さて、うみねこはようやく恐怖のバトルロワイヤルが始まったところだが、このまま終わらせる前にひぐらしについて書いておきたい。
魔女はかつて言った。「もうすぐ終わる、すべて終わる。そうひぐらしのなく頃に」と。しかし魔女言うところの「最悪な皆さん」の一人である俺は、魔女の言葉を素直に受け入れる気も無い。確かにもう日は暮れてひぐらし達が鳴いているが、それでもなお考えるべきことは多く、道は遠いのだ。
これは二次創作などを通して外に広げていく余地があるという意味ではなく、本編そのものが未だに数多くの問題を孕んでいるということである。例えば、何度か取り上げてきた鬼隠し編のラストだ。魅音とレナが撲殺されるシーンだが、この二人の行動は明らかに白痴的、あるいは控えめに言って蛮勇と評価して差し支えないだろう(自分を殺人犯かもと疑っている人間の元にのこのこ出かけていって「部活」をやるのは愚の骨頂以外の何者でもない)。ただ、このシーンそのものをどう評価するかは単純ではない。というのも、物語(正確に言うとテーマ)としては成功だが、推理としては失敗だからだ(全てがわかった現在の状態で考えるのではなく、目編以前の段階でどのように考えられるかを念頭に置いてほしい)。
まずテーマとしては、まず祟殺編(出題編?)までは仲間を(根拠なく)信頼して裏切られ、それがさらなる惨劇に繋がるという構造を持っていた(細かいが、鬼編ラストの圭一はすでに信頼云々でどうにかなる身体ではなかった)。それが暇潰し編では赤坂が梨花の「予言」を信じなかったことによって悲劇が起こるという風に転換し、ひぐらし解の「夢」などを通して仲間を信頼することの大切さを訴え、最終的には団結しなければ解決しないという方向に行ったのであった。結局それが「夢」なしには成立しないテーマであるところなどは批判されるべきではあるが、筋は通していると言えるだろう。
ところが推理という観点で見た途端、鬼編ラストの真実は全く必然性・説得力のないものとして大いに批判されるべきものへと変わる(なお、ひぐらしが「そもそも」推理ゲームではなかったという見解については後で批判を述べる)。まず我々が確認しなければならないのは、ひぐらし自信が「お疲れ様会」の中で各キャラのパーソナリティは各編で変化していないと強調している部分である。よってこれを念頭に置きつつ、鬼編ラストでの魅音とレナの行動が必然性のあるものか考えてみよう。そうすると、確かに魅音は情に流されやすいところがあるため圭一の見舞いが有り得ないとまでは言えない。しかしながら、レナに関してはほとんど無理のある行動と言ってよい。まず綿流し編・目明し編の推理力を見る限り、レナの鋭さはプレイヤーにとって周知のレベルである。しかも彼女はキレるだけではない。圭一が詩音と地下に入った時にはしばらく戻ってこないのを見て警察を突入させている。要するにレナは、(「魅音」が友人であるという)情に流されずしっかり状況を見て行動できるだけの胆力を持ち合わせているのである。そしてまた、祟編で沙都子を何とかして助けようと暴走する圭一を一喝したりもする。あるいは誤解を恐れずに言うと、鉄平を殺害してでも沙都子を助けようというほど仲間思いでは無いとも評価できるかもしれない。以上の材料から、レナが頭の鋭さと状況を冷静に判断する強さを持ち合わせたキャラであることに異論はないだろう(罪編は家族に関わる問題ゆえ犯行の稚拙さを割り引いて考える必要がある)。
さて、魅音単独ならともかく、かようなキャラクターのレナが、①自分達を殺人犯の一味と疑う人間と二人っきりで、②凶器となるバットを放置したまま③部活などと称して怪しげなことをする、などという愚考を犯すだろうか(※)?少なくとも私は必然性・説得力の欠片もないと思う。つまり、推理という観点において、鬼編ラストが「魅音・レナの良心的な行動」という解釈が成立する合理的根拠はどこにも存在しないのである。
以上より、鬼編ラストはテーマとしては成功(流れの中に含まれている)だが、推理としては失敗だと言えるのである。
※
そもそも、それが圭一との永遠の別れではないとすれば(実際にはそうなるのだが、その事実をレナ&魅音があの段階で知っているとは思えない。というのも知っていることは、症候群について熟知していることを意味するからだ)、あの時圭一に会いに来る必然性からしてなく、入院してからでも十分である。仮に百歩譲ってその必然性を認めるとしても、二人で会う理由はない。入江たちと一緒に入って声をかけるなり彼らの到着が間に合わないようであれば他に人間を連れて来るのが当然であった(凶器を持った精神病者に丸腰で近寄るのは信頼か?)。戦闘力を妙に高くしてしまったことで祟編の鉄平殺害計画の説得力や意味が薄れたのと同様に、(綿編以降)妙に知力の高いキャラにしたことで以前の非合理的な行動が説得力を失ったと言える。
