MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

頓珍漢な日本テレビ人事部

2011-01-08 00:21:50 | Weblog

夏目三久アナすべて降ろされ寂しく退社(日刊スポーツ) - goo ニュース
羽鳥アナ退社と共に…「ズームイン」が終了(スポーツニッポン) - goo ニュース

 しかし日本テレビは自身の局アナウンサーの使い方が下手だとつくづく思う。羽鳥慎一が

フリーになることは、本人がアナウンサーを続けていきたいのであるならば仕方がないこと

ではあるが、たった一度の失態でアナウンサーとして有能なはずで華もある夏目三久を

十分に使いこなせないままみすみす放出してしまうということは本人でなくても納得いかない

であろう。青木裕子を何とかして使いこなしているTBSはその点に関してだけは評価

してもいいと思う。以前、日本テレビには角田久美子というアナウンサーがいて、個人的に

言葉のトーンが心地良いと思って気に入っていたのであるが、いつの間にかアナウンサー

から編成局の方に異動させられていて、その時から日本テレビの人材の使い方に疑問を

持っていたのであるが、相変わらずの下手さに呆れてしまう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ゴダール・ソシアリスム』 90点

2011-01-08 00:17:01 | goo映画レビュー

ゴダール・ソシアリスム

2010年/スイス=フランス

ネタバレ

映画史に残る‘予告編’

総合★★★★☆ 90

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 私にはジャン=リュック・ゴダールが監督する作品の物語を要約できる能力は全くないので、いつものように引用から始めたい。
 「全編が音楽的に三つの楽章からなるこの作品の第一楽章の『こんな事ども』では、地中海を周遊する豪華客船が舞台となっていながら、多国籍の乗客や船員や従業員にまぎれこんだ七十九歳のゴダール ー JLG自身は登場しないのだが ー は、一瞬もとどまることのない『時間』 ー 時刻を告げることのない時計が象徴している ー に同調しながら、『永遠』や『反復』を思いきり遠ざけている、『軽蔑』のゴダールがフリッツ・ラングにメガホンを託して撮ろうとしたギリシャ神話の透明性とはおよそ異質の混濁とした気配が、この水の拡がりを不吉に彩っているからだ。そこでは、アフリカがまたしても見捨てられ、オリエントの『西欧』としてイスラムがきわどく息づき、幾何学の起源としてのエジプトがその歴史を寡黙に誇り、ゼロやマイナスが東方から伝わってきたり、血なまぐさい十字軍の帆船が横切ったり、ペストが蔓廷したナポリもその水に浸されている。ところが、ここでの地中海は、ヨーロッパ文明の揺籃の海というより、人民戦線時代のスペインの黄金が何者かのかすめとられた現場として語られている。その意味で、このゴダールの新作の導入部は、都市伝説というか、ほとんど偽史ともいうべき ー 彼自身は、ジャック・タチから証拠品まで見せられたというが ー スペイン市民戦争にまつわる黄金の消滅事件を扱う探偵物語の形式におさまっている。なぜか豪華客船に乗り合わせているロシアの女性捜査官によれば、スペインからモスクワのコミンテルンをめざしたはずの金貨のかなりの部分がオデッサで失われ、ソ連の首都に到着する以前に大半が失われたという。他方、フランスの老捜査官は、その事件と無関係ではない人物が乗客にまぎれており、戦争中に独仏間で暗躍したこの男は、消えた黄金を隠匿して戦後にいくつもの製薬会社に投資して財をなしたという。しかも、何度も名前を変えたというその男の孫娘とともに船に乗っている、等々、と芸もなく物語を要約したのは、ときに難解といわれるゴダールが、単純明解な物語しか語っていないといいたかったからだ。」(映画時評25「海と黄金の彼方に、HDカムで撮られた最も美しい女性のクローズアップが浮上する」蓮實重彦 『群像』2011年1月号 P.189-P.190)
 『ゴダール・ソシアリスム』が‘単純明解な物語しか語っていない’というのは勿論蓮實重彦氏のいつもの嫌みであり、この作品が‘探偵物語’であるというミスリーディングを本気で信じ込んで登場人物たちのダイアローグを忠実になぞっていくならば、間違いなくいつの間にか館内の椅子でぐっすりと眠り込んでしまっている自分に気がつくはめになる。
 もしも敢えてこの作品を理解しようと試みるのであるならば、‘深み’にはまらないように心がけなければならない。第一楽章の「こんな事ども」において豪華客船に乗り込んでいる人たちは、あたかも人類の起源がアフリカから始まったように、様々な国籍を有した人々が再度人類の起源としての‘アフリカ’からのエクソダス(= Exodus 集団的大移動)を試みていると捉えるべきであろう(勿論それは人々だけではなく、群青色と化した海から救出するように『軽蔑』で撮られた地中海の海の青は豪華客船のプールの中にキープされている)。彼らはそれぞれが抱えている想いを吐露しているだけで、明確なつながりはない。
 第二楽章「どこへ行く、ヨーロッパ」において登場するマルタン一家は、豪華客船から‘新天地’に降り立った人々の内の一例として描かれていると捉えれば分かりやすくなるだろう。‘新天地’であるにもかかわらず、既に‘フランス’と‘ドイツ’は仲違いをしており、世代間でもいざこざが起きている。娘のフロリーヌが「BE動詞ではフランスは動かない」と言う理由はフランス語にはBE動詞と一般動詞の両方をつかう現在進行形という話法が存在しないためであり、‘BE動詞’からなんとか逃れようと、フロリーヌは読書に励み、息子のリュシアンは食器を洗っている母親にじゃれたり、音楽に合わせて棒を振ったり、絵を描いたりしている。そのような人々の葛藤を尻目にロバやリャマは悠々と‘BE動詞’を自適する。
 第三楽章「われら人類」のラストにおいて、おそらくゴダールがいつも警告を受けているであろう、FBIの著作権侵害の警告画面に、「法が正しくないときには、正義が法に優る」という字幕を被せて相変わらずの挑発を試みる。ここでマイケル・サンデル、あるいはジョン・ロールズならば「正義とは何か?」と問うだろうが、正義を定義する時には「正義とは~である」とBE動詞を使用しなければならない以上、ゴダールは「ノーコメント」を貫くことで、ゴダール流‘ソシアリスム’を提示するのである。
 傑作といってもかまわないとは思うが、非常に残念なことに本編よりも予告編の方が刺激的であった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする