薬物が一種の拡張現実として人間の可能性を広げるという発想は、ヒッピーカルチャーやニューエイジなどと結びついて一つの潮流をなした。そのような潮流を一部受け継ぎつつ、拡張現実を技術によって成し遂げようとする考えは、批判的に「カリフォルニアン・イデオロギー」と呼ばれるようになった(ただし、そのような統一的思想のようなものがあったのか?という点は大いに議論の余地がある)。
今日でも、このようなスタンスはメタバースにまつわる評価や「新反動主義」という形で続いており、いわゆるシンギュラリティをテクノ・ユートピアとしてみなすような態度もその一つに挙げられるだろう。もう少し具体的に言えば、これは成熟社会化による多様化・複雑化で社会の分断が進んでいる現状とも関連しており、民主主義への懐疑・機能不全(=近代的理性や啓蒙主義の限界が広く認知されること)を元に、不完全な人間が他者とコンフリクトもしつつ熟議をするより、個々人は技術の中でノイズを排除して安楽に暮らし、政治的決定はAIに決めてもらう社会の方がよくないか?という発想である(こういった状態に到るため、問題点を手当てするのではなく、むしろ促進してゲームチェンジを余儀なくしていこうとする発想を大まかに「加速主義」と呼ぶ)。
だいぶ飛躍した発想に思われるかもしれないが、先日書いた大量のコンテンツ消費とコスパ志向が全面化する傾向を踏まえると、このようなスタイルにマッチする(しそれを望む)人間が増えていくことはそれなりに可能性が高いと私は考える。つまり、他者の人格や意見の内実、あるいは政策の内容と問題点を吟味・熟議するより、インスタントにわかりやすくフレームと結論だけ教えてもらうことを望む人が増えるわけだが(あるい意味「で、オチは何?」という質問はその典型)、そうすると感情や意見を表明する側も、実態はどうあれ相手に理解されるためにノイズを極力排し、わかりやすい結論や動員のフックを準備することになる(要するに、ちゃんと考えられているし考えたい人も、相手にその考えを届かせようとすれば、極限までその意見を単純化する形で相手に合わせざるをえなくなる)。
このような状況はすでに「ポピュリズム」という手垢のついた単語で何度も語られているわけだが、その傾向が加速する兆候として、先のコスパ志向の全面化は捉えることができるのではないだろうか。こうして、社会情勢や消費環境、つまり外部環境の複雑化とレセプターとしての変化(劣化?最適化?)が並行することで、夢想に思えるテクノ・ユートピアを実際に望む人間が増えていく可能性が高い、というわけだ(もちろんそれを望まない人間やその流れに掉さそうとする人間もそれなりの数残るが、分断はより進み、結果として先のような傾向の促進は止まることがないため、熟議民主主義はますます旗色が悪くなっていく、というわけだ)。もちろん、それだからと言って2049年という年に突然世界中がAIに覆われて人間が意見を取りまとめて行う民主主義は終焉を迎える、などという0-100のような展開はほぼ起こらないだろう。とはいえ、今後のトレンドとして熟議型民主主義を機能不全にする要素はどんどん増えていくので、陰謀論の跳梁跋扈はもちろん、アメリカで生じた議会襲撃事件のような出来事はますます増えていくのではないかと思う次第である。
さて、冒頭の動画を掲載しつつこのような内容を書いたのは、永平寺(禅寺)訪問に絡めて宗教やイデオロギーの話を書いたタイミングで、薬物による「拡張現実」と宗教や技術革新の関連を扱ったものとして補助線に有効だと思ったからである。さらに言えば、以前の「映画はカルトをどう描いてきたか?」の動画においては、いわゆる「神秘体験」について宗教・薬物・身体性の問題にも言及されていたので、そことも繋がる話題と考えている(オウムが薬物を投与して神秘体験をさせていたのはよく知られた話だろう)。
ポイントは「所属の欲求」と「承認の欲求」だが、記事がそれなりの長さになったのでまた別の機会に書きたいと思う。
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