市井のダビンチさんの課題図書の三冊目『西部邁発言②「映画」斗論』(論創社、2018.5)を読み終える。脚本家・映画監督の新井晴彦が編集・発行人を務める映画批評誌・季刊『映画芸術』の掲載された座談会を編集したものだ。前回の文学論(発言①)より今回の映画論のほうが西部邁(ニシベススム)の弁舌は饒舌だった。
倒産すれすれの『映画芸術』誌を応援してきた異色の元文部官僚・寺脇研が映画通であった、というもう一つの顔を知れ得たのも収穫だった。寺脇研といえば、「ゆとり教育」推進で活躍した高級官僚だったが学力低下が問題となってパワハラの的となった。
そして、西部邁との長らくの盟友・毒舌の評論家佐高信も登場する。この三人が集まれば、立場は違うが左右の政治勢力を超えた論議が期待できる。本書の構成は 、1)映画と戦争、2)映画と社会、3)映画と家族、の三部構成となっていて、20本近くの映画について論評している。
1)「映画と戦争」での焦眉と思えたのは、クリントイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』だろう。左右の勢力から絶賛された戦争ものだが、西部邁は世論の迎合的礼賛に違和感を唱えるところが彼らしい。
2)「戦争と社会」では、宮崎駿監督最後の作品の『風立ちぬ』の「物足りなさ」が共通して出されていた。オイラもそれを感じていたがそれは何だろうか、というところでは踏み入っていない論議になっていたように思う。また、『沈黙ーサイレンス』(スコセッシ監督)、『沈黙 SILENCE』(篠田正浩監督) は、いずれも遠藤周作の原作。映画としては前者のスコセッシ監督のものを観たが、大いなる犠牲を払っている信者に対して「神はどうして沈黙しているのか」という問いが印象的だった。要するに、世俗を受け入れるか、絶対的真理を認めるかというところで論議が盛り上がったが時間切れ。
3)「映画と家族」では、小津安二郎監督の『東京物語』と山田洋次監督の『東京家族』との比較評論が鋭い。けっこう細かい場面まで触れながら山田洋次の軽さと小津安二郎の重厚さとを浮き立たせている。台詞を言わないで伝える小津監督の凄さは三人とも一致。辛口の西部氏は山田洋次作品を「まれに見る愚作でしたね」と一刀両段断。しかし同時に、「山田さんは、小津安二郎を受け継いでいるような気がします」という評価も忘れない。
現実の日本と自らの病気とに絶望していた西部氏は自死を決意しながらもこの会合だけは楽しみにしていたという。水を得た魚のように作品への鋭い視点と含蓄ある知識とを縦横に発揮できたからだろう。寺脇も作品の豊富な背景やコーディネートしていく力はさすが元官僚である。また、立場こそ西部と違うが佐高信のゆとりある見識も西部好みなのかもしれない。ところで、西部の自死を強力に止める人はいなかったのかが気になる。教え子は多いとはいえ「知の巨人」を失った後遺症は大きい。保守の論客ではあるがこれほど幅広い角度から分析できる評論家は見当たらない。もったいない。