日本画壇に彗星のように現れた夭折の速水御舟(ハヤミギョシュウ)は、吉田幸三郎の友人でもあった。御舟が交通事故で左足首を切断するも画業の情熱は変らず、その後彼は幸三郎の妹・弥(イヨ、弥一郎の四女)と結婚し、吉田邸に新居を構える。そこで個展も主宰する。
焚き火に群がる蛾を描いた御舟の「炎舞」(山種美術館)は生と死との相克を迫ってやまない。大正14年(1925年)、家族と共に軽井沢に滞在して毎晩のように焚き火をしてそのスケッチをしたという。そういえば、わが常設焚き火場にも火に向かって飛んでくる蛾に驚愕したことがあった。
(愛知県美術館から)
御舟はそこで、目黒から西東京を望む郊外風景を描き、「林叢」のなかの洋館を抽出した作品も描いていた。それが当時としては珍しい洋館のある白金村なのだろうか。幸三郎は、御舟の鑑定や著作権管理者にもなっているばかりではなく、浄瑠璃の義太夫節以前に流布した三味線の「一中節」(都大夫一中が創作集大成)の保存や能の囃子方の後継者育成、さらには「大和絵」保存等日本の伝統芸術全般にわたって活躍・貢献している。
境界ウォークの当日、地元在住の星野光昭さん(画像右端)をゲストにお呼びした。星野さんの話によれば、吉田邸内には能舞台もあり、そこは子どもらの絶好の遊び場になっていて、森蘭丸の真似をしたりて遊んだこともあったと回想してくれた。ダンディーな星野さんは高貴さと柔和さで往時の長者丸のさわやかさを体現してくれたのだった。
長者丸に日本の文化を守り発展させた骨太の実業家と文化人がいたことをあらめて発掘した思いだ。それにしても今日の実業家は目先の利益ばかりを追い求めるていたらくは日本をますます劣化させている。そんなとき、長者丸の緑を奪い剥げ山にし高速道路外壁わきに記念碑を追い込んだ闇は、吉田親子の顕彰碑の前に立ってそこから日本と自分のあるべき方向を思念すべきではないか、と怒りが収まらない。