これは天動説という「教義」が世を覆っていた頃に、地動説の可能性を探求しようとする人間たち(とそれを弾圧しようとする者たち)の話である。
自分がこの漫画を勧められた時、頭に浮かんだのはフラットアーサー、すなわち地球は平面だと主張する人々のことであった(間違ってもアルトリア=ペンドラゴンの仲間とかではないw)。
こちらの動画を見ればある程度外殻はつかめると思う。それを踏まえてこの主張から感じたことを述べれば、「何かを証明するという行為よりも、その前提となる部分が極めて重要」ということだった。例えば以下の通り。
・地球球体説を全面的に信じる
・地球球体説には疑問を差し挟む余地がある
・地球球体説は間違っている
・地球平面説が正しい
これらは、似て非なるものだとわかるだろうか?
他にもこういう思考実験をしてみてもよい。仮に死後の世界があると証明されたとしよう。それはすなわち「キリスト教やイスラームの教義が全て正しい」ことを意味するか?答えは否だ。
もっとストレートに言うなら、地球平面説やその信奉者には「0か100だけ」という思考的閉塞が見て取れる、ということだ。それは端的に言えば、仮説への態度が硬直的というか、物事を括弧に入れて考える(妄信はしないが、それを直ちに全面的に疑うことに直結させない)行為ができない、ということと同じだ。なるほど現代科学や地球球体説という既存の枠組み、あるいは「権威」を疑うのはいい。しかし、その感覚に踊らされて過激な懐疑主義に身を委ねるのは、陰謀論にコミットする人間たちと同様の精神構造ではないか。
また、フラットアーサーが自己の言説を主張する時に見られる「実感に反する」という立脚点(なお、これは「チ。」の冒頭にも出てくる発言だ)も極めて重要なファクターだと思う。あえて最初に言ってしまえば、これは「実感信仰」とでも名付けることができ、この愚かしさ・危険性を理解するには、ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という金言を思い出すのも有用だろう。
実際、歴史を学んでいくと、極めて「合理的」と思える戦略や行動が、誰一人として完全情報下にないがゆえに、「自分たちから見た合理的戦略」となり、そして少しづつずれたその合成が、歴史をとんでもない方向に向かわせていくことは少なくない(それを端的に述べた言葉が「事実は小説よりも奇なり」だし、その典型は第一次世界大戦の勃発とその経過だろう)。言い換えれば、歴史を学ぶことで、自分のこれまでの経験と論理的思考力を頼んで下した決断であっても、容易にあらぬ方向性にいくことがありえると理解できるし、またそれゆえにこそ相手の選択肢を減らす「外交」という戦略が重要で、また行動にあたっても「プランB」のようないくつかの可能性を想定しておくわけである(完全な他者は「忖度」なんぞしてくれないからね)。
その他にも、「実感が即ち正しいわけではない」という事例には暇がない。その典型は「ニュースで凶悪犯罪の報道が多くなされるので、犯罪は増えていると思う」であるが、その「実感」も統計データを見れば誤っていることがわかる(まあこの場合「マスメディア」と「ニュースバリュー」という別のファクターもあるわけだが)。あるいは様々なパラドクスや行動経済学など、社会科学の知見を取り上げることもできるだろう。
そしてこういった知見から、「実感は一つの判断材料に過ぎない」とわかる(これは「人間の必謬性に対する戒め」と言い換えてもいい)。そしてだからこそ、何らかの法則を打ち立てるにあたって、「実証」が重要なのであるとも言えるのである(なんて話を21世紀にもなってやってたら、ロジャー=ベーコンも草葉の陰で泣いてるぜよって話だ)。
というわけで、今回はフラットアーサーの話から広げて、地球平面説そのものというより、そのような発想、より正確にはそういう言説に固執したりそういったものへ容易に引き込まれる思考態度について批判的に書いてみた。
もちろん、こういった話題を扱うならば、エラトステネス、アリスタルコス、プトレマイオス、イドリーシー、ピエール=ダイイ、トスカネリ、コペルニクス、ジョルダーノ=ブルーノ、ガリレオ=ガリレイ、ケプラーといった先人たちが、それこそ命の危険を冒しながら構築していった営為に対する、ある種の冒涜云々と述べるスタンスもありえるだろうが、「何かに疑問をいだき、仮説を立ててそれを検証してみようとする行為」そのものは科学的であり、そういう方向性で書くのはちょっと違うなと思った(というより、こういう「穏健な懐疑主義」に基づかないならば、厳しい言い方をすれば、今ある学説の妄信と何ら変わるところがなくなる。なお、念のため述べておけば、今日では地球平面説や天動説を唱えても火刑に処されることはない、という点で宗教が社会を覆っていた当時と短絡させるのは誤りである)。
しかし、すでに前述したように、仮に地球球体説に疑義を挟む余地があると考えたとしても、それに対する反証がお粗末なもの(まして地球平面説にこじつけようとするもの)であれば採用するにあたらないし、ましてその土台が「実感信仰」に基づく部分が大で、最初からその実感の正しさを証明しようというような、ある種「結果から逆算する転倒した意識」に基づいているとすれば、それは学説以前の問題だと言えるのではないだろうか(もっとも、こう書いていると思い出すのはジョナサン=ハイトの「象と乗り手」の喩えであり、直感が正しいと思っている人間に理屈で説き伏せることは実のところ極めて困難な作業なのだが)。
言うまでもないことだが、現代科学は万能でもなければ絶対的真理でもないが、「そこで唱えられている説と逆(?)のものが真である」ことの間には、超えられない巨大な溝があることを理解せねばならない。
そしてこのような構造は、ひとり科学に限らず歴史などについても言えることであり、陰謀論が猖獗を極めている今日においては、フラットアーサーの思考態度というのは「イロモノ」のように扱うべきではなく、一つの典型例として(教訓的に)広く共有すべきものだと考える、と述べてこの稿を終えることとしたい。
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