常態的アイロニーの隘路

2008-09-05 00:24:27 | 抽象的話題
この前

「常に誰かと一緒にいなければ不安や淋しさにつきまとわれる」ような人以外を全て「人間嫌い」と言うのなら、私はまさしくその部類に入るだろう。

と書いた。「常に」とか「全て」って表現によって(極端に)厳密に規定しようとしているところはいかにも狂人パラノイア的だが、まあこれはあえて極端な例を出すことによって、所詮グラデーションに過ぎないのに知らず二項対立で死考しているのではないか…と皮肉っている文なので、これで一応問題はない(まあだいぶ説明を端折ってるけど)。


まあそれはともかく…アイロニーというのはいかにも対象の裏まで読めているかのような印象を自他共に与える効果があるが、実際には必ずしも対象を理解しているわけではないし、ましてや乗り越えたことにはならない(例を挙げておけば、「正ー反ー合」、基準そのものの相対化[脱構築]、代案の提示など)。それどころか、裏を読めているかのような錯覚が、害悪になることもある。もしこのようなアイロニーが常態化・定式化すれば、そういった害悪は感情の直截な表現や感情の由来の探求を妨げたり、自らを過大評価する原因になったりと、ますます深刻化するだろう。


これを「アイロニーと安易な感動の共存」に繋げてみると、そこには

1.(常に)アイロニカルに考える[どうせ~っしょ]
2.わかっているような気になる[文脈とかは考慮されてる?]
3.(わかってるから)感情についてよく考えない
4.自分の感情のコントロールについて免疫ができない
5.自分の心を動かされるような何かがあると、それをただ表明することしかできない[全肯定しかできない]

というサイクルが成立しており、それが常態的アイロニーとベタな感動を共存せしめているのではないかと推測される。しかし、前にも言ったように、誰にも訪れる死(あるいは誕生)などの存在やこの世の不条理という性質がある以上、結局常態的アイロニーは行き詰らざるをえない運命にある。それゆえに、自分の経験からもやはり自分の感覚を探求することが、単なる欲望の解釈といった別の形式に堕する危険はあるにしても、非常に重要だと思うのである(共感違和感内省不快感などについての記事を参照)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アイロニーと安易な感動の共存 | トップ | 真鶴へ逃げる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

抽象的話題」カテゴリの最新記事