8月9日に「太陽を盗んだ男」に関する記事を書いた。監禁の前夜でまた膨大な分量になることが予測されたため、かなり削ったという事情がある。よって以下に、その覚書を掲載しておきたい。「太陽を盗んだ男」の話は、草稿にもあるように安部公房の「他人の顔」に関する記事と姉妹編になっている。またこの話は、後日掲載する「復讐」に関する話題と連動するようになっている(本来は「太陽を~」の次に掲載する予定だったが、仕事の準備などで間に合わなかった)。なお、多少読みやすくなるよう段落を分けているが元々はひと塊であり、また多少順番を入れ替えている旨注記しておく。
(草稿)
観念的な人間の独善性。逆に他者・外部から、深淵な何かがあるかのように誤解される場合も。異常性にはそれだけの理由づけがほしいから。普通・常識を越境する必然性がほしい。じゃないと自分の基盤・恒常性が維持できないから。「過去のトラウマ」がやたらに求められる理由(解決への意思だけではない)。
類稀な傑作。表現法が秀逸。天皇主義=右の埋葬。かつ主人公が「極悪人」でないことを示す。序盤の引き込み。テレビ越しの革マル=左も風景。永山則夫を扱った1970の「裸の十九歳」との比較。たとえ参加はしなくても、60年代の熱狂というか祭りの気分は伝わってくる。しかし本作の70年代初頭ではすでに過ぎ去っている。そのことは、予告編の「(今はダラけてるけど)昔はスゲー熱血漢で、校長と廊下で怒鳴り合ったりさ」といった生徒のセリフがこの(60年代・70年代の)差異を見事に象徴している。
深読みを承知で言えば、主人公が女装して国会議事堂へ潜入すること、また女性の声で警部に電話してくるのは興味深い。前述の主人公の怒りが堕落した世界に対するものだという想定が正しいなら、警察=秩序の象徴として、ヤクザ映画などで活躍し、ある意味マッチョイズムを体現する菅原文太扮する警部へわざわざ女装して声を変えた度重なるラブコールは秩序(を作る人間)への媚びと見なすことができる。そしてそれは、主人公の思想の体制・常識・日常への癒着度合い、及びそれに由来する限界(=ナイターくらいしか要求することがない)を見事に象徴しているように思うからだ。スタッフインタビューによれば、特別な思想的背景はない模様であり、ゆえに深読みの(=製作者はそこまで意図してない)可能性が高い。また、国会侵入は、「その気になれば中枢たる国会を灰燼に帰してやる事だってできる」という威嚇行為であることを作中人物と視聴者に示すのが物語展開上は最も重要。しかし繰り返しになるが、その行為の象徴するものは、意図されていないにもかかわらず、この物語の根幹に関わっている言えるのではないだろうか。
要求するのがナイターでしかない必然性。「腐りきった社会」への漠然とした怒り。ぶつける宛もなく。ハンバーガーショップなら「トレイをゴミ箱に捨てる」程度で済むかもしれないが、社会となるとね。滅びの希求はある意味よくわかる部分も。特に1973の頃より複雑化した社会構造の中では振り上げた拳を誰に振り下ろしたらよいのかわからない。例えば2008の秋葉原事件では、派遣という仕事の形態・待遇に不満といったものなら、いやそうであればこそ、なぜ秋葉原という場所で、なぜ無差別殺人を行わなければならなかったのか極めて疑問だ。より大きなものに対する怒りなのだとしたら?しかし大きすぎて上手く認識もできていないのだとすれば?すると、『アキハバラ発』で森達也が秋葉原に「本質など何もない」という文言を含む記事を書いたこと、大澤真幸が秋葉原事件について「形而上学的深みがない」=より大きな社会的正当性の枠組みの志向が犯人に欠落しているとの指摘などと繋げて考えることができるように思うし、あるいは「接吻」の無差別一家殺人とのアナロジーを考えてみるのも有意義だろう(ただし、「太陽を盗んだ男」、秋葉原事件の犯人、「接吻」は大きな枠組みへの志向・態度は大きく異なっている。太陽~はアノミー状態への憤り=秩序志向の裏返しから破壊へと向かうが、その秩序がそもそもどんなものか理解しない曖昧模糊とした怒りゆえにその要求は全く要領を得ないものにしかならない。秋葉原事件の犯人は不満を述べはするものの、それが行為にどう繋がるのか不鮮明だし、一見するとただの八つ当たりにも感じられる。最後の「接吻」は、むしろそうやって他者の内面を忖度してわかった気になっている連中の尊大さに対してこそ主人公は沈黙を貫く[cf.「共感」の危険性]、という具合に)。ダメでも生きられる、ということ。そういう環境の幸せ→シュリ・義兄弟。北社会との対比の中でそういう意識が対象化しやすい環境と日本の差異(?)。もちろん、国内に目を向けても急速な近代化・グローバル化の中で歪みが生まれているのだが→復讐者に憐れみを。
女の「スッキリした」という感想の必然性。思想(論理)ではなく感染(感情・感性)する。犯人視点の音楽もさすが[後掲のリンク動画も参照]。しかし単純なヒーローとしても描かない。主人公の成長(悟り)もない→あったら生徒を無意味に大量殺人したりしないだろう(視聴者を突き放すだけ)。やたら往生際も悪い→リアリズムに固執しないというのもあるが、反カタルシスの要素。そしてあの中途半端な終わりがむしろいい(あえて言うなら、それで「正しい」)。
この作品に不快感を抱く人も少なからずいるだろう。これだけ大それたことをして、ナイター?スッキリした?ふざけるな!と。その怒りは正しい反応。しかし、ゆえにこの作品は認められないというのなら、それはとんだ勘違い(「ヘタレ・埋没・凡庸」でも触れたが、感情と演出的狙いの区別すらつけられていない、ということ)。主人公の幼さや独善性は演出上意識されている(DJとの電話のやり取りからも明白)。だからバランサーとして警部がいるわけやし。
劇場予告がちょっち外れている。「夢」なんてない。それこそが悲喜劇性の源泉となるだろうが、しかしそれを嗤えないことが重要。たとえ行為や言説があっても、藤村操セカイ系、大正テロリズム、昭和維新の稚拙さ。リテラルにしか見ないからミスリード(他人の顔)。不全感の糊塗。アニメではガンダム―ヤマトとの差異。前者は、特に「逆襲のシャア」がわかりやすいが、シャアの革命が不全感によるものに過ぎないと暗示→母性のグロテスクさ。
むしろそういう形でしか~が起こりえない時代状況をこそ描き出している。どちらの側にもコミットするものではない。後のオウム事件とその背景の奇妙さ・滑稽さを先取り。秋葉原通り魔事件。「アキハバラ発」で大澤真幸はその背景のなさ、というか社会性を糊塗すらしようとしない犯人とそれへの疑問を呈しているが、70年代の段階でのこの映画、オウム真理教と見ていくとむしろ必然的とすら言えるのではないか。
ともあれこのような特徴を持つ本作は、今日にも全く問題なく通用する作品と言えるだろう。
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