感想:『カーニヴァル化する社会』

2006-02-13 23:02:54 | 本関係
鈴木謙介著で講談社現代新書より2005年に出版。題名から連想した人もいると思うが、ネットにおける「祭り」などを扱う。また社会のデータベース化の加速、それに基づいた「監視社会化」についても考察している。社会学によるアプローチが特徴。また、「カーニウ゛ァル化」する状況に対し「~べき論」や「説教」を出すのではなく、その実態をしっかり把握する作業に力を入れる段階だ、といったような現象学的な視点での警鐘を鳴らしている。興味深い指摘としては、内省ではなく自己再帰化を基軸とする「嗜癖」(自らの基準に溺れる)、「祭り」の流行を分析しての「感動の自己目的化」など。「嗜癖」については、このブログで内省や自己の対象化、前提を疑うことなどを常々書いているので興味深いものだった。また、「感動の自己目的化」については、「Kanonを斬る」や「奇跡による救済の話:感動モノと宗教」で扱った内容が広い範囲と繋がる可能性を認識できた。

ただ、自己の統一性があるかのような書き方には疑問を感じた。本書はおそらく社会学上の「自己」や「個人」の概念を用いていると推測されるが、現代の「分断された自己」という表現には、定見を持たない刹那的な行動様式という実態の提示以上の何かを感じた。「統一的な自己」が構想されていることは以下のような記述からも確認される。すなわち「もはやデータベースも、無限にある「私」も、統一的な私のイメージを保障してはくれない。必要なのは、その都度ごとの私に要求されるリアクションを的確に把握することと、それらの要求の間の矛盾をやりすごすような態度なのである。世界を把握する視座が欠落し、自己像が分断されていくと、その後に残るのは、一種の「宿命論」とでも呼ぶべき事態だ。」(164p)ここにある「統一的な私のイメージ」は「統一的な自己」と言い換えて大過あるまい。だが、「自己の統一性という欺瞞」で述べたように、自己の統一性など存在しないし、また自己を規定する行為がいかに恣意的なものかについても以前述べたとおりだ。その前提から言えば、そもそも自己に統一性があるという観念自体、「かくあれかし」という願望に基づいた「幻想」に過ぎない(そう考えると、「分断された自己」という概念もまたフィクションと言える)。ならば、自己の統一性といった表現は、むしろ別の「嗜癖」を生み出す危険性を持っていると言える。ゆえに、「分断された自己」といった話をするなら、「自己」の定義付けを詳しくする必要があったと思う

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