「九段の母」から見る神仏習合の実態と神仏分離の影響度合い

2023-06-04 11:49:28 | 宗教分析

 

いきなりだが、ちょっと次の歌を聞いてみてほしい。

 

 

これは昭和14年に大ヒットした「九段の母」という歌で、亡くなった息子の慰霊のため九段下にある靖国神社を訪れた時の様子を謡ったものである。

(一)
上野駅から 九段まで
勝手しらない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり
せがれ来たぞや 会いに来た

(ニ)
空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
神と祀られ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに

(三)
両手あわせて ひざまづき
拝むはずみの お念仏
はっと気づいて うろたえました
せがれ許せよ 田舎者

(四)
鳶が鷹の子 産んだよで
今じゃ果報が 身に余る
金鵄勲章が 見せたいばかり
逢いに来たぞや 九段坂 

 

ここで注目したいのは、3番にあたる「両手あわせて~田舎者」の部分だ。「金鵄勲章」のくだりからも予測がつく通り、これは「軍国歌謡」という一種のナショナリズム高揚中の世相(昭和12年から日中戦争が始まっている)にあやかった歌であるわけだが、それにもかかわらず、「靖国神社で念仏を唱えている」という点に着目したい。宗教儀礼の「べき論」でいえば、神社に来て手を合わせて念仏を唱えるという仏を拝むのは場違いと言えるだろう(作詞者がそれに自覚的なことは、「はっと気づいてうろたえました」のフレーズからも伺える)。

 

要するにこれは、いくらお題目として神仏分離を唱えようが、実態としては神仏習合の世界で生き、かつ葬儀は仏式が当たり前だった中(神葬祭は明治初期に多少あったが定着しなかった)、死者に対する弔いの気持ちの表明として、つい手を合わせて念仏を唱えてしまったという行為が表出したと理解できる。加えて重要なのは、この歌が大いにヒットしたことであり、つまりはこういう現象が(当然とは言わないまでも)ありふれたものとして理解され、非難・訂正を求めるような類の行為ではなかったことだろう(それがたとえ昭和14年=1939年という軍国主義が隆盛していた時期であっても)。

 

さて、日本人の宗教意識について述べられる時、多神教という要素と宗教的混交が必ずと言っていいほど取り上げられる、という点に異論を挟む人はそういないと思う。しかしその割には、そこと抵触しそうな明治維新での神仏分離令や廃仏毀釈運動に言及するケースが少ないのに驚きを禁じ得ない(始めからそんなもんに興味はないという人がスルーするのはわかるとして、そういうのについてあれこれ発言している人たちさえもが触れないのは、なかなかに不思議なことだと思う)。

 

まあそういうわけで、少々挑発的に廃仏毀釈を日本版「文化大革命」として記事を書いたこともあるわけだけど、実際には先の「九段の母」とその流行に関わるように、一般民衆の宗教意識という観点で言えば、神仏分離と廃仏毀釈の影響は限定的だったと考えられる。もう少し整理すると、

1:それが徹底されたか否かは地域性がかなり強い

2:それが一般民衆のレベルで宗教意識に大きな影響を与えたかは疑わしい

3:今日でも、神道と仏教が厳密に分けられていないことに対してそれほど違和感を持たない人は多い

あたりが指摘できるだろう。

 

まず1から。
これは『神々の明治維新』『仏教抹殺』などでも言及されているが、廃仏が徹底的に行われた鹿児島や隠岐などの該当地域では、いまだにその地域で仏像を拝まないなど、影響が色濃く残っている(これについて、鹿児島や水戸などは尊王の気風が強いという江戸時代からの連続性を指摘できるケースもあるし、寺檀制度という仏教教団優遇策への地域社会の反発、あるいは派遣された統治者のパーソナリティが運動の過激化につながっているケースもある)。

 

しかし一方で、廃仏の動きがそこまで広がらなかった地域も多く、また廃仏の動きに寺院や地域住民が抵抗し、そのうちに廃仏運動の過激化を懸念した政府の通達により運動が徹底しなかったり未遂のまま終わったりして、揺り戻しが起こって元の鞘のようになった地域もあったのである。

 

