君が望む永遠:テーマの理解

2006-02-08 21:16:20 | 君が望む永遠
前回、私は君望を「最低限」理解するのに必要なことを述べた。そしてそれが、本文をそのまま読んでいけば普通に理解できるものであるとも書いた。実際のところ、君望を評価する際もっとも重要なポイントの一つは、テーマを小難しくしたり曖昧にしたりすることなく、わかりやすい形で提示していることにある。そして提示されたエッセンスの一端を一言で表すなら、「人の心の移ろいやすさ」であった。ならば次に問題となるのは、それをどのように(プレイヤーに対して)表現しているかである。そういった目で見れば、孝之が「感情移入」の対象として描かれていないことや、様々なしがらみの中で動いているためプレイヤーが行動原理を理解しようとする必要があるのは容易に読み取れる。「感情移入」の言葉を撒き散らすレビューは、この最も根本的な前提を見誤っていると言わざるをえない。とすればおそらくは、君望のテーマも理解していないのだろう。わかりやすくテーマを提示し、主人公が「感情移入」の対象でないことを、告白シーンといった記号をも用いながらわかりやすく表現し、しかも主人公を理解する材料として細かな感情表現がなされているのだ。そこには難解な哲学用語や専門用語、あるいは気取った喩えや韜晦はない。ただ生々しい感情が提示されているだけだ。そこまで製作サイドに理解してもらおうという姿勢と表現の努力があるのに理解できないのだとしたら、それはプレイヤーの怠慢だろう。そこまでわかりやすい情報を大量に提示されながら、それをまったく無視したような批評をする…それは誹謗・中傷と大同小異であると言わざるをえない。少なくとも、私はそう感じるのだ。以前はKanonに対する高い評価に呆れたことがあったが、君望への無理解はむしろ哀れみすら感じる。

外来語の作品や昔の作品なら、なるほど言語の知識や文化理解がそれなりになければニュアンスが読み取れないという事態もしばしば起こるだろう。だが、相手は平易な現代日本語であり、しかも細かい感情表現によって、文脈規定はしつこいくらいに行われているのだ。つまりそれは、普通に読んでいけば主張内容も主張の仕方もよくわかるということを意味する。これでもなお、テーマを理解せず、孝之に「感情移入」できないというのは、いったい文章のどこを読んでいるのかと首を傾げざるをえない。ゆえに「哀れですらある」のだが、これについて真面目に議論するなら、読解力の欠如という理由とともに、もう一つの重大な原因が潜んでいると考えられる。それが「無意識的な感情移入の希求」である(前に述べた「自動的感情移入欲求型人間」と同義)。「感情移入」に対する私の考えはすでに何度か述べたが(パソコンの方は「感情移入」で検索すれば見れる)、「共感」と同じくそれはまったくのフィクションである。しかしこれがフィクションであることを理解していないプレイヤーが多いように思うのだ。彼らにとって作品は、「感情移入」できるか否かで判断される。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 冥土喫茶遠征記 | トップ | 君が望む永遠:テーマの理解2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

君が望む永遠」カテゴリの最新記事