Englishじゃなくて、“Englishes”ダルォォォ!?

2020-05-16 17:25:00 | 感想など

 

 

 

 

 

 

この前「南部式英語」というアグレッシブな英語を紹介しているksonについて書いたが、他にもアメリカ英語とイギリス英語、その他の地域の英語(くくり雑スギィ!)と英語の多様性は相当なもので、紹介されている南アフリカの英語のように、多文化との混淆などを通じて語彙や表現に独自性が生じたりする。これは日本だと南蛮貿易でポルトガル語由来の語彙が入ってきたことなどが思い出されるし(例:ポン酢)、そもそも英語自体が北フランスにいたノルマン人による征服・支配によってフランス語の語彙が相当入ってきたという歴史的経緯もある。

 

とはいえ、英語発祥の地イギリスが最もクラシカルな形をしているわけでは必ずしもなく、むしろアメリカ英語のように周縁的な英語にこそ昔の面影が強く残ってることもある(これは日本の方言も同じで、前に紹介したところでは、例えば自分の出身である熊本には奈良時代の連体修飾格の「が」が残っており、「おるが店」で「俺の店」という意味になったりする)。

 

これについて私が受験英語で思い出したのは、いわゆる「要求・提案のshould」と呼ばれるものである。高校でこれを習う時は「suggestやorderのような動詞の後ろにthat節がくる場合、その中の動詞はshould+動詞の原形となるが、shouldは省略してもよい」などと説明される(余談だが、suggestには「暗示する」という意味もあり、こちらの場合だとその現象が起きない・・・なんて引っ掛け問題もある)。

 

これはどういうことかと言えば、省略可能という表現は正確に言えば違っていて、アメリカ英語ではそもそも動詞の原形のみで、イギリス英語ではshould+動詞の原形となっており、アメリカ英語が元々のshouldを省略するようになったのではなく、動詞の原形のみというのがクラシカルな言い方であって、そこに後程イギリス人がshouldをつけ始めた(からイギリス英語ではshould+動詞の原形になった)ということらしい。つまり、繰り返しになるが、shouldが省略できるとか省略されるようになったのではなく、アメリカ英語の方がむしろ古い形を残しているのである。

 

ここでちょっと話が逸れるが、そもそもどうして英語では要求・提案動詞の後には動詞の原形などを用いていたのだろうか?そう考えてみると、実は英語に「未来形が存在しない」と言われるのにも繋がるのだが、英語では動詞の原形が「未完了」というニュアンスを持ち、それゆえに要求・提案される行為=まだやっていない→未完了の意の動詞の原形で表すという構造になっているようだ。

 

これだけ聞くと何じゃそりゃと思われるかもしれないが、実は命令文(Be quiet!がわかりやすい)、不定詞の「未来志向」、助動詞が「推量」や「許可」、「潜在的可能性」の意味を表すなど、様々な事項に関係している。言うまでもなく、命令文は相手が「まだやっていないこと」を命令するわけだから未完了を表す動詞の原形を使うし、不定詞は動詞の原形=未完了だから「まだやっていない」や「これからやる」で「未来志向」となるし、助動詞は動詞の原形で未完了→未確定だから「推量」なのである(もちろんここには助動詞が持つ「主観性」というのも深く関わっているが、それは南部式英語の記事で述べた仮定法などとも深く関係している)。

 

なお、これを中学英語でやったことに置き換えれば、このような動詞の原形=未完了のニュアンスがあるために、will+動詞の原形やbe going to doは「未来」を表すということになるわけだ(ちなみに未来=動詞の原形とまで言い切るのは誤りだ。というのも、現在進行形や現在形で未来のことを表すケースも存在するからだ)。

 

ちなみにこのような「未完了を表す形」というのは耳慣れないものと感じられるかもしれないが、日本語にも「未然形」というものが存在しており、必ずしも遠い世界の話ではない。また、英語のインド=ヨーロッパ語系と同系統のギリシア語や、それとは違うセム語系のアラビア語などにも未完了形というものが存在するなど、こういった表現方法は様々な言語で見られるというのが興味深い。

 

話を戻すと、以上のような理由で要求・提案動詞の後ろにthat節がくるとその中では動詞の原形を使うという慣例(さっきの話でいうと命令文≒orderのケースが最も近いと言える)が存在していたわけだが、それがアメリカ英語ではそのまま残り、イギリス英語では変化したというわけである。

 

こう考えるならば、このブログで扱っている宗教のことも含めて、「どの英語が正統か異端か」などと考えるよりむしろ、その多様性や個別性を理解しつつ、多言語も含めた普遍性を発見して楽しむような姿勢が望ましいのではないかと思う次第である。


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