「イベント」なら「イベント」らしく:信教の自由・相互扶助・共同体の崩壊

2014-12-09 12:09:11 | 宗教分析

すさまじい傾斜&狭さの坂道をゴリ押しで通り抜け、バスは愛宕神社に到着した。

 

よくよく考えてみれば、境内を訪れることはあっても、神社の中に入るのはどれくらいぶりだろうか?下手をすると20年じゃきかないレベルかも。あるいはジャンノさんと沖ノ島に行ったとき(厳密には覚えていないが、確か2001年か2002年で吉村作治も一緒の船に乗っていた)、大島か宗像(本島)で入ったような気もするが・・・そんなレトロスペクティブに浸っていると、Jガイルの旦那が紅葉を写真に収めているので、俺もそれにならって何枚か写真を撮る。

 

 

 

 

この秋は全く遠出ができなかったので、この機会にあれこれ写真に収める。それにしても、ふと思ったが、結婚式による神社の収入はどれくらいあるのだろうか?挙式料は一件でおよそ10万前後と聞いたことはあるが、衣装代の収入とかもあるだろうし、年間平均件数とかはよくわからん(まあ神社によって全然違うんだろうけど)。とりあえず確かなのは、初詣にも行かない俺のような人間が今後増えれば、葬式仏教の後退と合わせて伝統宗教が先細りしていくってことくらいかw

 

つーか今更だけど、大安だとか先負とかを気にしてキリスト教式の結婚式を挙げたりするのって頭ん中でどういう整合性になってんだろうね。ま、クリスマス&初詣と一緒で単なるイベント化を意味しているんだろうけど(批判しても無駄なので、ハロウィンと一緒でその心性を利用した方が合理的ってやつだw)。ただ、それならそれで完全にフリーハンドな状態が望ましいよね。イベントを強制される謂れはねーし。希望しているならともかく、信仰心もねーのに「慣習」の名を借りて(=同調圧力によって)あれこれ搾取されるのはどうも納得がいかんわ。

 

もちろん、賢明な読者諸兄はすでにお気づきのように、冠婚葬祭は共同体に帰する部分もあるため、なかなか個人の信条だけで処理しづらいのは事実だ。また個人的な経験として、小学四年の時に大分の叔父の葬式に出た時、全く顔も見たこともない近所の家の賄いをいただいて、なるほどこれが「助け合い」(相互扶助)というものか、と妙に納得した記憶もある(この時に得た「困ったときはお互い様」という感覚は、「人間万事塞翁が馬」という世界理解と合わせて、今も強く残っている)。しかしそのような機能が、一体今の社会にどれほど残っているのかは甚だ疑問だ。だとするなら、「伝統」や「慣習」として実施を要求しながら、その援助は減って負担が個人を直撃する傾向が強まっているのではないだろうか(それは、先日マタニティハラスメントの勝訴が話題となったが、「産むのが当たり前」とか「産めよ増やせよ」と言いながら、政府としても共同体としても、その支援が遅れているこの社会状況と並行している)。その状況下で、周囲が数十万・数百万するものを(事実上)強制するのは、怪しげな壺を集団で売りつけようとする(おそらく当人たちは善意ながらその実無責任な)行為と結局同じであるように思える。

 

宗教的行為として明確に意識されていないがゆえに、むしろいまだ延命されているものが多々あることが厄介なのだ(それはこの国の前近代性とパラレルである)。なんて久しぶりに日本人の「無宗教」のことを思い返していると、控室へお入りくださいとお呼びがかかった。


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