先日ジャニー喜多川の性的虐待に関する報道を取り上げたが、その問題の性質を適切に理解するにあたり、「普遍主義的思考」を問題視した。このことについて、原理原則論に立ち返りつつ、もう少し掘り下げておきたい。
1.そもそもなぜ未成年への性的行為は違法とされているのか
これは端的に言うと、「身体的・精神的・社会的に成熟した(とされる)大人と対した時、成熟しきっていない未成年はしばしば弱い立場に立たされるがゆえに、搾取の対象となりやすいから」だ。
なるほど確かに「未成年と成人でも健全な関係性はありえる」が、あくまで傾向の問題を踏まえた時、このような枠組み(共生のルール)を設定しておいた方が、より適切な社会運営ができるという発想から「未成年への性的行為=違法」という取り決めがなされているのである(未成年=未熟という理解は参政権や少年法などにも関連する)。
2.非対称な関係性→労働者の権利整備やパワハラなどへの一般化
今述べたような「関係の非対称性を軸にして搾取されがちな側の権利を保護する」という発想は他にも様々存在し、最もわかりやすいものの一つは雇用者-被雇用者のそれである。
非常に素朴な発想に基づけば、我々は個々人の自由意思に基づいて労働契約を結ぶわけだから、「雇用者と被雇用者の立場は対等である」という原理になりそうだ。
しかし実際には、(もちろん時代や国で大きく違えども)雇用者がその立場を利用して被雇用者を抑圧・搾取してきた歴史があるわけで、その中でイギリスの一般工場法などをはじめ様々な労働者の権利というものが整備されてきた(つまり、「雇用者>被雇用者」という非対称的な力関係があり、それが後者の権利を保障する法整備を必要としたわけである)。
このことは、上司がその立場を利用した「パワハラ」という言葉が近年生み出され、今では日々問題として取り上げられていることを指摘すれば十分理解されるところだろう(もちろん、部下からのハラスメントも問題視されるようになっていることは付け加えておく必要がある)。
3.ジャニー喜多川による性的暴力の構造
今までの話を踏まえ、ジャニー喜多川と性的対象とされた少年たちの間に、関係の非対称性があったことを正しく認識しておく必要がある。
それが端的にわかるのは、「ジャニー喜多川によって部屋に呼ばれる」「行かないと不機嫌になる」といった証言が散見される点だろう(なお、ここから未成年に性的行為を行っていたことは、すでに過去の裁判でも認定済である)。
ここまでで問題として認識できないとおかしなレベルだが、こういった行為に関し、「少年たちが自分から部屋に行った(強制的に連行されたわけではない)」こと、そして行為後の証言で多くが「恨んでいない」といった発言をしていることから、問題が軽微だと感じる向きもあるかもしれない。
4.性的暴力が行使される状況と、それを受け入れる構造をより一般化して考える
しかし、果たして本当に「軽微」なのだろうか?少し一般化して考えてみよう。
前述の場面が仕事でもある(上司ー部下)という側面を踏まえると、例えば上司からの命令に対し、嫌々だが立場を失うのを恐れるがゆえに従ってしまう、という事例は隠ぺい事件など含めしばしば報道されており、極めてありふれた事例と言える(何となれば、直接的に言わなくても忖度して=裏読み・先回りしてやってしまう、という現象が特に日本で見られるのはよく知られているところだ)。
さらにジャニー喜多川と少年たちに疑似的な親子関係のようなものも見られる点を踏まえると、DVや毒親について思い出してみるのも事態を理解するのには有益だ。すなわち、DV被害者の言う「あの人は自分がいないとダメになってしまう(だから離れられない)」という発言、毒親の「あなたのためにやっているんだから」という言葉に基づく過干渉に対し、何となれば「そんな風に否定され干渉されなきゃいけない自分はダメなんだ」と自己肯定感を損壊させながら受け入れてしまう、といったことだ(そして毒親家庭で育った子供は、広く世界を知らないがゆえに、他の家の状況を知った時に「自分の家庭状況の異常性」を認識することになる。なお、今述べた子供の避けがたい視野の狭さは、冒頭で述べた未成年の保護が必要である話とリンクする点も注意を喚起しておきたい)。
とりあえず以上である。さらにここには、前回述べたカトリック神父による性的虐待の被害者たちがそれを被害として訴え出るのに高いハードルが存在したことも踏まえて、「訴え出ない=被害感情がない=問題ない」という認識が誤っているどころか非常に危険でもある点を掘り下げて理解する必要もあるが、現時点ではここまでとしたい(もちろん、日本のマスメディアの恥ずべき体たらくなども同様)。
私が今回このような形で普遍主義的思考の必要性を軸に状況を一般化して問題の構造を説明しようとしたのは、管見の限り今回の報道ではやたら「グルーミング」というワードがキャッチフレーズのように一人歩きしているように感じられたからである。確かに耳慣れない言葉を使うことで関心を引くという手法は理解できるが、率直に言って今回の問題を特殊化する効果しか挙げていないように見えたので、もっと手前の原理原則論を確認しようとした次第だ。
以上。
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