モン・スールは家族、恋愛、少女の成長など様々な話題を扱った作品であるが、それに関連して気になったのが父親の扱いである。作中において、父親には全く救いが提示されていない。これが計算づくなのか偶然なのか判断しがたいが、非常に興味深い特徴であるように思う。
父親は悪意をもって失踪したのではなく、リストラによって自分の価値が無くなったことに恐れおののき、息子(池内)と娘(美波)の前から姿を消したのであった。つまり父親は被害者であったと言えるし、その父親に救いがあってもおかしくはない。しかし、その行為のもたらした影響を考えると、果たして単純な被害者として片付けてしまっていいのだろうか?例えば彼の失踪によって、池内は奨学金を貰いながら大学に通い、アルバイトで妹の学費と自分達の生活費を稼ぐという生活を強いられる(※)。また複雑な環境に生きることを余儀なくされた美波の心には、羽化に十分な時間を与えられなかった蝶の如く歪みが生じ、それが神田への思い(依存?)へと繋がったのであった。
事実を冷静に述べれば、失踪という父親の行為はこのように二人の人生を大きく歪めてしまったのである。父親のリストラは、おそらく会社側の都合で一方的に行われたのであろうから、その意味で彼に明確な罪は無い。また、父親としてではなくあくまで扶養者(金を稼ぐ存在)として池内から認められていた自分が、仕事を失ったため存在価値を失って家にいられなくなったと感じたのも無理はないと思う。しかしそういった理由も、失踪によって生まれた歪みを何ら正当化しないのである。
家族を持つこと、特に子供を持つということは、他者の人生に対して重大な責任を背負うことに他ならない。父親に救いがないこと、それは親としての責任を放棄し、二人の人生を大きく歪めてしまった報いと言えるのではないだろうか(※2)
蛇足ながら…
そういった責任ゆえに、最近結婚しない人が増えているのだろう(過去との対比で言えば、昔の人間の方が責任に富んでいたというよりは、単純に選択肢がなかっただけのことだろう)
※
親が金を稼いでくれるのは当たり前で、その上に臆面もなく何かを求める。そればかりか、外で遊び惚けて父親に起こっている変化にも気付かない。息子のこのような振舞からすれば、彼もまた加害者であって、完全なる被害者として描かれていないのは明らかだ。
しかしそこから息子の振舞を軽々しく批判し始めれば、それは即座に自分へ向けられた刃へと変わる。というのも、彼の振舞は父親と母親の離婚という過去の事実に影響を受けているばかりでなく、受験がようやく終わったという開放感に基づいているからだ。果たして私たちは、受験の終わりという開放感の中でさえ他者に目を配る思いやりを持ち合わせていただろうか(ましてや離婚という複雑な絡みがあれば…)?安易な批判はただ自らの不明をさらけ出すことにしかならないだろう。
※2
人生とは、たとえ憂いのないように準備していたとしても理不尽な外的要因によって容易く躓きうる、言いかえれば薄氷を踏むような行為に他ならない。
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人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。
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芥川竜之介『侏儒の言葉』(岩波文庫29P)
父親は悪意をもって失踪したのではなく、リストラによって自分の価値が無くなったことに恐れおののき、息子(池内)と娘(美波)の前から姿を消したのであった。つまり父親は被害者であったと言えるし、その父親に救いがあってもおかしくはない。しかし、その行為のもたらした影響を考えると、果たして単純な被害者として片付けてしまっていいのだろうか?例えば彼の失踪によって、池内は奨学金を貰いながら大学に通い、アルバイトで妹の学費と自分達の生活費を稼ぐという生活を強いられる(※)。また複雑な環境に生きることを余儀なくされた美波の心には、羽化に十分な時間を与えられなかった蝶の如く歪みが生じ、それが神田への思い(依存?)へと繋がったのであった。
事実を冷静に述べれば、失踪という父親の行為はこのように二人の人生を大きく歪めてしまったのである。父親のリストラは、おそらく会社側の都合で一方的に行われたのであろうから、その意味で彼に明確な罪は無い。また、父親としてではなくあくまで扶養者(金を稼ぐ存在)として池内から認められていた自分が、仕事を失ったため存在価値を失って家にいられなくなったと感じたのも無理はないと思う。しかしそういった理由も、失踪によって生まれた歪みを何ら正当化しないのである。
家族を持つこと、特に子供を持つということは、他者の人生に対して重大な責任を背負うことに他ならない。父親に救いがないこと、それは親としての責任を放棄し、二人の人生を大きく歪めてしまった報いと言えるのではないだろうか(※2)
蛇足ながら…
そういった責任ゆえに、最近結婚しない人が増えているのだろう(過去との対比で言えば、昔の人間の方が責任に富んでいたというよりは、単純に選択肢がなかっただけのことだろう)
※
親が金を稼いでくれるのは当たり前で、その上に臆面もなく何かを求める。そればかりか、外で遊び惚けて父親に起こっている変化にも気付かない。息子のこのような振舞からすれば、彼もまた加害者であって、完全なる被害者として描かれていないのは明らかだ。
しかしそこから息子の振舞を軽々しく批判し始めれば、それは即座に自分へ向けられた刃へと変わる。というのも、彼の振舞は父親と母親の離婚という過去の事実に影響を受けているばかりでなく、受験がようやく終わったという開放感に基づいているからだ。果たして私たちは、受験の終わりという開放感の中でさえ他者に目を配る思いやりを持ち合わせていただろうか(ましてや離婚という複雑な絡みがあれば…)?安易な批判はただ自らの不明をさらけ出すことにしかならないだろう。
※2
人生とは、たとえ憂いのないように準備していたとしても理不尽な外的要因によって容易く躓きうる、言いかえれば薄氷を踏むような行為に他ならない。
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人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。
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芥川竜之介『侏儒の言葉』(岩波文庫29P)
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