では2に関して。
1で述べたように、神仏分離令や廃仏が強い影響を与えたのが一部地域に限られるなら当然という話でもあるが、ここで冒頭にて引用した「九段の母」を思い出していただきたい。以前の「日本人の『信徒』に関する基準」でも言及したように、明治~昭和戦前期の宗教意識を定量的に示すデータは少ないが、こういった消費文化の動向などからその実態をある程度まで探ることは可能だ。で、この「九段の母」とそれへの反応について少し踏み込んで言えば、一般民衆の多くは、神仏分離という公式見解や儀礼の差異という「べき論」を多少認識はしていたものの、実際の宗教意識としては、それらを分けてなど全くいなかった=神仏分離は全く徹底されていなかったものと考えることができる。というわけで、3に到ると。

 


さて、今回この神仏分離の話を取り上げた理由は3つある。1つは、日本人の特徴なるものが宗教的混交だと言うのなら、このイベントを避けては通れないということ。もう1つは、他方でこの事件のインパクトに引きずられて影響を過大評価するのは避けねばならない、ということ。そして3つ目は、「べき」と「である」の取り違えに慎重になる必要がある、ということだ。

 

3つ目について、少し詳しく説明したい。まず、「九段の母」とそれへの反応から見て、政府は確かに神仏分離を公式見解としているが、一般民衆の宗教的帰属意識や宗教行為はそれと乖離していた、と言える。ただし、当局へのポーズの部分もあるにせよ、神社で手を合わせて念仏を唱えるのはあるべき姿とはズレている、と理解はしていた点は一応注意を要する(なお、「潜伏キリシタンと『なりすまし』」でも触れたように、宗教儀礼を行うのは必ずしも信仰心とイコールではなく、個人的な祝い・弔いの感情の発露という側面や、共同体による同調圧力といった要素を含んでおり、「九段の母」で言えば、あくまで弔いの感情の発露が重視され儀礼の厳密さはそれほど問われていないのでは?という視点も持っておく必要がある)。

 

次に、日本人の宗教的帰属意識、すなわち日本人の大半が無宗教を自認している点を考察する際、少なからず見られるのが、公式見解や「べき論」でもって、「本当は~教徒」などとするような言説である。これは何度も批判的に取り上げてきたが、話の出発点は日本人の大半が無宗教だと自己認識しているという「実態」からスタートしているのだから、そこにただ「べき」を述べてもさして意味がなく、せいぜいそれは自分の宗教観を開陳することになるだけである(なぜかと言えば、「~の要素があったら確実に・・・教徒である」という、誰にでも合意可能な信徒の基準が存在しないため)。むしろ議論を深めるには、「なぜ諸々の宗教儀礼は行うのにそれが宗教的帰属意識と結びつかないのか」「そのようになった歴史的背景は何か」といった問いを立て、検証することだろう(ちなみに「日本人は伝統的に特定宗派に帰属意識を持たない」などの見解は、諸々の調査によって定量的・客観的に反証される)。

 

ここからもう少し踏み込むと、大日本帝国の出した「神道=無宗教」という公式見解についても注意が必要である(余談だが、これは政教分離の近代国家の性質には違反していないと喧伝し、キリスト教徒などにも強制可能にするための井上毅などが作り出したレトリックである)。「日本人の誰もが(自動的に)神道の氏子である」といったような見解も踏まえて、そのような設定が日本人の宗教的帰属意識に大きな影響を与えたという議論(例えば、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』)がある。

 

しかし、先の「九段の母」で見た、神仏分離という公式見解と一般民衆の実態との乖離を踏まえると、神道=無宗教という見解(「べき論」)が即ち実態としての帰属意識(「である」)に影響を与え、帰属先としての土台を奪っていったかには慎重になるべきで、それこそメディア分析などを含めた実態調査が必要だろう(ちなみに、前掲の記事でも引用した1950年と1952年の調査では、戦後のこととはいえ、神社神道と教派神道を分けても神社神道に帰属意識があると答えている人が数%ではあるが存在している)。

 

というわけで、今回は「九段の母」という1939年の歌を元にしながら、当時の宗教意識の実態と、神仏分離の影響について考えてみた。このテーマについては、いずれまた別の視点で取り上げてみたいと思う。


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