(成熟社会)となり、思想の相対化といったことが余りにも当然になった現在では、あの時代の党派やドイツ知識人のパースペクティブを理解するという点ではおもしろいものの、そこから新しい知見を得られる感じはしない、ということである(時代背景と知識の整理、という意味ではさらに100年前のヘーゲルなどを想起するのも有益だろう)。
だから知識社会学に倣って、問題設定を「1920年代のドイツ知識人のパースペクティブ」とかにし、フランクフルト学派、シュミット、カール・バルトなどと横断的に論じるなら、まあ何がしかまとまった話が書けはするかもしれない。あるいは逆に、マンハイムの生まれたハンガリーが辿った運命にフォーカスし、共産主義革命とルーマニアの介入による崩壊、ホルティ政権の成立であったり、あるいは盟友ルカーチの行動とそれとの対比という個人史に注目するのはおもしろいかもしれない(共産主義の生々しい影響力を自覚するのに、今の我々は状況がかけ離れすぎてもいるので)。ただ、現状そこへの興味は薄い、という話だ。
まあ一つだけ将来に向けた可能性の一つを書いておくなら、このまま資本主義という構造で社会を回すことには限界があるのではないか?という問いを立てた時に、共産主義が持っていた発想が役立つことはありうる、という点だろうか(社会システムとして丸々採用するのはあまり現実的とは言えないが)。
これは「ポスト資本主義」とか、以前読んだシュンペーターの『資本主義、社会主義、民主主義』などにもつながる話だ。例えば、GAFAMやBATHといった企業による独占・寡占が進むのと並行し、Chat-GPTの目覚ましい進化が話題となっている。こうなると、富の集中がさらに進む中、政府や大企業は人々に不満を与えないように(プラットフォームを根底から否定しようという行動を起こさないように)適度な娯楽をAIなどがガス抜きとして与える(AI社会主義!)、といった社会の到来は一つの可能性として想定できる。
今この時点でそれを喜んで受け入れる人は多くないと思うが、何度も言っているように、AIの「進化」と並行して人間の「劣化」も進んでいるというのがポイントである。すなわち、技術が発達した結果、様々な誘導がしっかりしてシステムの穴が減り、それを快適に使えるようになった状態に慣れると、今度はひな鳥のように待っていても餌が与えられるような行動パターンが広がっていく(もちろん、「あえて調べずに~してみる」という私のような人間は残るが、そんなものは個人レベルの嗜好=適度なノイズとして放置しておけばよいのである←amazonよりも本屋巡りを好む人がいなくなるわけではないが、それで社会システムの変化が止まるわけではない)。
そのように変化していった一般民衆の行動が、果たして先の「AI社会主義」にどこまで抵抗を示すか、というのだが問題だ(例えば福田恆存『人間・この劇的なるもの』で述べられた人間像を反論として提起することもできる)。Chat-GPTが垂れ流す戯言は、それがもっともらしいがゆえに、一瞬知らない自分の方が間違っているのではないかと思える時がある。これはアジテーターの演出にも似て、「筋道だった話」を自信に満ちて語られると、それらしく聞こえて魅力的に感じてしまうことはしばしばある。それは不安の海に溺れ、わかりやすさという藁を掴もうとする人々にとっては、またとない救いの手に見えるだろう(ル・ボンの『群集心理』などに触れた前回の覚書も参照)。
こうして考えてみると、成熟社会となって複雑化・多様化の中で分断が進み不安が増大する中、「AI社会主義」はナチズムが急速に広がった時の状況と重ねてみることもできそうである、と今は述べておくにとどめよう(この点、1929年というまさにナチズムが大きく飛躍する直前期の社会状況を描写した『イデオロギーとユートピア』は現代に通じる興味深い部分もある)。
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てなわけで(何がだ)、次はクーンの『科学革命の構造』を読むことになった。科学万能主義に対する批判が話題に出たが、まあ「99%が仮説」ってのを実感するような教育体系に今はなってないからね。もちろん、入試における理科の考察問題のような、検証という視点を大事にする側面がゼロとは言わないし、あるいは共通テスト物理において、「仮説を立てて検証したが誤りだった」というのを問題に出すような動きもあるらしいから、仕組みを作っている人の中に問題意識を持っている人はそれなりにいるのだろう。
ただ、このような認識を自家薬籠中のものとするには、相当に知的訓練を経ていないと無理だと思う。さらに言えば、ローティ的な表現をすると、「自明と思っていたものが、そんなことは全くなかったという現実に気付き愕然とする」という経験をし、そこにどれだけ真摯に向き合ってきたか・・・というある種その人の生き方すら関係してくるのではないか(こう考えてみると、以前『人間の建設』で触れた岡潔の別の著作『春宵十話』で、彼が「学問をする時には、知識云々以前に情緒を磨くことが重要なのである」という趣旨の発言をしたこととも接続するかもしれない)。
でまあクーンの前掲書を時間を見つけて読んでいくとして、『イデオロギーとユートピア』に関しては、今述べたような事柄も絡めて、現在3つの記事を準備している。ただ、A→B→Cと直線的にいくか、あるいはA→A´→B→Cと少し変則的な形にするかは現在思案中である。
