兎鞠まり×中野という絶妙なコンビについて紹介したのはもう五か月前のことになる。そもそもは、兎鞠まりが中野にドッキリを仕掛け、それを動画で流すというものだったが、ゲームの内容も相まって、絶妙な噛み合わなさと真相が曝露された時の落差がおもしろくてつい何回も見返してしまうほど素晴らしい出来になっていた。
まあその動画を編集したのがドッキリを仕掛けられた中野自身であるというのがまた面白く、有能でしっかりした兎鞠がそれを依頼するということは、それだけ豪胆で、かつ有能な人であろうことを予測させ、それが中野というVtuberに注目するきっかけとなったわけだが、今年の初めから4月にかけてずっとわちゃわちゃしていたので、なかなか継続的に追いかけるのが難しく、中野が体調不良で兎鞠とのコラボを中止した後、どうやらコラボしていないらしい(これはサムネとか見ているレベルでなので自分の誤認かもしれない)という認識で自分の中では止まっていた。
で、今回随分久しぶりに動画を見たわけだが、一時伸びが鈍かった登録者数も急速に増え、もう5万人を超えたというのを知り「頑張ってんだなあ・・・」とどこから目線なのかわからない謎の感慨に浸った次第であるw
さて、Vtuberの認知度が上がってきたからこそ、ちゃんと戦略を考えてない人は生き残れない「Vtuber戦国時代」が到来しているとも言えるが、冒頭で紹介した二つの動画は、直接的ではないにしても、中野の特徴(バイタリティや行動力)をうかがい知る上では参考になりそうである(まあこれだけ特異な状況だと容易に身バレするだろうから、ある程度言葉を選んで動画にしているためあくまで輪郭がわかる、というぐらいの話だが)。
この中野の行動パターンについては様々興味深いところであるが、一つだけ取り上げておくなら、「女の子と付き合っていた」という部分だろう。なぜここに注目するかと言うと、中野が話しているのは地方あるあるの一つで、要はその環境で埋没するのが嫌だということで都市部に出た言えばありふれた話ではある。
しかし、彼女がそのように周囲を相対化し、かつ大学進学という選択をするでもなく、そこから自腹を切ってでも都市で就職・生活することになった原動力には、地方におけるノーマライゼーション(動画でも言われている高校卒業したら就職→結婚するのが当たり前でしょという認識)の抑圧を相対化する視点があったのではないだろうか。その背景の一つが、環境が当たり前として提示する規範・抑圧とはどうしても相容れない部分を彼女が持っており、彼女の場合はそれを抑圧するのではなく、その環境自体が提示するものが所詮一つの価値観に過ぎないと相対化することに繋がったのではないか、という話(これは自分のブログで言うと「宗教と思索」や「嘲笑の淵源」になるわけだが、このテーマについては今書いている利他と絆の話に絡め、ある文学作品を軸に掘り下げる予定である)。
編集をきっちりできる動画であえてこの話を入れてきたところからすると、いずれこの話題にはまた触れるつもりなのかもね、と予測しつつこの稿を終えたい。
【動画の感想】 ※特に編集してないので読みにくさ満点がございますよと
Vtuberの上澄みだけ見て雑談で金を稼いでいるだの言っている人たちは、テレビのレギュラー番組に出ているお笑い芸人見て「お笑い芸人は楽だ」と言っているのと同じくらい無知。
「教育格差」の構造。環境が天井を作り出す。
地方あるある。
九州出身なのでわかる部分も。女子に対しての眼差し。何でわざわざ大学行くの?何でわざわざ都市部行くの?って話。
それを合算すると、「高校卒業したら地元に就職して結婚」・・・というルートしか存在しないような。
マイルドヤンキーと閉鎖性。
(地方言うても千差万別だけどな)
これがノーマライゼーションの地獄。
まあ言うて中野の親の場合は自分で稼ぐならOK出してくれただけでもマシな方ってヤツかもな。ただ、これも子どもの見通しが甘かったりすると、ただ可能性をすり減らしてUターンしてくるだけなので、単に親などを問題視するのも違うだろうと。
マイケル=サンデルの真意。努力できるのも「運」のうち。自由意思至上主義への警鐘。
内容的には相当踏み込んでいるので、様々危険性も考慮して動画という形で発表したんだろう。
それにもかかわらず「付き合っていた女の子」というフレーズを入れてきたのは この後いずれ話すつもりだからか?
それなりに抑圧の強い(ノイズを許さない)環境で、彼女がそういう性質を持っているのならば、彼女がそこに価値を見出さず脱出をした一つの要因はそれかもしれない(この話はある文学作品に関連していずれ述べる予定でいるので、ここでも少し触れておきたい)。
コメントには、中野の行動力や気遣いを賞賛するものが多い。変に斜めった視点で皮肉を言わず、ストレートに褒めているのは良き。
そこでは中野みたいには行動できない・できなかったというものがよく見られるが、一つの理由は「自動的な人間が多すぎる」からかな。
前に月ノ美兎が配信した死生観の件で、自分が「大人になりたくない」というクリシェに対して、違和感しかなかったと書いた。「何で『大人』とやらに自動的になれると思っているのか」ということ。これは嘲笑の淵源ともおそらくつながる。
ただでさえノーマライゼーションとリスクヘッジマインドが強い日本社会において、「自動的な人間」がレールから外れることなんてできるわけねーわ(ただし、レールから外れることだけを夢想して、別の方向性の特徴やリスクを調べようともしないのは同じくらいお話にならない)。
仮に他と同じに見える選択をするにしても、他にどんな可能性があるのかを踏まえた上で再帰的にそのありふれた選択するのでなければ、ね。
自分が可能性がありそうな人には海外に行ってみることを勧める理由。
海外に行けば安泰なんて話じゃあない。ユートピアとは、文字通り「どこにもない」のだから。
そうではなく、狭い世界でこれしかないという生き方をしていれば、いざとなった時精神的に追い詰められるだけ。そして子孫を残したとしても、(良かれと思って)そういう価値観しか伝えられない。
こうして悪気なく「茹でガエル」になっていくのである。
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