魔女はかつて言った。「もうすぐ終わる、すべて終わる。そうひぐらしのなく頃に」と。しかし魔女言うところの「最悪な皆さん」の一人である俺は、魔女の言葉を素直に受け入れる気も無い。確かにもう日は暮れてひぐらし達が鳴いているが、それでもなお考えるべきことは多く、道は遠いのだ。
これは二次創作などを通して外に広げていく余地があるという意味ではなく、本編そのものが未だに数多くの問題を孕んでいるということである。例えば、何度か取り上げてきた鬼隠し編のラストだ。魅音とレナが撲殺されるシーンだが、この二人の行動は明らかに白痴的、あるいは控えめに言って蛮勇と評価して差し支えないだろう(自分を殺人犯かもと疑っている人間の元にのこのこ出かけていって「部活」をやるのは愚の骨頂以外の何者でもない)。ただ、このシーンそのものをどう評価するかは単純ではない。というのも、物語(正確に言うとテーマ)としては成功だが、推理としては失敗だからだ(全てがわかった現在の状態で考えるのではなく、目編以前の段階でどのように考えられるかを念頭に置いてほしい)。
まずテーマとしては、まず祟殺編(出題編?)までは仲間を(根拠なく)信頼して裏切られ、それがさらなる惨劇に繋がるという構造を持っていた(細かいが、鬼編ラストの圭一はすでに信頼云々でどうにかなる身体ではなかった)。それが暇潰し編では赤坂が梨花の「予言」を信じなかったことによって悲劇が起こるという風に転換し、ひぐらし解の「夢」などを通して仲間を信頼することの大切さを訴え、最終的には団結しなければ解決しないという方向に行ったのであった。結局それが「夢」なしには成立しないテーマであるところなどは批判されるべきではあるが、筋は通していると言えるだろう。
ところが推理という観点で見た途端、鬼編ラストの真実は全く必然性・説得力のないものとして大いに批判されるべきものへと変わる(なお、ひぐらしが「そもそも」推理ゲームではなかったという見解については後で批判を述べる)。まず我々が確認しなければならないのは、ひぐらし自信が「お疲れ様会」の中で各キャラのパーソナリティは各編で変化していないと強調している部分である。よってこれを念頭に置きつつ、鬼編ラストでの魅音とレナの行動が必然性のあるものか考えてみよう。そうすると、確かに魅音は情に流されやすいところがあるため圭一の見舞いが有り得ないとまでは言えない。しかしながら、レナに関してはほとんど無理のある行動と言ってよい。まず綿流し編・目明し編の推理力を見る限り、レナの鋭さはプレイヤーにとって周知のレベルである。しかも彼女はキレるだけではない。圭一が詩音と地下に入った時にはしばらく戻ってこないのを見て警察を突入させている。要するにレナは、(「魅音」が友人であるという)情に流されずしっかり状況を見て行動できるだけの胆力を持ち合わせているのである。そしてまた、祟編で沙都子を何とかして助けようと暴走する圭一を一喝したりもする。あるいは誤解を恐れずに言うと、鉄平を殺害してでも沙都子を助けようというほど仲間思いでは無いとも評価できるかもしれない。以上の材料から、レナが頭の鋭さと状況を冷静に判断する強さを持ち合わせたキャラであることに異論はないだろう(罪編は家族に関わる問題ゆえ犯行の稚拙さを割り引いて考える必要がある)。
さて、魅音単独ならともかく、かようなキャラクターのレナが、①自分達を殺人犯の一味と疑う人間と二人っきりで、②凶器となるバットを放置したまま③部活などと称して怪しげなことをする、などという愚考を犯すだろうか(※)?少なくとも私は必然性・説得力の欠片もないと思う。つまり、推理という観点において、鬼編ラストが「魅音・レナの良心的な行動」という解釈が成立する合理的根拠はどこにも存在しないのである。
以上より、鬼編ラストはテーマとしては成功(流れの中に含まれている)だが、推理としては失敗だと言えるのである。
※
そもそも、それが圭一との永遠の別れではないとすれば(実際にはそうなるのだが、その事実をレナ&魅音があの段階で知っているとは思えない。というのも知っていることは、症候群について熟知していることを意味するからだ)、あの時圭一に会いに来る必然性からしてなく、入院してからでも十分である。仮に百歩譲ってその必然性を認めるとしても、二人で会う理由はない。入江たちと一緒に入って声をかけるなり彼らの到着が間に合わないようであれば他に人間を連れて来るのが当然であった(凶器を持った精神病者に丸腰で近寄るのは信頼か?)。戦闘力を妙に高くしてしまったことで祟編の鉄平殺害計画の説得力や意味が薄れたのと同様に、(綿編以降)妙に知力の高いキャラにしたことで以前の非合理的な行動が説得力を失ったと言える。
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