最後に、携帯にとったメモをとりあえず無加工で放り込んでおくこととする。
p168注
「存在論的決定が先立たないとすれば、そもそも経験は成り立たないであろう」
→チェスマスターは、ゲーム途中のチェス盤をほんのわずかな時間見ただけで、試合の状況を瞬時に把握・記憶する一方で、ただランダムに置かれたチェス盤の駒の配置は全く記憶できないのだと言う。人間の世界把握とはおよそこのようなもので、経験に基づく法則理解・体系化から自由であるものはなく、即ちタプララサ的な認知は存在しえない。だから人は、全体像を掴みづらい精緻で複雑な事実説明よりも、たとえそれが牽強付会なものであろうとも、単純化された体系構造=陰謀論へと容易に惹かれてしまうのである。
P171。
マルクス主義史観や社会進化論を想起。人類はある方向に向かっていくものであり、それを善とみなす思考様式。そして社会進化論が後期ロマン主義と結び付き、あの悪名高い優生学やナチスを産み出したことはよく知られているところである。
マルクス主義史観や社会進化論を想起。人類はある方向に向かっていくものであり、それを善とみなす思考様式。そして社会進化論が後期ロマン主義と結び付き、あの悪名高い優生学やナチスを産み出したことはよく知られているところである。
p172。
恍惚主義者、法則性を科学的に見出だす者、世界の偶然性を意識する者の三様に大別できそうだ。恍惚主義者とは、言ってみれば全てを神の采配とみなすような立場だろう。疫病と神の罰。そこから神義論的なものも表れる。
恍惚主義者、法則性を科学的に見出だす者、世界の偶然性を意識する者の三様に大別できそうだ。恍惚主義者とは、言ってみれば全てを神の采配とみなすような立場だろう。疫病と神の罰。そこから神義論的なものも表れる。
その否定を通じて法則性を見出だそうとする立場は、もちろんマルクス主義史観が代表。しかし、そこに限定せずとも進歩史観的な見方にはとらわれやすい(それと対照的なものとしてピダハンを想起)。だが、わざわざヒュームを持ち出さなくても、実証主義的視点で様々な事例を仔細に分析すれば、ある特定の法則性を見出だそうとする向きには恣意的な捨象が常につきまとうものである(完全情報をつかめない以上、この傾向は決して免れえない。ただし、このような人間の必謬性の留意を、「だからあらゆる一般化・法則化は無意味である」と極端な思考につなげることは厳に慎まなければならない)。では科学万能主義は?自然科学なら誤謬は生じないのでは?ゲーデル、ハイゼンベルク。その世界においても、やはり無矛盾は存在しない。つまり実証を積み重ねれば、たとえそれが紙の一枚のような薄いものであっても、いずれは天井(アカシックレコード)に到達する、といった世界理解も間違っている。
最後の立場は、「人類の存在に論理的必然などない」といった認識にもつながる。
p178.
無利子貸付。イスラームのリバーとイスラーム銀行を想起。ワクフの公益性。江戸時代の共同体における貸付分の回収法。つまり額面通りの金額回収が難しい場合、差し押さえなども確かに行われるが、生活家屋のような生活を維持するための一定の~は残した上で、それ以外が回収できればよしとする仕組み(同じコミュニティの者=分心的存在として、契約内容の履行徹底よりその生活維持が優先される)。近代にはこれが崩れ、当世風の契約主義に基づいた回収が実施されるようになる。あるいは室町など中世に行われた国質や郷質との比較対照もおもしろい。
無利子貸付。イスラームのリバーとイスラーム銀行を想起。ワクフの公益性。江戸時代の共同体における貸付分の回収法。つまり額面通りの金額回収が難しい場合、差し押さえなども確かに行われるが、生活家屋のような生活を維持するための一定の~は残した上で、それ以外が回収できればよしとする仕組み(同じコミュニティの者=分心的存在として、契約内容の履行徹底よりその生活維持が優先される)。近代にはこれが崩れ、当世風の契約主義に基づいた回収が実施されるようになる。あるいは室町など中世に行われた国質や郷質との比較対照もおもしろい。
p179.
フロム「自由からの闘争」、ジュジク「イデオロギーの崇高な対象」も参照。モナド化・危機意識・不安→「帰ってきたヒトラー」の演説を想起せよ。
フロム「自由からの闘争」、ジュジク「イデオロギーの崇高な対象」も参照。モナド化・危機意識・不安→「帰ってきたヒトラー」の演説を想起せよ。
p182-3
今日ではポストトゥルースやオルタナティブファクトやらでこの現実認識の多層性と分断はより自明なものとなってきている。なお、これを加速化・可視化したものとして、インターネットとそこで生じるサイバーカスケードを指摘することができる(サンスティーン)。そしてAIは、単に提起する情報だけでなくそれへのスタンスの違いも含め、この傾向をますます促進していくだろう。[2]の注釈→思想にはどれだけ慎重に取り計らっても党派的要素が残るという事実と、だから思想とはその程度のものであって、必要に応じて日和見主義的に摘まみ食いするのが合理的だ、という態度を同一視すべきではない。
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