なぜ「小フーガト短調」は好きで「新世界より」はどうでもいいのか?

2008-01-30 20:12:10 | 音楽関係
前にも書いたことだが、中学の音楽の授業で聞いたバッハの「小フーガト短調」は強烈に印象に残り、間もなくCDを買いに行った。一方で、高校の時に熊本県立劇場で聞いたドヴォルザークの「新世界より」は全くと言っていいほど印象に残っていない。なぜこのような違いが生まれたのだろうか?そう問えば、年代も曲調も全く違うから当然だという答えが返ってくるだろうが(※)、それにしても「小フーガト短調」が強く印象に残ったこと、「新世界より」が印象に残らなかったこと自体は疑問として残る。


同じクラシックとは言え、大きく違う両者を一緒くたにして考えること自体がそもそも適切ではない、という指摘は的を射ている。もっとも、我々は自分の事を述べる段になると、その事実をいとも簡単に忘れて「ロックは好きだ」とか「演歌は嫌いだ」とか安易に一般化してしまうのだけど。


そこで両者の曲調の違いから考えてみると、高校時代に強烈な印象を残した「パリは燃えているか」もまたパイプオルガン(「映像の20世紀」で聞いたため)であるため、楽器による部分が大きいのかもしれない。しかし、これもすぐに反証が用意できる。例えば、同じく中学時代に聞いたベートーヴェンの「月光」も印象に残っているが、(言うまでなく)これはピアノであってパイプオルガンではない。また、バッハのパイプオルガンによる他の楽曲も多少は聞いたが、特に印象に残るものはなかった。要するに、「小フーガト短調」と「パリは燃えているか」が同じくパイプオルガンであったという共通性は見出せるが、それをもってパイプオルガン「だから」小フーガト短調が印象に残ったのだという説明は成立しない(数学や哲学が好きな人は必要条件や十分条件を連想してくださいな)。結局、小フーガト短調そのものやその時の自分の状況を分析していくしかないが、おそらく相当な困難を極めるだろう…


こういった例は他にいくらでもある。例えばCROSS†CHANNELのTraumaticにおいては、副旋律が入ってくる部分(※2)が一番好きで何度も聞きなおしたりしているが、なぜ気に入っているのかはよくわからない。またひぐらしアニメ版のwhy,or why notでは“I was a believer in life”の部分が一番好きだが、なぜそこが印象に残るのかは謎である(※3・4) 

※2
最初の「ミレソミドシソドレソミ」の後にくる「ミレソミ」のミの部分。

※3
最も簡単な方法は、2番で対応する部分(Its meaning had been in the eyes)と比較することだろう。両者の違いに注目してみると、まず1番は“I was believer~”の部分から副旋律が始まるが、2番は最初から副旋律が続いている状態である。また1番は弱めの歌い方(ささやくような感じ)をしている一方、2番は強め(もしくは普通)に歌っている(全体的に、1番は弱め、2番は強めの歌い方をしている印象がある)。その結果として、1番に比べると2番は副旋律の印象が非常に弱くなっており、これが印象に残らない理由であると思われる。以上のことから、1番が印象に残るのは、副旋律の導入を殺さないように抑えられた歌い方が副旋律とうまく調和しているためだと推測される(ささやくような歌い方自体も影響を及ぼしているかもしれない)。

※4
以上の考察は、「年上好き・金髪好き」「褐色崇拝」などの記事における推論の仕方と本質的には同じである。


と色々考えてみるわけだが、これらの分析が正しいという確証は全くない(もっともらしく説明してはいるが、それと分析の正しさは別の問題である)。要するに、わからないことだらけなのである。しかし、だ。そもそも、私達は自分の感覚についてどれほどの事を知っているというのだろうか?感覚というものを少し深く考えようとするたびに、感覚の恐るべき(あるいは豊穣な)混沌の前におののかずにはいられない。


このように書けば、おそらく人はこう言うだろう。「まあそんな面倒なことをしなくても、とりあえず『好き』とか『心惹かれる』って考えとけばいいんじゃない?」と。それは全くのところ正しい。上のようなことを一つ一つ疑問に思って分析していたら時間がどれだけあっても足りないし、何より生きていくことそのものが不可能である。だから、人が自分の感覚や感情の多くをファジーなままにして生きるのは、自然であるばかりか、必要不可欠とさえ言える。


とはいえ、もし一度でも自分の中にある混沌と対峙した人間は、その深遠さを決して忘れえないのではないだろうか。また自分がいかにつかみ所のない存在かを知っている人間は、他者は理解できて当然だと考えたり、自分の感覚と同じことを言っているからといって安易に共感(=同じように感じることが)できたなどとは思わないだろう。


であれば、共感の語を使う人間の多くは、面倒さを避けて自分の感情や感覚を適当にラベリングしたり、あるいは混沌から目を背けていると言えるのではないだろうか。そうして出てきた「共感」は、一体感や深い理解というより、むしろ無礼であり、単なる癒着である(そこから生まれるのは、個人の尊重の欠落、引き摺り下ろしの精神でしかない)。


最後に。
共感において「同じ」なのは、(往々にして)感情をラベリングした結果のみである。要するに、「おもしろい」とか「悲しい」という感覚ではなく、そう定義したところの言葉(の共通性)をもって自分と同じだと類推しているだけなのだ(というのも、同じように「感じている」と証明することは不可能だからだ)。ところで、そのようにラベリングされたものの内実は、上でも見たように「よくわからないもの」でしかないのだが、それをファジーなままにしておくと相手との差異が意識されず、見せかけの可変性が生まれる(それゆえに他者のラベリングされた感情を自分のそれと同じだと[都合よく]解釈できるとも言える)。そこでは、ラベリングの過程(人生という文脈)もまた千差万別という当たり前の事実がしばしば忘却されてしまうのだ。自分の感覚が、あるいはラベリングの過程がいかに混沌としているかを知っているなら、そんな暴挙に対して慎重になる。ならざるをえない。つまり共感の語の濫用は、いかに自分を見ようとしていないかを如実に表していると言えるだろう。
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