『ダンジョン飯』のことを書いたらpokosukeから他の作品を勧められたので、『竜の学校は山の上』・『竜のかわいい七つの子』・『ひきだしにテラリウム』の三つを読んでみた。結論は・・・おもしれえ!!!正直なところ、ダンジョン飯は『テルマエ・ロマエ』のようにネタが先にあって人間関係や世界観がくっついてくる作品だと認識していたが、むしろ後者をこそ描く名手だったとはね・・・見方が大きく変わるとともに、今後のダンジョン飯がますます楽しみになりました。
ここからはちょいとばかし作品の感想を書くが、最初期の作品を集めた『竜の学校~』に彼女の作品の特徴が最もよく表れているように思うので、これを取り上げてみたい。さて、同書の構成は大まかに言って以下の二つで成り立っている。
1.前半:「魔王」の存在するRPG的世界→「帰郷」・「魔王」・「魔王城問題」
2.後半:現代にケンタウロスや天使などが存在するファンタジー的世界→「現代神話」・「進学天使」・「竜の学校は山の上」
この1と2の中間に、宇宙人が「魔王」を生み出しその由来を知らず倒す人間という話が挿入されているので(つまり1と2の中間的な話なので)、意図をもってこのような構成にしているのは疑いない。ところで、この短編集の最後は「くず」という珍妙な題名かつファンタジー要素の全くない話で終わっているのだが、これがまたおもしろい。詳しくは実際に読んでいただきたいので書かないが、作者が「人間の在り方を描く」ことに強い興味を持っているのがうかがい知れるからだ。そのような視点で見ると、先ほど1・2と二つに構成を分けたし確かに雰囲気や世界観は違うが、根底にあるのはすべからく人間存在をいかに描くかという点で共通していることがわかる(1については「LIVE A LIVE」や「ドラクエ4」などが類似の視点をもっている作品として挙げられる。また「魔王城問題」に出てくる軍隊の支援がなかったというのはRPGゲームによくあるネタとして消費することもできるが、現実世界で考えた場合はソ連の支援の約束を信じてナチスの支配に立ち上がったポーランド人たちが、結局支援を得られず見殺しとなり10万人が死んでいったことなどを連想することもできよう。2に関しては、結局のところ「異形」とは人間を写す鏡でしかないのだと私は考える。たとえば敵味方関係なく粛清・処刑を行ったヴラド公がドラキュラのモデルとなり、化け猫は結局現実の猫のモデルでしかないがゆえに蝋燭を舐めるし、あるいはサイクロプスが製鉄と結びつけらるのも、その作業の結果目を傷めてしまうからだ)。
なるほど確かに、この短編集で描かれる、人間にとっての諸々の「異形」(と言って語弊があるなら「他者」)について作者が温かい眼差しをもって書いていることはそこかしこに傍証があるし、彼・彼女らが人間を際立たせるためのただのガジェットであるというのは言いすぎだろう。しかしそれでも、作品の根底には、それらとの交流・関係性を描くことによって、人間存在というもののシルエットを浮かび上がらせるという狙いがあるのは疑いない。たとえば、「現代神話」で描かれる「猿人」と「馬人」を移民問題に読み替えることも、「竜の学校は山の上」に我々の環境保護のあり方についての問題を見て取ることも容易いだろう(ついでに言うと、後者の中に人間による環境保護もまた一種の「エゴイズム」なのだという視点がきちんと織り込まれている所がすばらしい。この観点が抜けると、なぜある生物は保護される一方で、マラリア蚊やツェツェバエなどは保護の対象として全く顧みられないのか説明がつかなくなる)。このようにして、様々な「他者」を登場させることで、読者がよりスムーズに、人間そのものの在り方(他者との関係性など)について考えられるような作品群になっていると言えるだろう(リアリティラインを上げると傑作『ヒヤマケンタロウの妊娠』になり、もう少し緩い展開にすると『ニアアンダーセブン』になると言えば、多少は通じるか?ちなみに人間以外の存在で実存・宗教的エートスを描いたという点では、灰羽という存在の不可思議さゆえにその存在の揺らぎや苦悩を自然に題材とできた「灰羽連盟」が最も優れたアニメであるように思われる。)
このような描写はいわゆる共生の話とも「オフビート」感の話ともつながるのだが、それはいずれ別の機会に書くことにしたい。
【追記】
ちなみに私が最も感銘を受けたのは、『竜のかわいい~』に所収されている「狼は嘘をつかない」である。詳しくは書かないが、あえてリアリティラインをぼかしておいてからの本編、という展開は実にすばらしく感銘を受けた(私でさえもブログを書く際にヒメアノールの感想を書くに際して「嘲笑の淵源」や「私を縛る『私』という名の檻」を事前に書くなど、読者が記事を読む文脈規定の一環としてどこに何を配置するかを意識することがあるからだ)。このような演出を見るにつけ、結局連載という縛りが漫画の可能性を殺しているのだなあ、という思いを新たにしたのであった。