君が望む永遠:テーマの理解2

2006-02-08 21:21:22 | 君が望む永遠
そういった「感情移入」という話が出るとき、おそらくほとんどの人が、今の自分の状況・考え方「のみ」を基準にして移入できるorできないを判断していると思われる。果たしてその人たちは気付いているのだろうか?生々しいキャラクターであればあるほど、その中身は特殊具体的なものになるということに。例えば主人公は第二章の始めから水月と付き合っている状態であり、また後でわかることだが、遥の気持ちは「眠っている」だけである。そればかりではない。遥への罪悪感などもまた持っているのだ。これらの気持ちは、プレイヤーがいかに望んでも消せないものだ。そして孝之は、これらの気持ちに深刻に縛られながら、しかも他者の要求・願望によっても左右されるのだ。これだけ重なれば、あくまで自分の状況などに基づいてしか主人公を評価することができない人の嗜好と彼の行動様式に阻誤が生まれるのは至極当然のことと言える。また、仮に同じ立場になったところでおそらく「感情移入」など不可能だろう。なぜなら、事件に出会う前ですでに鳴海孝之とは違う考え方で生きているからだ。そしてさらに、第二章は事故から三年が経過した状態で始まる。ならば、その三年の過ごし方にも差異が出るはずだ。

以上長々と述べてきたが、要するに「あなたと鳴海孝之は考え方も置かれた状況も違う。それゆえ、『感情移入』ができないのは当たり前のことだ。」という一点を繰り返しただけだ。 そもそも、「感情移入」に必要なはずの感情のブランク(推測の余地)が他のゲームと比べて極端に少ないことを思えば、孝之が「感情移入」の対象でないことは明白である。と同時に、ブランクを埋める細かい感情表現は、孝之を理解しようとする上で重要な情報という側面も持っている。「感情移入」という幻想と訣別し、孝之を孝之として見ることができるようになった時、「君が望む永遠」の内容は初めて、「主人公がへたれのゲーム」、「究極の二股ゲーム」、「欝ゲー」といった皮相的な位置付けを遥かに超えた作品として、あたなに訴えかけてくることだろうと私は確信する。

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